ルームメイト 2



「おとーとさん、来るのー?」
 ナナコの声で、我に返った。
 ナナコは、いつの間にかグラスのワインを全部飲んでしまったらしい。ソファの上で体育座りをし、頬杖をついて私のことを見ていた。
「来るのは、明日」
「ふーん」
 ナナコの頬は、うっすらと染まっていた。目のふちも、ほんのりと赤い。
「果南ちゃん、おとーとさんと、仲いいもんね。そういうの、ブラコンっていうんだっけ?」
「……貴史のこと、ナナコに話したこと、あったっけ?」
 私としては話した覚えはないのだけれど、泥酔していたときに話していないとは保証できない。
「あったよぉ。いっつも言ってるじゃん。貴史と私は戦友なのよ、って」
「そうだったっけ?」
 私は、ワインに酔ったわけでもないのに赤くなった。ナナコは私を見て愉快そうに笑った。
 それにしても、そんなことまでナナコに言ってしまっていたとは。私はよっぽどナナコに心を許してしまっているのだろう。十二年もつきあっていた北嶋にさえ、どんなに酔っていても、貴史のことをそんなふうに話したことはなかった。


 貴史と私は、戦友。家庭という戦場を共に戦った、仲間。
 なんて大げさで子供っぽい物言いだろう。
 浮気ばかりしていた父。育児放棄していた母。
 友達には話せなかった。幸せな家庭に育った人たちには、きっとわからないだろう。私が餓えていたものについて。私が心底欲していたものについて。――悩み事を話すには、きっと、私はプライドが高すぎたのだ。心の内を話して中途半端な同情を買うよりも、私は満たされた、明るい子供のふりをすることを選んだ。そしてそれは、ある程度うまくいっていたと思う。誰も私が悩んでいることなんて気づいていなかったから。貴史以外は。
 何も言わなくてもわかってくれるのは、貴史だけでよかった。いつしか貴史は、泣いてばかりの子供ではなく、落ち着いた、温かい手を持つ少年になっていた。
 私たちは、いつも一緒にいた。何ヶ月も掃除のされていない、生ゴミ臭い寒い部屋の中で。久しぶりに顔をあわせた父が母を口汚く罵っているときも、酒を飲んだ母が酔って食器を床に投げつけているときも。
 子供部屋で、悲しい物音が耳に入らないように、二人でひっきりなしにおしゃべりをした。他愛もない話で笑い転げていた。お互いの温もりを求めて、一緒の布団で眠った。
 そうやって、私たちは成長した。


「でぇもぉ、成長するって悲しいよね」
 ナナコは、ワイン一杯で完全に酔っているようだ。呂律が怪しくなっている。
「悲しいって、何が?」
「何もかも。みぃんな変わっちゃうの」
 ナナコは、ふぅっとため息をついた。ときどき、すごく子供っぽく見えるときもあるのに、こういう時は、私よりもずっと年長の女のようにも見える。本当は、ナナコはいくつなんだろう。
「あたし、ちょっと寝てくる。四時になっても起きなかったら、起こして」
「うん、わかった」
 ナナコは、少しふらふらしながらグラスをシンクにおくと、自分の部屋に戻った。
 私は、自分のグラスに、残っていたワインを全部注いだ。今度はゆっくりとすすりながら、ナナコの言っていたことを考えた。
 みんな、変わった。そう、それは真実だった。
 私は妻子持ちの男の愛人になっていた。貴史は妻子ある身で愛人を作った。
 大人のしたことに誰よりも傷ついていたはずの私たちが、いつの間にか同じことをする大人になっていた。誰が、そんな未来を想像していただろうか。二人で同じ布団にくるまりながら、凍るような月を見ていた、あの頃。 


