ケンジの物語 旅立ち5
ギャラリーにあるベンチに腰掛けていると、少し送れて父さんもやってきた。
シュンとスズナさんは、すでにバトルフィールドに立っている。
「それでは、バッジを賭けた公式試合を始めます。使用ポケモンは3体。いいわね」
凛としたスズナさんの声が、がらんとしたジムに響く。
「OK。さあ、始めようぜ!」
「私のは、これよ!」
スズナさんの投げたモンスターボールから現れたのは、毛並みの色鮮やかなロコンだった。
「いけ! ダグトリオ!」
シュンは、最初にゲットしたばかりのダグトリオを出してきた。
「相性ではシュンくんのほうが有利だが、果たして使いこなせるかな」
父さんの意見に、ボクは頷いた。
スズナさんの視線が、ちらりとボクたちのほうを向いた。
「ロコン、電光石火よ」
「ダグトリオ、穴を掘ってかわすんだ!」
素早いロコンよりも、ダグトリオのほうが一瞬早く穴に潜った。だが、ロコンはダグトリオの地下からの攻撃を易々とかわした。
「ロコン、火炎放射!」
「ダグトリオ、地震だ!」
ロコンの紅蓮の炎がダグトリオを包むよりも先に、地震が勝負を決した。
「ロコン、戻って」
倒れたロコンは、モンスターボールの中に吸い込まれていった。
「まさか地震が使えるとはね。さあ、次はこれよ」
次に現れたのは、ストライクだった。
ダグトリオの地面系の技も、空を飛ぶストライクには通用しない。あえなく戦闘不能となった。
「戻れ、ダグトリオ!」
ダグトリオを戻したシュンは、次のボールを投げた。現れたのは、フシギダネだった。
「フシギダネ、葉っぱカッターだ!」
「ストライク、剣の舞よ!」
葉っぱカッターは、剣の舞によってすべてはじき飛ばされた。
スズナさんは、またちらりとボクたちのほうを見た。無表情を装っていたが、相変わらず目が赤い。
試合の最中に、こんなに集中力を散らしているスズナさんを見るのは、初めてだった。
「父さん、もしかして……」
ボクは、父さんにそっと囁いた。
「スズナさん、昨日の話……」
「ああ、聞いていたらしい」
「ストライク、翼で打つのよ!」
フィールド上ではストライクの技が決まり、小さなフシギダネはライン上まではじき飛ばされた。
「それで、スズナさんはなんて……」
父さんは、しばらく無言でスズナさんを見つめていた。やがて、ぽつりと言った。
「スズナは、私たちと『家族』になることを、本当に喜んでいたんだ」
「戻れ、フシギダネ!」
シュンは、最後のモンスターボールを握りしめていた。そして、力強くそれを放った。
「いけ! ピジョン!」
「私にはケンジがいたが、スズナは本当に独りぼっちだった。たったひとりで、今までこのジムを守っていたんだ」
「父さん、ボクはスズナさんを嫌って旅に出るわけじゃない!」
「それは、わかっているよ」
ピジョンは、ストライクに高速移動を仕掛けた。スズナさんは、ストライクに影分身をさせようとしたが、指示がわずかに遅れた。
ピジョンの攻撃が、ストライクの急所に当たった。
「ストライク、戻って!」
ストライクの戻ったボールに、スズナさんが「ごめんなさい」と囁いた。
スズナさんの最後のポケモンは、ラフレシアだった。
父さんは、ボクに向きなおって言った。
「ケンジ、私はもうケンジの決めたことに反対しない。私だって、夢を追いかけて生きてきたからな。ただ、そのために悲しませてしまった人がいる」
「……母さんなら、悲しんではいなかったと思うよ。むしろ、夢を追いかける父さんを、誇りに思っていたと思う」
「……そう思ってくれるか」
父さんは、またスズナさんのほうを見た。
ラフレシアとピジョンでは、圧倒的にラフレシアのほうが能力があるのだが、スズナさんの指示にいつもの冴えがないせいか、意外なほど苦戦していた。
