父さんは、大学に勤めだしてから帰りが遅くなることが多かった。
そんな夜は、スズナさんとふたりきりで晩ご飯を食べた。
昼間は他のトレーナーが大勢出入りしているので狭く感じたダイニングルームも、ふたりきりだとさすがに広くがらんとした感じに見える。
「ボクたちが来る前は、スズナさん、ここで独りでご飯食べてたの?」
ボクは、スズナさんのことをどうしても「母さん」とは呼べなかった。
スズナさんも、たぶん気づいていただろうけど、そのことについては何も言わなかった。
「独りじゃないわよ。ラフレシアも、ストライクもいるもの」
スズナさんは、優しく微笑んだ。
一見、とてもジムリーダーには見えない、優しく家庭的なスズナさん。
だけど、冷静な判断力とポケモンに対する的確な理解で、バトルをすると負け知らずだということを、ボクは最近の観察で知った。
「どうして父さんと結婚しようと思ったの? スズナさんなら、結婚申し込む男なんて山ほどいそうなのに。……まさか、父さんの顔、ストライクに似てるから?」
スズナさんは吹き出してしまった。顔を真っ赤にして、口元に手を当てて、大笑いしている。
ボクとしては、笑わせるつもりはなかったんだけど、顔を赤くしているスズナさんかなんだか可愛く見えてしまって、こちらまで赤くなってしまった。
「ごめんね、笑っちゃって。確かに似てるわね、ストライクと……」
スズナさんは、まだ肩をふるわせて笑いをこらえている。
「別にね、ストライクに似てるから結婚したわけじゃないのよ。まあ、好みの顔ではあるけれど」
お茶を一口飲んで、スズナさんはようやく落ち着きを取り戻した。
「なんて言うのかな、母性本能をくすぐられちゃったみたいなの。ケンジくんのこと、必死で心配しているお父さんに……」
「母性本能? スズナさん、父さんよりもずっと年下なのに」
「年齢は関係ないのよ。あの日、お父さんケンジくんのことでかなり動揺していたの。誰かがそばで支えてあげなければ、と思ってしまうぐらい」
それはボクも感じていた。あの日の父さんは、いつもの頼もしい父さんじゃなかった。
「ちょっと大げさだったよね。今までだって、けがとか何回もしたことあるのにさ」
「普通の怪我じゃないわ。モルフォンのしびれ粉を吸ってしまったんですもの。ケンジくんのお母様のことだってあるし」
「ボクのお母さん?」
「ええ。ケンジくんのお母様はモンジャラの毒の粉を吸って、すっかり身体を悪くしてしまわれたでしょう」
ボクは、何も言えなかった。母さんのことは、何も知らなかったからだ。
スズナさんも、ボクの表情に気づいたようだった。
「知らなかったの?」
「父さん、母さんのことは何も話してくれないから……」
父さんの口から、母さんの話は出たことがなかった。子供心にも訊きづらい空気を感じて、ボクからもたずねたことはなかった。
「話すのが辛かったのよ。お父さん、ずっと自分を責めていたから」
スズナさんの話によると、母さんは、ボクのように父さんと一緒に観察の旅を続けていたらしい。
ある日、父さんと離れていたときにモンジャラの毒の粉を吸ってしまい、手当が遅れたせいもあって、すっかり身体をこわしてしまった。
しばらくは旅をやめていたのだけど、母さんは徐々に回復し、ボクが生まれた頃から、父さんは独りで旅に出るようになった。
だけど、回復したというのは、母さんが父さんについたウソだった。
父さんのポケモンウォッチャーの夢を奪わないために、母さんは無理をした。
そして、連絡を受けた父さんがあわてて帰ってきたときには、もう遅かった。
臨終の枕元で、母さんは父さんに、「夢を、あきらめないで」と言った。
それが、最期の言葉だった。
「……ごめんなさいね。知っているものとばかり思っていたから」
「いいんだ。聞かせてもらって良かった」
食べ終わった食器を片づけ、ボクは自分の部屋に行った。
今ほど、自分の部屋があって良かったと思ったことはなかった。