 貴史が声変わりをした頃、母はそれまで一緒だった子供部屋を別々にした。今にして思えば、それは当然すぎる措置だったと思う。いや、むしろもっと早く、私が初潮を迎えたときにそうしなかったことがおかしかったのだ。
 しかし、あの頃はそれがわからなかった。私たちは、初めて「反抗」した。
 深夜、父も母も寝静まった頃、私たちは相手の部屋へ忍び込んだ。たいていは、貴史が私の部屋へ来た。そして、一緒にベッドにもぐりこむのだった。
 幼い頃のように他愛のないおしゃべりをして、それに飽きると、おたがいの身体に腕を巻きつけて寝た。私は、貴史の頭を抱きしめるようにして眠るのが好きだった。貴史の髪からは、春のお日さまのような匂いがした。その匂いを胸いっぱいに吸い込んで、幸福な気持ちで眠りについた。
 貴史は、私の腰に腕をからめ、私の胸に耳を押し当てて眠るのが好きだった。私の心臓の音を聞きながら眠ると、安心できるのだと言っていた。
 私たちは、いつでも一緒がよかった。二人で真面目に語り合ったものだ。私たちは、本当は双子で生まれるべき運命だったのだと。それが、意地悪な両親のせいで二人の間に二年の差ができてしまった。だから今、その二年分の寂しさを埋めるために、こうして子宮の中にいる胎児のように、布団の中で二人抱きあっているのだと。
 しかし、仮の子宮で二人が抱きあっていられたのは、本当に二年だけだった。


 貴史が初めて彼女を作ったのは、貴史が高校一年、私が三年の夏のことだ。私たちは、同じ高校に進学していた。
 貴史の相手は、私の親友の彩子だった。美人で、性格もよい彼女。私の大好きな二人。私は心から二人を祝福した。
 しかし、その夜から貴史はもう私の部屋へはやってこなかった。私が貴史の部屋へ行っても、眠る時間にはやんわりと追い出された。もう、おたがい一緒に寝るべき年ではないことが、貴史にはわかったのだ。ベッドで共に眠るのは、姉ではなく、恋人であるべき女なのだという当然のことが。
 しかし、私にはしばらくそれがわからなかった。寂しさから母の酒を盗み飲みするようになったのは、この頃からだ。一人のベッドは広くて冷たくて、お酒の力を借りなければ眠りにつくこともできなかった。
 そのうち私にも彼ができた。相手はクラスメートの冴木という男だった。彼は、貴史と同じ写真部員でもあった。能天気と言ってもいいくらい明るくハイテンションな男で、私は自分にはない、その自然な明るさに惹かれた。お互いが知り合いということで、よく遊園地などでダブルデートをしたりした。
 二組の仲良し幸せカップル。でも、そんな幻想は長続きしなかった。
「だって、私は果南子じゃないもの!」
「俺は、貴史の代わり?」
 二人とも、同じようなセリフを投げつけて、私たちから去っていった。何が原因でそういう結果を迎えたのか、今となっては、もうはっきりと覚えてもいない。――たぶん、ほんの些細なことが、空から舞い落ちる雪のように、少しずつ私たちの上に積もっていったのだろう。ほとんど無意識のうちに、私は冴木に貴史の姿を、貴史は彩子に私の姿を投影させていたのだ。
――でも、実のところ、私はほっとしていたのかもしれない。おたがいの存在から巣立てない、変わることのできない私たちに。それが冴木と彩子を傷つけていたとわかっていても、私には貴史さえいればよかった。そのことだけは一生変わらないと思っていた。
 それなのに、私たちは変わってしまった。それも、あまりよくない方向に。


