8.旧市街

ドイツ編トップページへコーナーのトップページへ戻るHOMEへ戻る

←前へ戻る 次へ進む→


 習慣というのは恐ろしいもので、日本時間で午前11時、すなわち午前4時には目が覚めてしまう。ヒマなので今後の予定などをゆっくり立てながら、朝になるのを待つ。
 朝食は7時から、セルフサービスである。サラミにチーズ、パン、スープに飲み物やヨーグルトなど。事前に渡されたチケットを出し、追加でもらったオレンジジュースの分の金を払う。
 午前8時半、宿を出て、まずは目の前の停車場から出ている市電N番線に乗る。地図で確認したところによると、このN番線はそのまま、ウィーン中心部のはじっこにあたるシュヴェーデンプラッツという駅まで行くことが判明した。これからは行きも帰りも、このN号線が便利に使えそうだ。ここまで出れば、見どころは全て徒歩で回れる。

 旧市街はアップダウンが少しあり、その多くが石畳だった。ヨーロッパの都市というのはそういう風にできているものなのか、車の通る道は広く取ってあり、ところどころに大きな広場がある。そして建物はすきまなくみっちりと建っている。
 道路には路上駐車はあちこちにある。大通りの場合はパーキングエリアが設定されているのだが、小さな道ではなんでもないところに思いっきり停めてあることもある。しかしだからといって日本のような大渋滞が引き起こされているわけでもないのを見ると、どうやら車自体が多くないらしい。それだけ日本、特に東京は集中しすぎだ、ということであろう。

 まず最初に行ったのは、11世紀ごろ建造と言われる「ルブレヒト教会」。ツタの絡まる石造りの教会で、おおざっぱに言って縦長の直方体の塔と、横長の直方体の教会部分、というなんともシンプルな作りをしていた。
 教会から小さな通りを抜けていったところに、「旧市庁舎」があった。入り口の上に施された彫刻は、ポイントの小物に金があしらわれ、人物にもリアリティがあって、いかにもヨーロッパ、という雰囲気を醸し出していた。

 このような装飾は、ウィーンに限らず都市の古い建物には必ずあって、この「旧庁舎」の正面にある「旧ボヘミア官房」の入り口、100メートルほど離れたところにある「アム・ホーフ教会」の装飾、そして現在の市庁舎や博物館、国会議事堂に至るまで、面白いほどたくさんの人物像で飾られている。これらの像はたいてい金色に光る小物を持っていて、それも変にくどくない、絶妙のバランスを保っている。
 私の経験で言えば、日本の建築物の外装には、こういう人物像の装飾はほとんどない。というより、城にしても寺院にしても、公家や大名の屋敷にしても、外装は鬼瓦だったり破風の彫刻だったり、平面に彫刻されたものが多いが、ヨーロッパの場合には屋根の上に人物像がずらっと並んでいたり、壁から「生える」ように彫られていたり、もちろん柱にも壁にも立体的な模様が描かれている。比べてみると、日本の建築物の外装、というのは至ってシンプルである。
 これは内装にも言えることで、日本の場合はふすま絵や欄間、天井画のような平面のものが多いが、ヨーロッパ人はそれだけではあきたらず、部屋の四隅にはやはり天使のような像が「生えて」いたり、天井も立体的な模様が描かれて、その真ん中にフレスコ画が描かれている、という感じである。
 人物像の位置にも、大きな違いを感じる。
 日本の場合には、人物像はそのほとんどが仏像なのだが、多くは建物の中、それもど真ん中に鎮座ましましている。お寺の本堂のど真ん中に本尊があり、その周囲に脇を固める仏像が立つ。人は多くが壁際を歩いて像を見て回ったり拝んだりする。仁王門の像のような、建物に埋め込まれたような像もあるが、基本的に壁からは独立している。
 一方でヨーロッパの場合、像はどうも壁とセットになっているように見える。「旧市庁舎」の像にしても壁に密着していたし、「王宮」の外壁面に何体かある像にしても、壁にうがった穴の中に、壁に背中をつけるようにして立っている。そして教会の装飾にしても、側面や柱に人物が装飾されたり崇拝対象のものが安置され、そして一番奥の壁に”ご本尊”であるキリスト像がある。建物のど真ん中にどん、と立つことはない。広場のど真ん中に立っている像を除けば、たいてい彼らはいつも壁を背にして、背後からの攻撃を防いで(笑)いるのである。

 こちらの教会は、日本のように境内があって、という形にはなっていない。広場にいきなり建っている。強いて言えば、広場が境内、ということだろうか。
「ミノリーテン教会」に入ろうとした時にも、ドアの閉まっている石造りの建物を前に、果たして入っていいものかどうか、とても迷った。カーレンベルクの丘の時には、まだドアも開いていたし、観光客がどやどやと入っていってたから、何の臆面もなく入れたのだが、今度のはドアがばっちり閉まっていたのである。建物を一周して、入り口がくだんのドアだということを確認してから、意を決して入る。
 日本の寺院との一番の違いは、やはり建物の材質とその造りにある、と思う。
 日本の寺院の材質は主に木材である。障子などのしきりは和紙で作られ、床材は木かあるいは畳である。また湿度の高く温暖な気候のためか、建物の構造が開放的であり、窓というより外壁ががばっと開いてしまうような造りになっている。そのため全てを開くとびゅうびゅう風が通り抜ける。中国式の造りになっている建物でも窓は広く、風の通り抜けはよくなっている。そのため全体的に、開放的で楽観的というか、のほほんとした雰囲気がある。
 一方、ヨーロッパの教会の材質は石であり、床材から天井までだいたい灰色の重そうな石が使われている。それが天を突くように積み上げられているのだから、重厚な、という表現を通り越して重圧感すら感じる。出入り口は木のものがちょこっとあるだけで、窓もステンドグラスなどが高いところにあるだけで、これらの窓もがばっと開くことはない。自分の目の高さにあるのはひたすら石の壁である。完全に閉塞しきった空間で、それが天井までぶちぬきになっている――日本の場合には天井が高いと言っても大仏を納める堂ぐらいのもので、五重塔で中が全部ぶち抜きになっている、というのは私はあいにく見たことがない。ステンドグラスや「神」を表した様々な彫刻は、はるか高みから自分を見下ろしているわけで、自分がそれを見るには首を上に向けなければいけない。それらから受けるのはまさに重圧感、閉塞感であり、何もなくても自然と無口になる、そんな空間である。

(00/12/9)
このページの先頭へ戻る


←前へ戻る 次へ進む→

ドイツ編トップページへコーナーのトップページへ戻るHOMEへ戻る