夜遅く帰ってきた父さんは、ボクの部屋にやってきた。
ボクは、寝たふりをしていた。
「……すまなかったな、ケンジ」
父さんは、ボクが起きているときと変わらない口調で言った。寝たふりには気づいていたのかもしれない。
「すまなかった……」
もう1度言うと、父さんは部屋を出ていった。その背中が、いつもより小さく見えた。
ボクは、布団を頭までかぶり、声を殺して泣いた。
翌日、ボクはモエギシティの西のはずれにある小高い丘に初めて行った。
モエギジムは街の東側にあるので、ほぼ街を横断したことになる。
「出てこい、コンパン、マリル!」
「コン、パン」
「リルルー」
2匹とも、久しぶりに見る初めての景色に興奮していた。
コンパンはレーダーアイで辺りを凝視し、マリルは耳をぴくぴくさせて何かを聞こうとしている。
だんだんトレーナーであるボクに似てきているのかも、と思うとなんだかおかしかった。
でも、観察の旅に出ていなければ、彼らの能力も宝の持ち腐れだ。
ボクは、マリルの横に座った。
「ごめんな、マリル。世界中の海や川で泳ごう、って言ったのに」
「リルルー?」
マリルは無邪気な目をボクに向ける。
「コン、パン。コン、パン!」
コンパンが騒ぎ出した。何かを見つけたようだ。マリルもはっとしたように耳をそばだてる。
その正体は、じきにボクにもわかった。
ひとりの少年が、丘に登ってきていた。ボクと同じ年頃のようだ。
向こうもボクに気づいたようで、真っ直ぐこちらに向かってきた。
「マリルとコンパンか。なかなかよく育っているじゃないか。俺とバトルしようぜ」
少年は挨拶も抜きに、モンスターボールを出した。
「悪いけど、ボクはバトルをしたことがないんだ」
ボクのポケモン、コンパンとマリルは観察のパートナーであり、友達だ。他人のポケモンと強さを比べるつもりはなかった。
「いいじゃん。初心者なら手加減してやるぜ」
少年の言い方には、むっとするものがあった。
「……わかった。勝負は1対1でやろう」
「2対2だ。2匹いるじゃないか」
マリルにバトルをさせるのには、少しためらいがあった。しかし、後に引ける気分じゃない。
ボクは頷いた。
「よし、行け! フシギダネ!」
少年は、フシギダネを出した。
「コンパン、頼むぞ!」
バトルでありながら、ボクは癖でついつい相手のポケモンを観察してしまう。
少年のフシギダネは平均よりも少し小さいが、種の色も若々しく、まだ子供のようだった。
「フシギダネ、つるのむちだ!」
「ダネフシッ」
濃い緑のつるが、勢いよく伸びてくる。
だが、コンパンは易々とかわした。
「いいぞ、コンパン。眠り粉だ」
「コン、パン」
コンパンのまき散らす眠り粉に、フシギダネはたわいもなく眠ってしまった。
「しまった。戻れ、フシギダネ!」
少年はフシギダネを戻すと、2つ目のモンスターボールに手をかけた。「行け! ピジョン!」
「ピジョーッ」
ピジョンは狭いボールから出られて、うれしそうに鳴いた。
(まずいな)
虫ポケモンのコンパンと、とりポケモンのピジョンでは相性が悪い。眠り粉も、翼で飛ばされてしまうだろう。
「コンパン、サイケ光線だ!」
「そうはいくか! ピジョン、電光石火だ!」
コンパンのサイケ光線よりも一瞬早く、ピジョンの電光石火が炸裂した。
その一撃で、コンパンは戦闘不能になってしまった。
「戻れ、コンパン」
コンパンをボールに戻しながら、ボクはマリルを見た。
「リルルー!」
マリルはすっかりやる気になっている。その表情を見て、ボクの迷いは消えた。
「よし、行け、マリル! 水鉄砲だ!」
「リルーッ!」
マリルは勢いよく、口から水を飛ばした。水量も水圧も、ボクが思っていたよりずっと強くなっている。
「ピジョーッ」
ピジョンもだいぶダメージを受けたようだ。でも、まだ戦闘不能になるほどじゃない。
「ピジョン、高く飛ぶんだ! そして、吹き飛ばしをかけろ!」
少年の指示通り、ピジョンは高く飛んで水鉄砲を避け、猛烈な風を送ってきた。
