川に出るまでが、大変だった。
スピアーに刺されそうになったり、オドシシの群に追いかけられたり。
何とか川原にたどり着いた頃には、もうモエギ山に夕陽が沈みかけていた。
「今日はここで野宿することにしないか?」
「大丈夫だよ。まだ歩けるぜ」
シュンは、ボクに不満そうな顔を向けた。
「でも、もうじき暗くなる。ここにどんな野生のポケモンがいるのか、わからないんだよ。むやみに夜道を歩くのは、危険すぎる」
「そう言われると……仕方ないか」
シュンは、渋々野宿に同意した。
「でも俺、食べ物も何も持ってきてないぜ」
「クラッカーぐらいなら、ボク持ってきてるよ。防寒シートも2枚あるから、寝るときはそれにくるまればいい。ポケモンの食事は……」
ボクは、川原を見回した。土手の草むらの中に、白い可憐な花がいくつも咲いていた。
「あった。これはポケモンが食べられる草なんだ」
シュンが、ひゅーっと口笛を鳴らした。
「すげーな。ケンジのほうが、俺よりよっぽど旅慣れている、って感じ」
「そりゃそうだよ。ボクは物心ついてから、ずっと旅暮らしだったから」
ボクたちは、枯れ枝を集めて火をおこした。いつもリュックに入れている簡易濾過装置を使って川の水をきれいにし、お湯を沸かしてインスタントのコーヒーを入れた。
「サンキュ」
ホーローのカップを渡すと、シュンは両手でそれを包んだ。
防寒シートがあるとはいえ、夜はまだ寒い。温かい飲み物は、ボクたちを元気にしてくれた。
「ずっと旅暮らしって……?」
クラッカーをかじりながら、シュンは訊いた。
ポケモンたちは、さっきの白い花や、その辺で採取した昆虫などを食べている。
雑食性のマリルは、ボクの膝の上にのってクラッカーのお裾分けを待っていた。
「そういえば、この街に来てまだ2カ月だって言ってたよな」
ボクは、マリルにクラッカーを1枚渡した。
「物心ついた頃から、ずっと父さんと旅をしていたんだ」
「ケンジの親父って?」
「ポケモンウォッチャー」
「ポケモンウォッチャー?」
シュンは驚いていたが、すぐに納得したようだった。
「はーん、それでか。ケンジもポケモンウォッチャーを目指しているんだ」
「うん……て言うか、目指していたんだけどね」
たくさんの星がきらめいていて、まるで降って来るかのようだった。
こんな星空を眺めながら野宿するのも、久しぶりだった。
「なんで過去形なんだよ」
ボクは、少しためらいながらも、最近のできごとをシュンに話した。モルフォンのしびれ粉を吸ってモエギジムに運ばれたこと、父さんの再婚のこと、学校に行って「普通の暮らし」をするように勧められていること。
父さん以外の人に、こんな話をするのは初めてのことだった。
「愛だな」
ボクの話を聞いて、シュンが言った。
「ケンジを思う親父の愛と、親父の気持ちに応えて夢さえあきらめようとしているケンジの愛。いやあ、全く美しいっすね」
「なっ……」
「だけど、思い出せ。おまえの死んだお袋さんは、なんて言ったんだ?」
「えっ?」
「……『夢をあきらめないで』だったんだろう。あれは親父に向けて言ったんだろうが、ケンジへのメッセージでもあるんじゃないか」
「ボクへの、メッセージ? 母さんからの……」
そんな風に考えたことは、全くなかった。
母さんはずっと昔に死んだ人で、見知らぬ他人も同然だった。
それがシュンの言葉のおかげで、まるでボクを励ましに、そっと背中を押しにきてくれたかのような錯覚を覚えた。
「簡単にあきらめてんじゃねーよ。ちゃんと親父さんと話し合ってみろよ」
確かにボクは、今まで父さんとこのことについてきちんと話をしたことはなかった。とても大切なことなのに。
「モエギ大学に、ポケモンウォッチャーのスギシタさんがいるだろう。相談にのってもらえよ。ああいう有名な人が味方になってくれれば、ケンジの親父さんだって……」
「……それ、ボクの父さんなんだ」
シュンは、目を丸くしてボクを見た。その顔がおかしくて、ボクはつい吹き出してしまった。つられてシュンも笑い出した。2人で、涙が出るほど大笑いした。
