サトシが、オレンジリーグウィナーズカップへの参加資格を手に入れた。
「よーっし、目指すはカンキツトウ。ポケモンマスターに、また一歩近づいたぜ!」
「ピカピカ!」
サトシとピカチュウは、すごく気合いが入っている。
その様子を見て、ボクはある人物を思いだし、にやりと笑ってしまった。
「なんだよ、ケンジ。何がおかしいんだよ」
「いや、サトシってボクの知り合いにちょっと似てるなーと思って」
「へー、こんな単細胞人間、他にもいるの?」
「カスミ、それはないだろう」
いつものように、サトシとカスミはけんかを始めてしまった。
ラプラスの背中は乗り心地がいいけど、ふたりにけんかされると逃げ場がなくてうるさくて困る。
ボクは、遥か前方にかすんで見えるカンキツトウを眺めながら、ボクの初めての人間の友達、シュンのことを思い出していた。
ボクは、サトシのマサラタウンのようなふるさとを持たない。
物心ついたときは、すでに父さんと旅の途中。ひとつの場所に落ち着いて暮らしたことがなく、友達と呼べる人間もいなかった。
でも、それが寂しいと思ったことはなかった。
いつでも父さんが一緒にいてくれたし、いろいろな土地でいろいろなポケモンに出会えることがとても楽しかった。
だけどある日、旅は唐突に終わった。
それは、モエギシティに着いたときのことだった。
ボクと父さんは、早速モエギの森で観察を始めた。
ここは草ポケモンの宝庫で、ナゾノクサやウツドン、それにキレイハナなどを観察することができた。
すっかり満足して森から出ようとしたとき、モルフォンの群を見つけた。
モルフォンたちは、繁殖の相手を捜しているのだろう。群舞から次第にペアになり、キラキラした粉をまきながら優雅に舞っていた。
あの粉は繁殖をじゃまされないためにまくしびれ粉だということを、ボクは知っていた。だから、粉を吸わないように風上の少し離れたところから観察していた。
そのとき、アーボに追われたニドランが、ボクの横を猛スピードで駆け抜けていった。
「頼むぞ、コンパン」
「コン、パン」
「コンパン、眠り粉だ!」
コンパンの眠り粉はすぐに効いて、アーボはあっけなくその場で眠り込んだ。
だが、恐怖に駆られたニドランは、追っ手がいなくなっていることに気がつかなかった。
「ダメだ、ニドラン、そっちは……」
ボクの声も届かず、ニドランはダンスしているモルフォンたちの下へ走り込んだ。
モルフォンのしびれ粉を吸って、たちまち苦しみ出すニドラン。
ボクは、夢中でニドランの後を追った。
目がチカチカし、手や足の感覚がなくなってくる。
「コン、パン。コン、パン!」
心配したコンパンが、ボクのそばへやってきた。
「……コンパン、父さんを、呼んで……」
それだけ言うのがやっとだった。
父さんを探しに行くコンパンの後ろ姿を見送って、ボクは少しだけ気を失った。
気づいたのは、父さんの背中の上だった。
「……父さん」
「気づいたのか」
父さんは、ちょっと振り向いた。
「全く、無茶して」
父さんは、少し怒っているようだった。
「……ニドランは?」
「ゴーリキが連れている。あまりしゃべらない方がいい」
そう言われて、ボクは黙って目をつぶった。
父さんに背負われるなんて、何年ぶりだろう。
身体はしびれて苦しいけれど、ボクは何となくうれしくなった。
「どうかなさったんですか?」
明るく響く声が聞こえた。父さんが、手短に事情を説明する。
「それは大変だわ。うちに薬があるからいらっしゃい。すぐ近くなのよ」
有無を言わせぬ言い方だが、押しつけがましさはなかった。
いい感じの声だな、と思った。
「ここよ、さあ入って」
着いたところは、なんとモエギジムだった。
「スズナさん、その方たちは?」
ポケモントレーナーらしき若い女の人が、何人か寄ってくる。
「モルフォンのしびれ粉を吸っちゃったのよ。急いで薬箱を持ってきて。それから、誰かこのニドランをポケモンセンターに連れていってちょうだい」
ボクたちを連れてきた「スズナ」さんは、このジムのリーダーらしかった。てきぱきと指示を出し、ボクは客間のベッドに寝かされた。
「少し苦いけど、我慢して全部飲むのよ」
右腕で優しくボクの身体を支え、左手でカップを口元に持ってきてくれたスズナさんは、20代後半ぐらいの歳だろうか。
苦い薬にちょっとむせながら、ボクは「お母さん」ってこういう女性だったんだろうかと思った。
薬はすごい効き目で、飲んだとたん手足のしびれが消えた。
「すごいよ、この薬。もう治っちゃった」
「そう、良かったわ」
スズナさんは、優しく微笑んだ。
「でも、まだ少しふらつくでしょうから、ここで休んでいてね。後で食事を持ってくるわ。お父様、よろしかったらご一緒に食べませんか」
言われて気づいたが、もう外は薄暗くなっていて、正直なおなかはグウとなった。
「すぐに用意するわね」
スズナさんは、くすくすと笑った。ボクは、真っ赤になった。