「ひとつ頼みがある。スズナときちんと話をしてもらえないか。……家族として」
「もちろんだよ」
そうは言ったけど、正直気が重かった。反対されるとは思わないけど、スズナさんの悲しむ顔を目の当たりにするのは辛かった。
「ピジョン! 電光石火だ!」
その一撃で、ラフレシアは倒れた。ピジョンもぼろぼろだったが、とにかくシュンの勝ちだった。
バッジを辞退する、とシュンが言い出したのは、試合の直後だった。
「スズナさん、調子悪かったみたいだし。これで勝ってもフェアじゃないよ」
「いいえ、このバッジはあなたのものよ」
スズナさんは、シュンにモエギジムのバッジを差し出した。
「公式戦だったんですもの。私の調子が悪かったにしても、それはこちらのミス。シュンくんが勝ったことには変わりないわ」
「でも……」
「もらっておきなさい」
なおも渋るシュンに、父さんが言った。
「きみは正々堂々と戦って、そのバッジを勝ち取ったんだ。何も遠慮することとはないんだよ」
「そうだよ。シュンはあんなに一生懸命戦ったじゃないか」
「……それじゃ、ありがたくいただいときます」
シュンはバッジをスズナさんから受け取り、上着の内側につけた。
「おめでとう、シュン」
「サンキュー、ケンジ」
「さてと、私はポケモンセンターに行ってくるよ。スズナ、ラフレシアたちのモンスターボールを貸しておくれ。シュンくんも、一緒に行こう」
「あ、はい! じゃ、後でな、ケンジ」
父さんとシュンは、あわただしくジムを出ていった。
残ったのは、ボクとスズナさんのふたりきりだった。
スズナさんは、まだバトルフィールド上にいた。
「みっともない試合、見せちゃったわね。……最後だっていうのに」
スズナさんは、恥ずかしそうに笑った。
朝方から鳴っていた雷は止み、今は激しい雨が降っていた。
「スズナさん、ごめんなさい。ボクは……」
「ケンジくんが謝ることはないのよ」
スズナさんは、バトルフィールドからギャラリーに上がる階段の下に立った。ギャラリーにいるボクを、見上げる形になった。
「負けたのは、私の心の弱さのせい。まだまだ修行が足りないわ」
「……でも、やっぱりボクがいけないんだ。昨日、きちんと話をすれば良かった。家族なんだから」
「私のこと、家族だと思ってくれているの?」
ボクを見るスズナさんの目が、潤んでいた。ボクは、心臓を鷲掴みにされたような気持ちになり、思わず階段を駆け下りていた。
「ごめんね、私、大人なのに。本当は、ずっと寂しかったの。ケンジくんたちと家族になれて、うれしかった。でも……」
うつむいたスズナさんの目から、涙があふれた。
「……いつか、また、ひとりになるような気がして……」
ボクは、スズナさんの背中に手をまわそうとして……何とか、その衝動を抑えた。
スズナさんを抱きしめて慰めるのは、ボクの役目じゃない。
ボクは、目を閉じ、歯を食いしばった。
「……泣かないで、スズナさん」
スズナさんが顔を上げたとき、ボクは精一杯の笑顔を作った。
「父さんは、ずっとスズナさんと一緒だよ。それに……」
ボクは、スズナさんにハンカチを差し出した。
「ボクも、そろそろ一人っ子には飽きてきたんだ。弟か妹、プレゼントしてよ」
「ケンジくんったら……」
ハンカチを使いながら、スズナさんは頬を赤くした。
「スズナさん、旅に出ても、ボクの部屋はそのままにしておいてもらっていいかな? 旅の途中で、ただいまって帰ってこられるのは、ここしかないから」
「もちろんよ」
スズナさんがだいぶ落ち着いたのを見て、ボクは部屋に戻ろうと思った。
「じゃ、ボク荷物の整理とかあるから」