「あー、腹いてー。ケンジってびっくり箱みたいな奴だな」
「なんだよ、びっくり箱って」
こんなに笑ったのは、久しぶりだった。
膝の上からずり落ちたマリルが、不思議そうにボクとシュンを代わる代わる見ていた。
簡単な食事を終え、ボクたちは眠ることにした。
ボクは、マリルだけをモンスターボールに戻した。
「コンパン、頼むぞ」
「コン、パン」
「どうしたんだ?」
シュンが、訝しげに訊いた。
「見張りだよ。眠ってる間に危険なポケモンが近づいてきたら困るから。夜中にはマリルと交替させるんだ」
「ずいぶん、用心深いんだな」
「父さんから教わったのさ」
ボクは、たき火の中に固形燃料を入れた。ひとつしかないけど、これで8時間は保つ。夜が明けるまで、火は絶やさないほうが良かった。
ボクとシュンは、並んでそれぞれ防寒シートにくるまった。
すぐ近くに見える星を数えたりしたが、なかなか眠れそうになかった。
「……シュン、もう寝た?」
「……いや」
シュンも、同様のようだった。
「シュンは、なんでポケモンマスターになろうと思ったんだ?」
「何当たり前のこと、訊いてんだよ。かっこいいからに決まってんじゃん」
「はは……」
確かに、この世界に生まれてきた者として、ポケモンマスターに憧れない人間はいないんだけど。
「……俺、捨て子なんだ」
しばらくの沈黙の後、ぽつりとシュンが言った。
「え?」
「生まれてすぐに捨てられて、ずっと孤児院で育ったんだ」
ボクは、シュンのほうを見た。だけど、星明かりだけじゃシュンの表情までは見ることができなかった。
「ポケモンマスターになって有名になれば、親のほうから名乗り出てくれるかもしれない、なんて……」
「……シュン」
ボクは、なんて言ったらいいのかわからなかった。だけど、シュンの気持ちを思うと、胸が痛かった。
「親にあったら、まず1発ガツンとぶん殴ってやるんだ。それから……」
「それから?」
「礼を言う。こんな面白い世の中に生んでくれてありがとう、って」
シュンはすごい。ボクは、心からそう思った。
「それも『愛』?」
「そう。『愛』」
ボクたちは、静かに笑った。
空では相変わらず、星が降るように瞬いていた。
「コン、パン」
夜半過ぎ、コンパンがそっとボクを起こしにきた。うとうとまどろんでいたボクは、すぐに体を起こした。
「もう時間か。コンパン、ご苦労さん。ゆっくり休んでくれ」
コンパンをボールに戻すと、ボクは立ち上がった。横を見ると、シュンが防寒シートからはみ出しながら、健康そうな寝息をたてていた。
ボクはシートをそっとかけ直すと、川の近くまで行った。
いつの間に昇ったのか、大きな月が川面を銀色に照らしていた。
「出てこい、マリル」
「リルー」
モンスターボールから出てきたマリルは、眠そうに目をこすった。
「ごめんな、起こしちゃって」
「リルー、リルー」
マリルは首を振ると、目の前の銀色の川に飛び込んだ。一潜りして出てくると、身体をぶるぶる振って水気を飛ばした。
「目が覚めたか?」
ボクは、マリルの横に並んで座った。眠るのがもったいないくらい、きれいな月だった。
「……マリル」
「リルルー?」
「どうしたらいいと思う? ボクは、やっぱり旅に出たいんだ」
「リルルー、リルー」
「父さんが、ボクのことを思って旅をやめたのはわかってる。スズナさんのことだって、嫌いじゃない。だけど、ボクは……」
「リル、リル!」
マリルは、ボクに訴えかけるように手を振った。
「……そうだよな。夢を追いかけるのに、迷ってちゃいけないよな」
「リルルー!」
そうだ、と言うようにマリルは頷いた。
「これからは父さんは一緒じゃないけど、ついてきてくれるかい?」
「リルー!」
当然とばかり、マリルは胸を張った。
月を横切るように、何かポケモンらしいのが空を飛んでいた。
「あれは、なんていうポケモンだろう」
知りたいと思った。この世界にいる、すべてのポケモンを。
迷い悩む時間は終わりだった。
ボクは、夢をあきらめない。
家に着いたのは、お昼もとっくに過ぎた頃だった。
