幸福を感じる水準が高くなればなるほど、それに達しなかった場合に不幸になる。
現代人の感じる「不幸」の正体はこれである。
いたずらに幸福の水準を高くするのは不幸な人を増やすことにつながり、
ますます競争を激しくし、格差を広げてしまう。
以前にも書いたような気がするが、いったん高くした水準を下げるのは困難を極める。
水準を下げること自体が「不幸」だと感じてしまうからだ。
実際に水準を下げなくても、そう感じてしまうのだ。
ということは、そもそも幸福の水準を高くしたことが悪の元凶なのだろうか。
人々の「幸せになりたい」という願望こそが不幸の原因なのだろうか。
いや……そうではない……
じゃあ不幸になろうとすれば幸福になれる!!!!わけがないからだ。
幸か不幸かは客観的に判断できるものではない。
自分しだいだ。
人からよく思われようとすれば、それは自ら不幸に陥るきっかけを作っていることになる。
ときには自分勝手に、自己中心的に、周りのことなど気にしないで生きていたほうが
よほど幸せになれるということを覚えておこう。
実のところ物事を肯定ばかりしていても発展しない。
ある商品を買って「満足した」「不満はない」とだけレビューすると、それ以上のコメントをしづらくなってしまう。
そこで「あえて」悪いところや不満足な点を探してレビューする。
どうしても見つからなければ揚げ足を取るつもりで探す。
「値段が高いのが不満だ」「もう少し安くなれば」というのもいいだろう。
不満となる点に着目しているからといって本当に不満に陥っているわけではない。
対外的には「多少の不満」があるようにしなくては発展がそこで止まってしまうからである。
このように書くとなかなか難しく感じるかもしれない。
永遠に不満を感じたまま生きなければいけないのか?と思う人もいるだろう。
繰り返すが、それはあくまで「対外的」なアピールである。
自分自身は嬉しくて楽しくて満足感を味わうことが望ましい。
人や社会の悪口、欠点の指摘、商品レビューでも悪いところを取り上げる……
それは、褒めたり長所を強調したりすることよりも効果的で、強いアピールとなり、注目される。
真実を伝えることよりも、歪んだことを伝えるほうが視聴者には受けがいい。
人は必ずしも真実を知りたいとは思っておらず、自分の「信じたい」ことや「信じていることを一般化させたい」という思いがあり、
必然的にそういう方面の需要が存在している。
たとえば心霊写真や超常現象。
それが別に本物であろうがなかろうか、番組や演出にワクワクしたり、インチキを暴くために躍起になったりすることによって盛り上がり、
白熱した議論や、自分でも心霊写真を撮ろうとしたり、スプーンを曲げようとしたりすることで娯楽や経済の一部となる。
心霊写真を否定するのは、先に心霊写真の肯定派がそのための話題や舞台を提供しているからできるのである。
つまり肯定派がいなければ否定派も存在できず、「ディスる」ことも煽ることもできなくなってしまうのだ。
世の中に「否定派」や「ディスる人」が多いと感じるなら、それだけ肯定派がいるということなのである。
たとえばアスペルガー、発達障害者も「個人」として見れば「個性」の範疇にある。
しかし人間の集団的・社会的な生活においては個性では済まされず、どうしても「正常ではない」ものとして扱わなければならない。
病気の判定や対応にせよ、精神医学や保健福祉のあり方にせよ、それらのものが目指すところは「人が社会生活を営むうえでの標準化と正常化」にあるんですよ。
生物として何が優れていて何が劣っているのかというのは、それを判断するのが「人」である限り、すべて人の都合で決まってきます。
今でこそ人種差別や身体的差別は厳しく禁じられていますが、未開の土地では「ひげの長い男性ほど優れている」とか、
「足の小さい女性ほど素晴らしい」といった認識が伝統や習慣に根付いていることがあります。
私が自分を正常な人間である、と言ったとしましょう。
正常だと主張するのは自由ですが、実際に私が社会でそのように振る舞えば迷惑であり、害悪でしかありません。
そうであるなら、人間として社会的に生活するうえでは「障害」と認識し周知するのは自然なことであって、
それに逆らって生きるのは間違いだということがわかるはずです。
個人として見れば個性であっても、人は社会性を無視して生きることは不可能であるため、
多数派の意見として暫定的に「障害」とか「健康」とか「要注意」などと分類する必要があるのです。