まだ身体の小さいマリルは、ひとたまりもなく吹き飛ばされた。
「マリル!」
あわてて駆けつけると、マリルは目を回していた。
たいした怪我はしていないが、もうやめておいた方がいいだろう。
「ボクの負けだ」
「初めてにしては上手いじゃないか。全然手加減できなかったよ」
少年は、右肩にピジョンをのせて近づいてきた。
「俺、シュン。おまえは?」
「ボクは、ケンジ」
ボクたちは、どちらからともなく握手した。
バトルで疲れたポケモンたちを回復させるため、ボクとシュンは一緒にポケモンセンターへ向かった。
ポケモンセンターは、街のほぼ中央にある。
「着いた……けど、ずいぶん混んでるな」
ポケモンセンターはいつにない盛況ぶりで、カウンターにいくのも大変なほどだった。
ポケモンたちを回復させてもらいながら、シュンはジョーイさんと宿泊の交渉をしていた。
「ごめんなさいね。今日はもう満員で、貸し出せる毛布1枚ない有様なのよ」
確かにこの混雑ぶりでは、床で寝ることさえ難しいだろう。
「仕方ないな。また野宿にするか」
「良かったら、ボクのうちに来ないか?」
「そりゃあ助かるけど……いいのか?」
「大丈夫だよ」
トレーナーたちが始終出入りしている家だから、シュンひとりぐらい泊まったってスズナさんは気にしないだろう。
「サンキュー、ありがたく泊めてもらうよ」
素直に喜ぶシュンの顔を見て、ボクもうれしくなった。
「それにしても、今日はなんでこんなに混んでいるんだろう? 特別なイベントもないはずなのに」
「あら、今日だけじゃないのよ。最近モエギ大学の臨時聴講生が増えちゃって、みんな長期滞在なの」
「臨時聴講生?」
「ええ。ポケモンウォッチャーのスギシタさんが講師になってから、全国各地から人が集まっているのよ」
「ええっ?」
父さんのことだ。わざわざ父さんの講義を聴くために、これだけの人が集まっているのだろうか。
「草ポケモンの権威だろ、そのスギシタさんって」
「シュンも知っているの?」
「顔は知らないけど。草系マスター目指す奴には、神さまみたいな存在だぜ」
「神さまぁ?」
全然知らなかった。父さんがそんな有名人だったとは。
「ラフレシアの繁殖について、初めての観察報告を出した方ですものね。フシギダネの生息地域と進化率についての報告も、先日のポケモン学会で大変話題になったし」
ジョーイさんも、父さんのことはよく知っているみたいだった。
ボクは、複雑な気分だった。
父さんがたくさんの人に尊敬されているのはとても誇らしいけど、ボクは父さんについて何も知らなかったことを、昨夜に続いて思い知らされてしまった。
「それじゃ、行こうか」
シュンに促されて、ボクたちはまたたくさんの人をかきわけながら、ポケモンセンターを出た。
「ケンジの家って、遠いの?」
「ああ。街の東側なんだ。モエギの森の近くだよ」
「モエギの森か」
シュンは、わくわくしたような表情をした。
「草ポケモンの宝庫だよな。いろいろゲットしなくっちゃ」
「森の入り口付近には、ナゾノクサがたくさんいるよ。少し奥の倒木がたくさんあるところには、カイロスとヘラクロス。それから、森の中央の泉のあるところには、キレイハナも生息しているんだ」
「さすがに詳しいな。小さい頃からの遊び場だったのか?」
「違うよ。この街に住むようになってから、まだ2カ月も経ってない」
「そうなのか? それじゃ、さすがポケモントレーナーというところだな。ゲットのために、森をよく調べたんだろ」
「ゲットのためじゃないよ」
ボクはポケモンウォッチャーだから、と言おうとして言葉に詰まった。
観察の旅をしていないボクが、ポケモンウォッチャーだと言えるのか。
父さんのように、実績を残しているのなら、いい。
ボクは、ここで何をしているのだろうか。
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