「遅かったじゃない。何かあったんじゃないかって、心配してたのよ」
目を赤くしたスズナさんが、開口一番に言った。
「ごめんなさい、スズナさん」
スズナさんの後ろから、やはり目を赤くしている父さんが現れた。
「いったい何があったんだ?」
ボクとシュンは、ディグタの穴に落ちたこと、トンネルを出たらモエギ山を越えていたこと、途中で野宿したことなどを説明した。
父さんは、いつもこうだった。決して頭ごなしにボクを叱ったりしない。こんなことさえ、ボクはしばらく忘れていたような気がした。
「……そうか。とにかく無事で良かった。食事をとって、ゆっくり休みなさい」
父さんはスズナさんに食事の支度を頼むと、ジャケットに袖を通した。
「どこかに行くの?」
「仕事だよ。午前中の講義をすっかりさぼってしまった」
「ごめんなさい、父さん」
父さんは、いやいやと言うように手を振って、急いで出かけていった。
シュンがボクに何か言おうとしたので、すかさず「愛だよ」と言ってやった。
ボクたちは、顔を見合わせて大笑いした。
「男の子って、仕方ないわねえ」
スズナさんもにこにこしながら、キッチンへ向かおうとした。
そのとき、シュンがスズナさんの前に回り込んだ。
「バトル、お願いします。あの、今日は無理ですけど……」
柔和なスズナさんの顔が、ジムリーダーとしての表情に変わった。
「そうね。まずあなたも、ポケモンたちも疲れをとって。それからね。……明日の午後からでいいかしら。日曜日だから、他のトレーナーたちは休みだし」
「ありがとうございます!」
「さあ、ご飯の用意をしなくっちゃ。パスタでいいかしら」
スズナさんは、にっこり微笑んでキッチンへ消えた。
夜、ボクは父さんを待って遅くまで起きていた。
シュンは部屋で寝ていた。スズナさんも、自分の部屋にいるようだった。
ボクはジムの入り口に立って、父さんが帰ってくるのを待っていた。
昨日とは違い風の強い曇り空で、湿った肌寒い空気が雨の匂いを連れてきていた。
ボクは、くしゃみをして鼻をすすった。野宿したのが今夜じゃなくて、本当に良かった。
やがて聞き慣れた足音がして、街灯の灯りの下に父さんの姿が現れた。
「ケンジ? どうしたんだ、こんな夜中に」
「父さん、大事な話があるんだ」
「話なら家の中で聞こう。ここじゃ、風邪をひくぞ」
「すぐに済むよ。ここで話したいんだ」
家の中に入ると、スズナさんが出てくるかもしれない。ボクは、父さんとふたりきりで話がしたかった。
「わかった。聞こう」
ボクは、深く息を吸い込んだ。そして、言った。
「父さん、ボク、旅に出るよ」
父さんは、微かに眉毛を上げた。ボクは続けた。
「ここで暮らしてはっきりしたんだ。ボクは、父さんみたいなポケモンウォッチャーになりたい。そのために、また旅を続けたい」
「しかし、それは今すぐじゃなくてもいいんじゃないか? 2.3年学校に通って、普通の家庭生活を味わってからでも遅くはないだろう」
ボクは、首を振った。
「この気持ちに、ブレーキをかけられないんだ。ボクは旅に出たい。夢を追いかけていたい。夢をあきらめたくない」
父さんは、しばらく黙ったままだった。やがて、言った。
「わかった。考えておこう。さあ、家に入るぞ」
翌日はやはり雨、それも雷鳴つきというひどい天気だった。
午前中、ボクたちはみんな無口に過ごした。
シュンは午後からのバトルに明らかに緊張していたし、父さんはレポートを書いていた。スズナさんの目は赤いままだった。
ボクは、部屋で荷物の整理をしていた。
2カ月足らずのこの部屋での生活でも、物は結構増えていた。衣類、時計、ポスター……。
そのどれもがスズナさんがボクに与えてくれた物で、ボクの居場所を少しでも心地よいものにしてくれようという、優しい心遣いの現れだった。
でも、ボクは悩んだ末、全部置いていくことに決めた。
昼食は、キッチンに用意してあったサンドウィッチを食べた。スズナさんは、バトルの準備でジムにこもりきりだった。
やがて、ポッポの時計が1時を告げた。
バトルの始まりだ。
|