私は二刀流(抽象表現と写生)の画家 
                       吉田敦彦

 
 例えて言うなら写生はブラックホール。抽象表現はホワイトホール。一方で吸収したエネルギーを他方で放出する。実際はその逆も行われているわけで、抽象と具象は車の両輪の働きをしながら私の美術活動をここまで推し進めてきた。

 
制作に当たっての実感では、「感動の表現」という点では共通しているはずのものだが、一方はモチーフという手本があってそこに感動の根源を探りながら写し取っていく作業であるのに対して、全て自分の内にある感動に判断の拠点を置いて、色彩を選び形態や構図を決めて行く抽象表現の作業はまったく異なった性格のものである。例えば、どちらかというと前者は相当の時間続けてもそれほどの疲労を感じないが、後者は苦渋の連続であり全身的な疲労感を生じしばしば(私は生来の胃弱だから)腹痛や下痢に悩まされる結果に見舞われると云うくらいに違うのだ。
 と云うことでこの両者はブラックホールとホワイトホールに似て、対照的な作業でありながら、しかしまたお互いにお互いを補完する性質の作業でもある。写生から得られる「色彩や形態への深く新たな感動」が抽象表現の幅を広げ、新たな戦いへの起爆力を育ててくれもするし、一方まっさらな空間に「自己の表現世界」を自由に創造していくことから得られる、空間や構成や配色などの創造的感覚が、自然に向かうときの感覚をも研ぎ澄まし鋭敏にしてくれる。その他いろいろな場面で両者はお互いに影響し合い、それぞれに新たな展開を推し進めることを可能にしてきた。
 
ところでなぜ私の表現は非形象(ノンフィギュラティフ)なのか具象表現の形をとらないか。 
 抽象絵画には基本的に二つの入り口がある。一つは写実から出発して形態を単純化し構成化して行く、つまり要点だけを抽出して行って純粋な空間構成にいたる方向である。キュービズムやモンドリアンのたどった道である。もう一つはカンディンスキーが音楽に基づいて行ったような内なる感動を色彩や形態の言語に移し変えていく方向であり、表現主義やシュールレアリズムの一つの形としても現れた道である。結果として空間構成の方向つまり「造形性」と、内面的な感動の表出つまり「表現性」の二つのからみあいから抽象絵画は描かれて来ている。またその過程から派生した中間的な多くの傾向も数多く生み出してきている。
 私も初めにあっては前者の道を辿った。大学生の頃であり、二宮不二麿先生の仙台美術研究所での加藤正衛先生の突き詰めた抽象構成との出会いが抽象絵画への入り口を開き、キュービズムにならって人体の構成化などを試みたのが始まりであった。その後シュールの影響も受け、当時流行のアンフォルメルやアクションペインティングの影響の中に、より率直な自己表現の道として、抽象表現の方向を選ぶことになる。大学卒業間近に地方新聞に掲載された自作への解説に
「キャンバスとの対話のなかに作品が形成されていく。作品の完成がイメージの完成である」と書いたがその制作態度は変わらず今まで一貫してきた。
 しかし実際の制作に当たっては絶えず水や地形や風や花弁や肌や内臓などなどの具体的なイメージを思いつつ描くのであって、その意味においては私の作品は全て具象絵画といっても良いのである。ただ明らかに目なら目、人なら人と分かるような形象を描くと、イメージはそれにとらわれて自由な展開を阻害される。私の望むのは極力狭い世界にとらわれることを避けての全く自由率直な表現であり、その結果として私の作品は一見純粋抽象のような形をとり続けているのである。
 一方
写生においては一切自己の勝手な解釈を入れずに、対象から受ける感動をいかに明快率直に表現するかだけを心がけてきたつもりである。その方がより多くのものを自然から得ることができると信ずるからである。
 花を多く描くのは、色彩の輝きを如何に表現すべきかという永遠の命題からであり、風景では山なり海なり樹木なり、自然の根源的な生命を感じさせる主題に惹かれる。人体を描くのもその一環である。
 全てのモチーフに共通しているのは光、特に陽光への共感である。絶えず変幻する光の、つまりは陰影の、微妙なトーンほど私の心を捉えるものはない。その意味で私の写生は印象派の末裔に留まっている。もちろんセザンヌやゴッホへの共鳴は、配色や空間の構成に色濃く影を落としている。生来の手先の不器用には悩まされてきているし、あまり長い時間をかけられないから上手な仕事や緻密な仕事はできないが、どこまでも自然への率直なオマージュとして見て頂ければ幸いである。
 なお
写真に対しても上記の写生への態度と共通する関心から愛着を持っているが、また「写真は決して真を写しはしないもの」と判断しており、構図と配色が効果的に捉えられたときのみ作品としての価値を持ちえるものと思っている。
 結局スケッチも写真も自然への感動を深めるための作業であるが、スケッチのほうがより深い観照をできる点において勝っているとは思う。 

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03-11・苦い淵  
F130 アクリル

03-7・いのち・未成年 
F150 アクリル

02-10・死ぬな
F50 アクリル

02-11・Jazz
F100 アクリル

秋峰(駒ケ岳) 
F10 油

安良里・春・午後
F10 油

遊蝶花 F6 油

晩夏の花 F6 油

立像 P8 油

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