「じゃあ、ケンジ。父さんも食べてくるから」
そう言って、父さんはスズナさんと一緒に部屋を出ていった。
鰤の照り焼きにふろふき大根、白菜のゆずおひたしにナメコと豆腐の味噌汁。そして、タケノコご飯。
久々の完全な和食に、ボクはすっかり満足した。
「さて、と……」
身体のふらつきも完全に消えていた。食器ぐらいは自分で下げるべきだろう。
ボクは、ダイニングルームに向かった。
わずかにドアが開いていて、誰かの話し声が聞こえた。
ノックしようとしたとき、父さんの声が聞こえた。
「やはり、これ以上こんな生活をケンジにさせるべきじゃないんだ」
ボクの手は、ぴたりと止まった。
「あの子は普通の家庭を知らない。夕暮れ時まで友達と遊んで、温かい夕食と優しい母親の待っている家に帰る、そんな普通の生活を知らないんだ」
「普通の家庭ばかりが幸せとは限りませんわ」
ドアからこっそり覗いてみると、父さんとスズナさんはふたりきりだった。
テーブルの上にはボクが食べたのと同じ料理がのっていたけど、父さんはほとんど箸をつけていないようだった。
「そうかもしれない。しかし、知っていて他の人生を選ぶのと、全く知らないのとでは意味が違う。私は申し訳ないんだ。ケンジに……。あれの母親にも」
父さんは、少し酔っているのかもしれなかった。あんな父さん、見たことなかった。
「あまりご自分をお責めにならないで」
スズナさんが泣いている子供を慰めるように、父さんの背中をさするのが見えた。
ボクは、食器を持ったまま、足音を忍ばせて客間に戻った。
ベッドに寝転がったが、眠れるものじゃなかった。
初めて見る父さん。初めて聞く父さんの弱気な言葉。
予感がした。今までの生活が、変わる。
それが好ましいこととは、とても思えなかった。
それから1カ月経っても、ボクと父さんはモエギジムの客人だった。
父さんは、ジムからモエギの森に観察に出かけたり、モエギ大学に講演に行ったりしていた。
ボクは、父さんと一緒に観察に行くことを禁じられてしまったので、ジムに来るトレーナーたちのポケモンを観察したり、街を歩き回って時間をつぶしたりしていた。
そうして帰ってくると、スズナさんか温かい食事を用意して待っていてくれた。
昼はたいていトレーナーたちと一緒に大勢で食べるが、夜は父さんとスズナさんとの3人きりだった。
その日あったことなどを話しながら食べるご飯は確かにおいしくて、父さんがボクに教えたかった「普通の家庭」というのはこういう感じかな、と思ってみたりもした。
でも、ボクたちはあくまでもモエギジムの居候で、ジムリーダーであるスズナさんの好意に甘えているだけだった。
少なくとも、ボクにとっては。
ある日、父さんが改まった口調で「話がある」と言った。
「でも、今コンパンとマリルに食事をあげるところなんだ」
何となく嫌な予感がして、ボクは父さんの話を聞きたくなかった。
「大事な話なんだ。後にしなさい」
父さんは、有無を言わせなかった。
ボクはあきらめて、父さんの向かい側に座った。紅茶をいれてきたスズナさんは、そのまま父さんの横に座った。
「実は、父さんな、結婚しようと思うんだ。スズナさんと」
父さんは赤い顔をして、ぎこちない口調で言った。スズナさんも、やはり赤い顔をしている。
「旅はどうするの? 観察の旅は? スズナさんだってジムがあるんだし……」
答えはわかっていた。だけど、訊かずにはいられなかった。
「モエギ大学で講師を務めることになったんだ。その傍らで、今までの研究をまとめる作業をしていこうと思う」
「そうか……。わかったよ。父さん、スズナさん、おめでとう」
ボクは笑顔でそう言った。失望の色が面にでていないことを祈りながら。
ボクと父さんは、本格的にモエギシティでの生活を始めた。
客間で一緒に寝ていた父さんは、スズナさんの部屋で寝起きするようになり、客間はボクの部屋となった。
自分の部屋なんて、今まで持ったことがなかった。スズナさんが、机やポスターなどを用意してくれて、何となくボクの年頃の少年の部屋らしくなった。
父さんには、来学期から学校に行くように勧められた。
ボクは、今まで学校に通ったことはなかった。勉強はすべて父さんに教わっていた。
年に1度各都市で、「学齢別基礎知識テスト」が行われている。
これは6歳から10歳までの学校に通っていない子供たちを対象にしたテストで、このテストで基準点をクリアできないと、その子供はどんな事情があっても1年間学校に通って勉強しなければならないことになっている。
ボクは、今まで基準点以下になったことはなかった。だから、学校なんて行く必要はないと思っていた。
「そうじゃないんだ。学校は、勉強だけする場所ではないんだよ」
父さんは、そう言った。
父さんの言うことは、理屈ではわかっていた。
でも、ボクは学校に行くよりも、旅に出たかった。 |