いじめはなくならないし、なくすことは不可能であると考えています。
力のある人が指導に入れば、その瞬間はいじめは解消されたかのように見えるかもしれませんが、一時的なものです。
指導者も教育者もそれで満足してしまいます。
一時的にリセットされ、再び人間関係の優劣や順位の争いが始まるだけなのに……
ここで怖いのは、「自分がいじめの標的となる前に、別の誰かをいじめておこう」という積極的な行動が起こることにあります。
とりあえず立場の弱そうな人に目をつけて結託し、暗黙のうちにターゲットを選んでしまいます。
いじめをなくすために特定の人物をいじめの標的とする……。
自分がいじめの標的から逃れるために、自分以外を攻撃する……。
そもそも学習の「成績」や体育等の「競技」が優劣や順位を争うコンテンツであるから、それをなくさない限り人々が何らかの分野で攻撃的になることは避けられません。
いじめをなくそうとしている学校教育の現場こそがいじめを発生させているといっても間違いではないのです。
いじめがなくならない別の要因としては、「自分はいじめられている!」と主張すればいじめが成立してしまうということが挙げられます。
たとえば先生から何か注意を受けたのが気に入らなかった場合、誇大表現して「先生から暴力を振るわれた!」と冗談でも騒げば、それを知った人のうち何人かは本気でいじめがあったと感じるでしょう。
その何気ない冗談に尾ひれがつき、本当の事件に発展することもありえます。
いや、正確には何事もなかったのに事件であるかのように認識されてしまうのです。
いじめというのは本質的になくせないものであること。
「いじめ冤罪」も相当ある可能性があること。
まずこれらをはっきりと区別しなければなりません。
一時的であってもいじめがなくなればいいと考えるか、根本的に解消しなければ気が済まないのか。
先生も大変ですね。でもその覚悟のある人だけが教員免許を取得できるようになってもらいたいものです。
「子供が好き」とか「人に教えるのが得意」というだけで先生になろうなどと思わないことです。
そのうち人工知能のロボットが学校の先生に取って代わるかもしれませんね。
個人差の大きい人間を教育者とするよりもロボットのほうが好都合でしょう。
それはそれで恐ろしい、もっと別の問題が起こりそうなので当分は無理だと思いますが……
学力の定義は昔のままでいいのか?って思います。
学力の定義や意味するところは時代によって変わるはずなんですよね。
学力が「みな一様に低下」しているのなら、それはもはや低下ではなくそれが新しい定義というか基準というか、新しい時代における学力の概念になってくるのではないでしょうか。
古典的な「学力」で高く評価されている人々がはたして本当にまともな業績をあげているのかどうか疑問です。
学力の高くない人々がスマホに関連する分野で活躍しているとすれば、それを取り上げて「学力の低下がーーーー」というのは野暮な話です。
何かにつけて「平均」や「基準」を持ち出すのは人間の悪いくせですね。
平均に近ければ近いほどいいのかと思えば、たとえば身長は「平均以上」を求めるし、体重は「平均以下」がいいという。
所得は「平均以上」であればあるほどいい。
うーん……平均ってなんなのでしょうね????????
私が平均より高い(優れている)分野なんてないからわかりませんwwwwww
まず「平均」がなんなのか理解できていません。
合計を人数で割った数だといわれても、そもそも人の身長や収入を単純に「足して割る」ことができるのかどうか疑問だからです。
チワワとドーベルマンの体高の平均なんて求めても意味がありませんよね?
チワワ同士、ドーベルマン同士の平均なら意味があるかもしれませんが、異なる犬種の大きさを足して数で割っても何を計算しているのかさっぱりわかりません。
またチワワとドーベルマンのミックス(交配種)を「平均」とみなすこともできないでしょう。
「人」には犬ほどの多様性はないように見えますが、同じ人種、同じ国であっても身長や体重はかなり違うし、「学力」はもちろん、所得もぜんぜん違います。
だからそれを単純に足して数で割ることに何の意味があるのか……甚だ疑問なのです。
「スマホの普及で学力が低下しているから規制しよう」というのは浅はかな考え方です。
スマホに熱心に向き合うことによって得られている情報や能力、経験、新しい文化や概念を無視して、学力で程度を測ろうとするのはいかにも学力の低い人間の発想ではありませんか。
規制することが「健全」だとする考え方も私にはさっぱり理解できません。
ひたすら都合の悪いものを規制し、排除し、利用させなくする対策をとり続けると一方的にエスカレートさせるしか道がなくなります。
暴力で人を従わせるシステムを作ると、従わない場合、暴力を激しくするしかないからです。