あうちすむ - 新アスペルガーコラム

「私もADHD!」…当事者の描く4コマ漫画

2017/11/30

マイナビニュースで連載されている「私もADHD!」(https://news.mynavi.jp/series/adhd/
ADHDとアスペルガー障害は同一ではありませんが「あるある」と共感する内容のものが数多くあります。
・第2回:名前を忘れてしまった人への対応
・第3回:視線を合わせるのが苦痛なときの対処法
・第12回:栗原類さんの著書で蘇る過去の記憶
・第17回:上手にメモが取れることへの疑問
・第18回:頻繁なケアレスミス
・第22回:母の愛情へのいら立ちに自己嫌悪
・第23回:私を惑わす周囲の音
・第28回:私の体力を奪う忘れ物対策
これらの話が特に当てはまりますね……

写真では見分けられるのに、現実の人の顔と名前がなぜか覚えられないのです。
明らかに以前会って名前も聞いている相手なのに、その人と名前が結びつかない……これは非常に困っています。
視線を合わせるのが苦痛なために対面ではまともに会話できません。
過去の嫌なことがフラッシュバックされてイライラするのもしょっちゅうあります。
メモを取ってもまったく有効に利用できません。最初から文書にしてもらいたいです。
ケアレスミスは本当にヤバイ。言葉の意味を独自に解釈してとんでもないことになりました。「推薦入学」とか……立候補の反対だとばかり思っていました。
短気でヒステリックなところは母親似、自分勝手なところは父親似だと思います。一般社会では非常に不利となります。
「音」はもううんざりですね……ヘッドホンによる防御が必須です。
ああ…忘れ物を防ぐためにカバンに何もかも詰め込んで登校していましたね。なぜ教室で保管しないのか理解に苦しかったです。

「ああ…自分以外にも同様の障害で苦労している人がいるんだなぁ」
という認識によって苦痛がいくらか楽になることもありますが、
「上手く対処して生活できる人もいるのに、自分は今後も変わらず苦労しなければならないのか…不公平だな…何が明暗を分けているんだろう…」
とかえって絶望してしまうことがあるのも事実です。
残念ながら私にはまだ救いの手が差し伸べられていません。
周りの人が思っているよりもはるかに私は不器用であり、成長限界が低く、無理なことがたくさんあります。
いまだに「やればできる」という勘違いが横行し、問題の本質を理解してもらえないのが悲しいことです。

この記事は久しぶりに「新アスペルガーコラム」に追加することにしましょう。
なんと6年ぶりの更新です。

物心ついたころから「人に手柄を譲るようなまね」を…?

11/17/2011 00:00

自閉症・アスペルガー症候群は「生まれながらの民主主義者」などと形容される場合があります。

私は物心ついたころから「適材適所」という概念をよく理解していたつもりで、
「自分にはできないこと」や「自分には適切ではないこと」を避け、適材適所に役割を持たせるべきだと考えていました。

たとえばここに「新鮮な寿司ネタ」があるとします。
私はそのネタを仕入れることができるのですが、実際に調理するのはへたくそなのです。
私が寿司を握っても、そのネタは台無しになってしまいます。
そこでどうするのかというと、
寿司を握るのが上手い人にネタを譲る。

別に、私が利益を得る義務はないと、ずっと思っていました。
私のネタを使うことでその人が出世するなら、それでいいと思っているのです。
あとから何か請求するつもりはさらさらありません。

私はそれで何の問題もないのに、どうしても人間の一般社会はそうではない、といいます。
どうしても調和しません。
適材適所の何がいけないのか……

短期記憶の障害とは?

11/13/2011 00:00

唐突に更新してみました。

クイズやパズルの雑誌などに「迷路」の問題がありますよね。
瞬間的〜短期的の記憶に障害があると、この迷路を解くことが非常に難しくなります。なぜでしょうか。
迷路にペンで書き込みをするならともかく、「目」で追っていくだけでは「どこまで進んだか」を忘れてしまうからです。
自分の経路を見失うので、どこからやり直せばいいのかもわからなくなり、その結果、迷路を解けなくなるのです。

うちにはネコが4匹います。
もちろん見分けることはできます。
しかし短期記憶に問題があると、ネコがその場を移動したり、自分で抱いて移動させたりしたことを“忘れてしまう”ので、
そこにはいないのにネコの名前を呼んでしまう(^o^)/オーイ……という変なことが起こるのです。

私は数を数えることが苦手です。
数字がわからないということではありません。
1から順番に数えていると、12345678910…と1の位はスムーズにいくのですが、
20、30と10の位が上がっていくと、どこまで数えたのかを忘れてしまうからです。
指を折るなり、何かに書き留めるなりしなければ、100まで数えることさえままなりません。

覚えることが苦手というより、「現在進行形で忘れていっている」と表現したほうが適切なくらいです。
ほかにも暗算ができなかったり、鉛筆や消しゴムをちょっと手放しただけでどこに置いたかわからなくなってしまったり、
電話番号を暗記できずに何度も見直したりするようになっています。

更新を怠っていたわけではない?

