宿屋に戻り、自分の部屋の扉のカギを開けて中へ入ると、ダージリングティーのふくよかな香りが不意にリリーの鼻腔をくすぐった。
「あら。リリーお帰りなさい。」
「あ!ただいまです」
反射的にそう答えてお辞儀してしまう。でも、ちょっと待ってとリリーは思う。
(ここはわたしの部屋で、わたしの部屋の窓辺で椅子に腰掛けてティーカップを優雅に傾けているお方は・・・)
「夜魅さま!」
驚いてしまってつい叫んでしまった。
「うん?何?リリー?」
自分がここにいるのがそんなにおかしいのかしら?といった感じの夜魅の口ぶりだ。一瞬考えた後、この現状を理解したリリーは、
「な、なぜ夜魅さまがこちらに?」
「なぜって。決まってるでしょ?リリーをもっとよく知りたいから。リリーにもっとアタシを知って欲しいからじゃない」
変なことを言うコね、と言ってクスクスと夜魅は微笑んだ。気がつくとシングルルームのこの部屋にベットがもう一つ運び込まれている。お陰で狭いこの部屋はベットが大半を占めてしまっていた。金魚のように口をパクパクさせているリリーにしれっと夜魅は言う。
「ここの宿屋の支配人とは知り合いだからね。無理言ってベット運ばせたのよ」
多分嘘だろうとリリーは思う。こんな美人にお願いされたら世の男性は間違いなく素直に従ってしまうだろう。もしくは
『白薔薇』
さまの命令として無理やり納得させたのかもしれない。普段の本を読んだり、今みたいに紅茶を優雅にたしなんだりしているお姿からは想像出来ないほど意外と行動的なお方である。
「どれ。じゃあ温泉行って汗流そうか」
夜魅は椅子を引いてスッと立ち上がると持っていたティーカップを自分の傍らに移動させた丸テーブルに置いた。
「あ。いえ。きょ、今日はそのシャワーにしようかと思いまして・・・」
昨晩恥ずかしい思いをしているのでしばらくはあの温泉には行かないとリリーは心に誓っていた。
「あらぁ。残念だけどシャワーは使えないのよね」
「え?」
夜魅の言葉の意味が分からない。シャワーが壊れたのかしら?そう思いながら浴室の扉を開ける。
ボスン!肩に掛けたままになっていたリュックと一緒にリリーはその場にへろへろと座り込んでしまった。浴室の扉を開けたリリーがそこで見たものは、器用に張りめぐらされたロープに吊るしてある溜まったままになっていた自分の洗濯物だった。アコライトの聖衣服の他にも当然自分の下着も干してあった。
「リリーってば意外と不精ものね。洗濯大変だったんだから」
いつのまにかリリーの後ろに立ち、夜魅がクスクスと笑う。
浴室の中を指差しながら「あうあう」と声にならない言葉を発してリリーは目を潤ませた。聖衣服だけならまだしも自分の下着まで洗濯されて、恥ずかしくて体に力が入らず立ち上がることさえ出来ない。
「ん?あの下地が黒に紺のレースを重ねて、サイドのサテンリボンなど細かいディテールもキュートなあのショーツ?分かってるって。あれリリーの勝負パンツでしょ?」
(違う!そうじゃなくて下着を洗濯されたことが恥ずかしいんですよ。夜魅さま〜)
「と言う事はあのショーツをはいている時は襲っちゃってもいいってことね」
(ですから違うんです)
ますます顔を赤らめながらリリーは心の中で叫んだ。
「でも、リリーの下着。リリーの匂いがしてちょっと変な気分になっちゃった」
湯気が出てきそうなほどリリーの顔はさらに赤くなっていく。
「と言う訳だからほらほら温泉行こ♪」
夜魅はあらかじめ用意しておいた二人分の入浴セットを小脇に抱えて、リリーの手首を掴み鼻歌を歌いながらずるずると引っ張る。
「アタシも洗濯して汗かいちゃったから。早くさっぱりしようね〜」
夜魅は意識があさっての方向へ飛んだままのリリーに楽しそうに声を掛けながら、そのまま銭湯まで引っ張っていった。
夜魅がリリーの部屋に押しかけてからすでに一週間が経った。変わった事といえば例のシングルルームからツインルームに部屋を変えたこと。さすがに一人部屋に二人で住むのはちょっときつかった。