「いつ、出発するの?」
「……明日」
「そんなに急に!」
「シュンと一緒に出発しようと思うんだ。今日の晩御飯は、ごちそうにしてね」
ボクはそう言うと、スズナさんに手を振ってジムを後にした。
本当は、荷物の整理なんてとっくに終わっていた。
雨は、だいぶ小降りになっていた。
ボクは、リュックの中からスケッチブックを取り出した。しばらく一心不乱にペンを動かした。
描きあがったのは、優しく微笑むスズナさんだった。
ボクは、そのページを丁寧に破りとり、4つに折り畳んでリュックのポケットの底に入れた。
そして、もう1枚、今度は父さんとスズナさんのツーショットのスケッチを描き始めた。少し考えて、ボク自身の絵も描き加えた。
そのページも丁寧に破って、部屋の壁に貼った。
窓の外を見ると、いつの間にか雨はやんでいた。しかし、まだどんよりと厚い雲が空を覆っている。
(虹でも出ていれば、ロマンチックなのに)
ボクは窓を開け、目の前に続く道を見た。
明日はこの道を歩いて、この街を出ていく。
期待とか興奮というような気持ちよりも、ほんの少し寂しいと感じるのが不思議だった。
そのとき、雲が切れて明るい日差しが道を照らした。雲の向こうに、澄んだ青い空さえ見える。
「おーい、ケンジ!」
道の向こうから、シュンと父さんが歩いてきた。シュンは大きく手を振っている。
「お帰りー!」
ボクも、ふたりに大きく手を振った。
翌日は、快晴だった。
「やっぱ、こうでなくっちゃな」
ボクとシュンは、たっぷりと朝食を平らげると、家を出た。
父さんとスズナさんが、見送ってくれた。
「身体には気をつけてね。たまには電話ちょうだいね」
「わかっているよ。行ってきます!」
「お世話になりました!」
ボクとシュンは、意気揚々と歩き始めた。
「ケンジは、これからどこへ行くんだ?」
「南へ。オレンジ諸島まで行ってみようと思ってる。前からあの地方のポケモンには興味があったんだ。頑張ってレポートを書いて、いつかはオーキド博士に認められるような、立派なポケモンウォッチャーになるんだ」
「オーキド博士って、マサラタウンの?」
「うん。父さんも尊敬しているすごい人だからね。頑張らないと。シュンはどうするの?」
「俺は北上して、北のシロガネリーグ目指して頑張るよ」
「そっか。じゃあ、お別れだな」
やがて街のはずれ、北と南の別れ道についた。
「それじゃ、ケンジ、頑張れよ」
「ああ、シュンもな。……いつか、また会えるかな」
「なーに言ってんだよ。おまえもずっと旅してたんなら、知ってるだろ。世界なんて、案外狭いんだぜ。ましてや、お互いポケモンに夢を賭けるものどうし、道はどこかでつながっているさ」
「そっか……。そうだよな」
ボクたちは、しっかりと握手を交わした。
そして、北と南に別れた。
ここから、ボクの本当の旅が始まった。
あれ以来、ボクはシュンに会っていない。
だけど、サトシや、ポケモンマスターを目指すトレーナーたちを見ていればわかる。
シュンも、彼らと同じ瞳をして、自分の夢のために戦っているはずだ。
家にも……モエギジムにも、まだ1度も帰っていない。
たまに電話はするけれど、まだ帰るのには早すぎる。
いつの日か、スズナさんのことを自然に「お母さん」と呼べるようになるまでは。
まだ時間がかかりそうだけど、そのときには心からの笑顔で、「ただいま」と言って帰りたい。
「ついたぞ、カンキツトウだ」
いつの間にか、カスミとのけんかをやめていたサトシが、真剣な表情でつぶやいた。
「いよいよだな、サトシ」
「ああ」
再び、サトシの夢のための戦いが始まる。
ボクも頑張らなくては。夢をあきらめないために。
ケンジ物語、完結です。長かった。 |