二宮不二麿と仙台美術研究所

日曜の午後、子供たちの歓声もない静かな保育園の狭い園室。並んでいるのはおもちゃのような小さな机と椅子。奥に着衣の若い女性モデルがじっと腰掛けており、3人か4人の生徒がその小さな椅子に腰掛けたり立ったままでその女性を木炭で描いている。画架は折り畳みの野外用のもの。画板はベニヤ板を切ったもの。窓からの外光が主な光で夕暮れになっても電灯はつけなかった。その薄暗い隅に一人の男がじっと座っていて、たまにぼそぼそとずーずー弁で質問に答えたりしていた。

仙台美術研究所は1951年に開講したと記録にある。無料で使える会場を探して、はじめは大学の医学部の学生ホールを使ったりしていたが、間もなく紹介する人があってお寺の経営する保育園に移った。その後も何箇所かを転々としたらしい。いずれにしても多くて5−6人、少ないときは2人くらいの受講生しか出席せず、月200円の受講料ではモデル代にも満たなかったのではないか。

この研究所の講師でありながら集金やモデル探しなど運営に関する全てを一人でやっていたのが二宮不二麿先生。毎回のモデル探しには苦労していたらしい。普段は隅にもっさりと座っているだけであまり細かい指導はしなかった。石巻の出身で松島の手樽に住み、石巻や仙台の2−3校の高校の美術科非常勤講師を勤めながら日曜日毎この研究所に通ってきていた。

もともと彼が教えた高校の美術部のOBの何人かが、大学に入ってからデッサン指導を彼に頼んだのが始まりらしい。だからその後も受講生は彼が教えた高校の卒業生が主で、大学生が多かったから、どちらかと言うと知的雰囲気が高く、それぞれ勝手に個性的に描こうとし、前衛を気取るものも多かった。

先生は受講生たちの勝手な試行をじっと黙ってみていた。むしろその勝手さを楽しんでいるようだった。年一回の発表会(研展)とたまに開かれる合評会では独特のイントネーションの仙台弁で的確な批評を「ほでねがすぺか」などとしめくくるのだった。

普段の授業にはあまり顔を見せない受講生も、研展の時は集まってきた。市の公会堂の展示室の壁一杯に持ち寄った作品を並べ、日中は会場の一隅の溜まり場で雑談などでなんとなく過ごし、初日の夜は会場での合評会兼懇親会で盛り上がった。このときは市内の二宮先生の応援団のような一群の絵描きたち(加藤正衛、松倉x造 、上田耕作、佐藤明、粟野耕介など)も賛助会員として出品しており、それぞれに画論や出品作の感想を述べたりした。

この研究所は二宮先生が脳卒中で倒れられるまで約25年にわたって続いた(研展は54年から17回まで)。ホソボソ続いたにしても、この間に相当数の受講生を出しているわけで、宮城県美術館が二宮不二麿、大沼かねよ、加藤正衛の3人展を’93年に行った際に同館内の市民ギャラリーで開催した「二宮不二麿をめぐる人々展」には受講生OBの50人近くが出品している。中に佐々木正芳(自由美術)佐々木あゆみ(自由美術)上田朗(独立、心象)穂積和夫(イラストレーター)横山幸雄、牧野文雄、下島恒夫(建築家)、大井浄(デザイン事務所主催)、佐藤一郎(芸大教授)、池田伯、桜井忠彦(行動美術)、高橋貴和、檜野武彦、松倉藍輔等の名が見える。

私(吉田敦彦)は’55年から’60まで大学在学中に受講生として、またその後10年近く研展の出品者として参加した。二宮先生との出会いは仙台二高においてであり、3年遡る。この出会いがなかったら私は絵の道に進みはしなかったろうし、加藤正衛先生との出会いがなかったら抽象絵画に歩を進めることもなかったろう。

二宮不二麿は明治38年(’05年)に宮城県の石巻に生まれている。仙台第2中学校を出て上野の美術学校に進み油絵を学んだが、卒業後は朝鮮の平壌で中学校の美術教員を勤め、第2次大戦後シベリヤ抑留を経て46年帰国。48年仙台二高の美術科教諭になるが51年には講師になり、名取や石巻の高校の講師も兼ねる。

仙台辺りでは貴重な美術学校出であるが、松島の片すみの田舎に住み畑仕事もしていたようで、浮世から離れた存在であった。美大の一年先輩に山口長男がおり、たまたま会ったときに私が聞いたら「二宮は卒業後消えてしまったよ」と言われた。美校の同期には猪熊弦一郎や大沢昌助がおり、昌助とは帰国後も親交があったようだ。

なぜ、まるで画壇への道を絶つかのようにして卒業後直ちに平壌に行ってしまったのか、そして復員帰国後も一切中央の画壇に目を向けなかったのかはなぞである。たまたま高校時代の文集に寄稿の一文に、美校に進むことが親を裏切ることになることで苦しんでいたような節が垣間見られるところから、画壇より美術教育者への道を選んだ理由がその辺にあるのかと思われるのだが。

シベリヤ抑留中は画家としてスターリンの肖像などを描かされていたようで、比較的苦労は少なかったのかと思う。帰国後の生活は講師の薄給だけの貧しいものであった。

デッサンの指導については誤りを指摘するのではなく、それに気付くようにしむける一見迂遠な指導であり。高校の生徒にはできるだけ自分の作品を見せまいとするようなところもあり、自分のテクニックを押し付けるようなことは一切しなかった。その独特の風体と頑丈素朴な体つきから私は芸術家というようなしゃれた存在ではなく、種をまいて肥料を与え雑草を除きじっと見守り収穫を待つ農夫を連想したものだ。とはいえ時に思いがけぬ厳しさもあって、美術教育者としてはまことに貴重な存在であったと思う。

以下に彼の作品をいくつか紹介するが、有名な観光地松島の一角に住みながらごくありふれた田園や海浜の姿を好んで描き、地味で華やかさのない作品である。しかし油絵の具の特質をしっかり生かした強固なマチエルであり、ときに空間構成への冒険的とさえ思える試行が行われている。一時期キュービズムから抽象への傾斜を強めたこともあり、加藤正衛との交友や若い研究所受講者たちからの影響をも感じさせる。


自画像(美校卒業制作)P12  1928年

ポーズU
F12  56年

風景
P30 56年


F50  57年

風景
M30

静物
P25

浜作業
M100  66年

風景
F50  70年

手樽干拓地A
F50  70年

浜で

椿
F6  70年

風景
F12

手樽干拓地C
F30  71年

風景
F10

揚水場風景
F30  74年

モデルが見つからないときは石膏像デッサン

研展会場で、加藤正衛(左)と二宮不二麿

仙台市公会堂での研展会場風景(1959年)

同左 57年

合評会(59年)

懇親会での勢揃い(57年)

研展出品作の前の二宮先生

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