一週間目のその日の朝。教会の鐘の音が七回鳴るのを合図にリリーは目覚めた。まだ脇で寝息を立てている夜魅を見つめながら「ごきげんよう」と小声で挨拶をする。夜魅の綺麗な寝顔を見ながらリリーはこの一週間の事を思っていた。
この一週間でわたしは夜魅さまの色々な事を知りました。
夜魅さまはわたしとは逆で朝が弱い事。初めて一緒に狩りをした時はきっと無理をして起きられたのでしょうね。いまだにその事は心苦しく思っています。
わたしは冬が苦手で春が好き。夜魅さまも冬が苦手ですよね。そしてきっと夏が好きなんですね。ようやく最近温かくなってきたとはいえまだまだ朝晩は冷えますよね。夜なんて夜魅さま部屋の暖炉の前を占拠して動こうとしません。わたしも寒いんだけどな。
わたしはそれほど好き嫌いはないんですけれど夜魅さまは多いですよね。例えば夜魅さまはイカが嫌いですよね。でもタコは好きなんですよね。宿屋の食堂でわたしがプラムック・グルアイ(イカの肉詰め)を食べている時、「よくそんなゲテモノ食べられるわね」なんて言ってましたけど、そういう夜魅さまはタコのカルパッチョを食べてましたし。その事を指摘してみたら、「タコは赤いから体にいいのよ」なんて根拠の無い事を仰って。でも大物が言うと妙な説得力があって納得してしまいましたけれど。
そして、詳しく話してはくれませんでしたけれど乃百合兄君様とお知り合いだった事。いつかその事をお話して欲しいな。
本当に色々な発見がたくさんありました。おそらくそれは夜魅さまも同じだろうと思います。けれど、わたしは感情がすぐ顔に出るし、時折みせる夜魅さまのなんでも見透かしてしまうような視線。わたしが夜魅さまの事ををやっと半分知ったとすれば、夜魅さまは自分の事を百も二百も知ったのかもしれませんね。こんな何の取り柄も無いわたしの事をいっぱい知っても変わらず優しくしてくれて嬉しくて泣いちゃいそうです。
この一週間の間でやっと夜魅さまの瞳を見つめてもしどろもどろにならずにお話が出来るようになったけれど、でも夜魅さまを知れば知るほど、夜魅さまの心の中にはなぜかこの先には立ち入れない壁みたいな物が存在しているような気がします。どう表現していいのかわからないけれど、どこか寂しいそうなそんな視線をたまに見せますよね。夜魅さまは無意識のうちでお気づきでないのかもしれませんが、少しでも夜魅さまのような素晴らしいお方になりたいから、いつでもわたしは夜魅さまの事を見ているんです。だからa哀愁をおびたその視線に気がつく事が出来たんだと思います。わたしに出来ることがあれば力になりたいから夜魅さまの心にある壁の向こうを話して欲しいとは思いますけれど、人には触れられたくない事が一つや二つはありますよね。きっと夜魅さまも例外ではないと思います。だから無理矢理聞き出そうとは思いませんし、してはいけないと思います。けれどもしその事が重荷になって誰かを頼りたい時にわたしがお側に居られたらいいな。
ううんと寝返りを打つ夜魅を見てリリーはそっと微笑んだ後、ベットから抜け出し、服に着替え顔を洗い、一階にある食堂へ二人分の朝食を取りに部屋を後にした。
夜魅は起こしてくれていいのよ、と言ってくれたが、わたしの面倒を見るのにお疲れでしょうから、と折角の申し出を退けてこの一週間宿屋の食堂へ朝食を取りに行って部屋まで運ぶのがリリーの新しい日課になっていた。
今朝もいつものように食堂で二人分のサンドイッチを買っている時、遠目で自分を見ている二人組みのアコライトがいることに気がついた。気にしないようにしていたがこそこそと話す声が嫌でも耳に入ってくる。
「あのコじゃない。うまく
『白薔薇』
さまに取り入ったの」
「ホント羨ましいわね」
そんな批難にはこの一週間の間で随分聞き慣れて免疫が出来たといってもやはり気分がいいものではない。朝から憂鬱な気分になりながら二人分のサンドイッチを紙袋に入れて、部屋まで戻る。
部屋の扉を開けるとダージリングティーの香りが部屋中を包んでいた。リリーが買い物に行っている間に夜魅が起きて紅茶を煎れて帰りを待つというのもこの一週間の間に出来た新しい習慣だった。