私に限らず、アスペルガー症候群の当事者は少なからず「自己中心的」です。

話題に上ることすらなかった理由は、極端に自己中心的な性格であるために、自分の自覚すら失ってしまったためです。

そう。悪く言えば、こういうことになるのです。

当事者もそうでない人も、「第三者から悪く言われる」ことはさんざん経験していると思います。
いつも悪い部分だけが注目され、ひたすら叱責されたり、謝罪を求められたりした経験が、「もううんざりするくらい」あったはずです。

決して悪いことがあったわけではない。

理解のある人なら、「どうして自分の障害を忘れることができたのか」「よほどラッキーなことがあったに違いない」…
と思われるでしょう。

「自分の都合」で動いているのではなく、自分の「周囲の都合」に左右されているのだということも。

アスペルガー症候群を治すことはできないが、目立たなくさせることはできる。

これが、現状にして最善の対処法ではないかと思われているものです。
「現状」といいますが、3年前も同じだったはずです。

「私は障害者です」とアピールを積極的に行い、困難な理解を得るために努力することも大切かもしれませんが、
この世の中には、あえて困難な(そして不合理な)努力をしなくても大丈夫な世界もあったのです。

オンラインゲームの中にいれば、何の問題も起こらない。

「あうちすむ」の更新が途絶える一方、マビノギハァンタジーライフの更新は頻繁に行われていました。
「マビノギ」はMMORPGというオンラインゲームの一つで、私はすぐにその世界になじむことができ、優良な人脈にも恵まれ、
(もちろん、私ならではの考え方、性格、能力および時間的な余裕という「努力」が有利に作用したためですが)
それはもはやオンラインゲームではなく、「生活」の一部のようになっていきました。

「超人間的」や「全能感」、「他人を意のままに操る」といった不健全な感覚に支配されているわけではなく、
私に関わるすべての人と、ごく自然に、仲よく、親しみのある形で、相互的に交流することが、表面上はできている!

あくまでゲームであるから、完全なものにはならない。

まず、悪く言いましょう。
ゲームの中で上手くいったって、それが現実になるわけではないのだから、なんの意味もない。ただの怠慢だ。

次に、良く言いましょう。
ゲームの中とはいえ「生きがい」や「友達」ができたのは素晴らしい。この経験を何らかの形で生かせる時期を待とう。

アスペルガー症候群は流行やブームではない。

仮に単なる流行やブームであったとすれば、「また戻ってきた」ときに違和感が生じるはずです。
実際は、障害が目立たない状況に一時的に身を置いているだけなので、場面が変われば、やはり「復元」されます。

ゲームではなくリアルで人と会ったとき、まさに「復元」され、アスペルガー症候群を再認識することになりました。

それは決して悪い意味ではなく、よい意味で。
本当にありがとう。

非生産的な存在?

生産性の高い工場やアプリケーション・ソフトウェアなどは、それ自体に大きな価値があるとみなされています。
たとえば自分が運転しなくても、車を購入するにはお金が必要だし、
まったく商業に利用しなくても、Photoshopを使うためにはお金が必要です。

では、生産性のないものはどうなりますか?

私には生産性があるのでしょうか? 「ある」と思っている人もいました。
ですが、それは錯覚のようなもので、本当の生産性とは異なっていました。
錯覚は、いつまでも続くことはありません。
何らかの形で錯覚であることに気づいたなら、それはもう事実ではないとハッキリとわかるでしょう。

私は「非生産的」である以前に、「生産的である」という誤解を与えることが多い存在のようです。
この「誤解」が機能しているうちは、生産的とみなされていることになっています。
ところが、その誤解はいずれ解消され、「非生産的」であることが知られると、もはや以前の関係を保つことは不可能となります。

私は一方的な消費者か。

生態系において、真なる消費者というものは存在しません。
必ず、何らかの形で食物連鎖やエネルギー収支に関与しています。
これは私が人間であるからではなく、あくまで地球上の生物であることが理由です。
私が生きていることで利益を得る人もいれば、損害を被る人もいます。

ただ、損害が圧倒的に大きいというだけなのです。

消費者に認められるものがなければ、生産していることにはならない。

私が絵を描くことは、一見、生産的な活動であるかのように思われるかもしれません。
しかし、それに価値を見出す人がいなければ、私の活動は消費と変わらないのです。
どんなに主張しても意味はなく、声を上げれば上げるほど、消費者として活発になっているだけになります。

では、もっと高度な技術を身につけたらどうなのか。

もっともらしい意見であるかのように思われるかもしれません。
しかし、それが非常に困難であるということは、次の機会に説明したいと思います。

私はゾンビ?

話せば長くなると思っていました。
でも今なら短くまとめられそうなので書きます。
人が信じようが信じまいが、私の肉体は一度死んだことがあります。
死ぬ以前の記憶が私にはないため、親から当時の様子を聞いたり、写真を見せられたりしても、それはまるで「他人」のような気がします。

その後、肉体はすぐに生き返りましたが───
皆さんもご承知の通り、社会的にはずっと死んだままの私です。


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