「ごきげんよう。夜魅さま」
「ごきげんよう。リリー」
挨拶を済ませてからテーブルの上に紙袋を置き、夜魅の分のサンドイッチを紙袋から取り出して彼女の前に置き、今度は自分の分のサンドイッチを取り出して目の前に置いてリリーは椅子に座った。紙袋は丁寧にたたみテーブルの脇へとそっと置く。
「いただきます」
お互いそう言いながら両手の指を組んでマリアさまに祈りを捧げた後サンドイッチを食べ始めた。
「リリー?どうしたの?」
先に食事を終えて、ティーカップを片手に持ちながら夜魅は首を傾げる。
「あ!いえ。なんでもありません」
自分の心の中を見透かされているような気がして、口に物が入っているのも忘れてリリーは慌てて答えてしまう。
「ふ〜ん」
そう言って紅茶を一口含み、喉を潤してから夜魅は言葉を続けた。
「何か元気なくてよ。風邪でもひいたのかしら?」
「いえ。そのホントなんでもありませんから」
目を合わせながら話をすると心の中を読まれそうで自然とリリーはうつむいてしまう。その様子を目を細めながらじっと夜魅は見つめる。リリーはまるでヘビに睨まれるカエルだった。
「また何か言われたんでしょ?気にすること無いのに」
ドキッとして顔を上げたそこにはニコリと微笑む夜魅がいた。
「アタリみたいね」
夜魅さまの前ではやっぱり隠し事は出来ないなと思いながら、リリーは観念して先ほどの食堂での一件を話した。
「何度も言うけれど気にする事無いのよ。アタシがリリーを気に入っているんだから」
「でも、わたしじゃその・・・やっぱり夜魅さまにはふさわしくないと言うか何と言うか・・・」
食事を途中で止めてうつむくリリーの頭をテーブルの向こうから身を乗り出し腕を伸ばして夜魅はそっと撫でながら、
「ふさわしい、ふさわしくない、そんな事誰が決めたの?ふさわしくないと思うんだったらどうやったらふさわしくなれるのか考えなさい。アタシはリリーだったらアタシの事を支えてくれると思ったから、だから『妹』に選んだのよ。アタシの人を見る目を疑うの?」
「疑うなんてそんなこと・・・ただわたしよりももっとふさわしい方がいるんじゃないかと・・・」
「あ〜あ。やっぱり上手くいかないものね」
リリーの頭に乗せた手を離し、自分の椅子に座り直しながら夜魅はため息をつく。
「さっきの台詞。先代
『白薔薇』
さまがアタシに言ってくれた台詞を引用したんだけれども。アタシはそれで『お姉さま』の『妹』になったけれど、リリーには通用せず・・・か」
夜魅さまにもあたしと同じように悩んでいた時期があったなんて意外だな、そんな事を考えながら、
「申し訳ありません。もうしばらく時間をいただけますか?」
リリーは夜魅の顔を上目遣いで見つめながら今の自分にはこれが精一杯の返事を返した。
「分かったわ。でも自信なくなっちゃうわね。『お姉さま』はアコライトとプリーストの違いは人の心まで癒せるかそうじゃないか、っていつも言っていたけれどアタシはリリーの心を癒せていない訳だし。まだまだ『お姉さま』にはかなわないわね」
そう言いながら夜魅は苦笑いをする。
(きっと夜魅さまの『お姉さま』も素敵なお方なんだろうな。だって夜魅さまにここまで言わせるお方なんだから。機会があったらぜひお会いしてみたな)
ばつが悪そうに頭の後ろをかきながらリリーは夜魅の苦笑いを見つめた。
「でもアタシは諦めないからそのつもりでね。さ、早く食べて狩りに行きましょうか」
(こんなわたしを慕ってくれるなんて嬉しいけれど、でも今のわたしじゃダメなんだ。そう考えるとやっぱり悲しいな・・・『ふさわしくないと思うならならふさわしくなれるように考えなさい』・・・か・・・)
頭の中で何度もその言葉を繰り返し、リリーは最後の一切れを口に運んだ。
2003年6月20日 公開
協力
英語訳:ミセス・ロビンソン
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