 三時五十分になって、そろそろナナコを起こさなければと思い始めた頃、彼女の部屋のドアが開いた。
「おはよー、果南ちゃん」
 アルコールはまったく残っていないらしい、爽やかな笑顔で、ナナコは真っ直ぐ洗面所に入っていった。顔を洗い、歯を磨いてでてきた彼女は、もう外行き用の顔になっている。
「それじゃ、バイト行ってくるね」
「うん。がんばってね」
 ドアがばたんと閉まり、私は、また一人になった。
 それにしても、ナナコはなんのバイトをしているのだろう。服装はジーンズにカットソーだから、事務系の仕事ではないだろう。化粧もほとんどしてないようだから、お水関係の仕事でもなさそうだ。
 ナナコは、ほとんど自分のことを語らない。今までは、顔をあわせれば、いやあわさなくても電話で自分のことばかり話したがる友達がほとんどだった。あえて、そういうタイプの友達ばかりを選んでいたのかもしれない。自分の家庭のことを話すぐらいなら、相手の毒にも薬にもならないおしゃべりにつきあうほうが、よっぽど楽だった。だから、ナナコのように、私のことを何でも話してしまいたくなるタイプの友達は初めてだった。
 そして、そんなナナコだから、一緒に暮らしたいと思ったのかもしれない。独りになるのは嫌だったけど、そばにいるのが誰でもよかったわけじゃないのだ。


 たまっていたシンクの洗い物をようやく片づけた頃には、もう五時を過ぎていて、そろそろ夕飯のことを考えなければならない時間だった。
 作るのは、考えただけでも面倒だった。第一、冷蔵庫には材料が何もない。
 しかし、一人で外食するのもなんだかわびしすぎる。友達のほとんどはすでに結婚していて、夫や子供を放り出して私の夕食につきあってくれる人はいなかった。それに、しばらく外食が続いていたので、財布のほうもあまり保ちそうにない。考えた末、私は米を研ぎ、炊飯器をセットして大通のデパートまで行くことにした。地下の食品売場で、何かおいしそうな惣菜を見繕うことにしよう。
 軽く化粧をすると、私はまたリュックをつかんで外に出た。


 土曜日の夕方、地下鉄の改札口は人であふれていた。地下街入り口そばの大型テレビの付近には、携帯を持った若い人たちが何人も座り込んでいる。そういう人たちをしっかり横目で見ておきながら、何も目に入らないかのように私は真っ直ぐデパートの入り口に向かって歩いていった。
 焼き鳥やサラダなどを買おうか、それとも惣菜バイキングにしようか考えながらぶらぶらと地下一階を歩き回っていると、見覚えのあるネクタイが目の前に現れた。
 顔を上げてみると、目の前にいたのは北嶋だった。
「よう」
「……なんか、見覚えのあるネクタイだと思った」
 私が、北嶋の誕生日にあげたネクタイだった。
 化粧してきてよかった、と思った。好きな人に美しく見てもらいたい、なんてしおらしい考えではない。見栄だ。捨てられてやつれた惨めな愛人、とは見られたくない。そう思うと、服が気にかかった。いっそブランド物のスーツでも着てくればよかった。ユニクロのシャツじゃなくて。
「買い物?」
「うん。北嶋さんも?」
「ああ。……カミさんが同窓会で、晩飯ないから」
 そう言って、彼は惣菜の入ったビニール袋を見せた。私は、何となく笑ってしまった。
「ところで、元気だった?」
 北嶋は、私の目をのぞき込むように見ながら、おだやかな声で言った。
 ダメだ、と思った。また、ずるずるしてしまう。


 安っぽいラブホテルで済ませてしまうと、北嶋はさっさと服を着て帰り支度を始めた。
「奥さん、留守なんでしょ?」
「……娘が、晩飯待ってるんだ」
 私と目を合わさずに言うと、北嶋はテーブルの上にお札を置いた。
「ホテル代、ここに置いておくから。悪いけど、先に帰るわ」
 特大ベッドに裸のまま横たわりながら、私は無言で彼を見送った。北嶋が部屋を出ていってから、起きあがり、ゆっくりと服を着た。テーブルの上のお金を見ると、ここのホテル代よりもかなり多めの金額を北嶋は残していた。
 つきあっていた頃の北嶋は、「金がない」が口癖だった。住宅ローンに子供の教育費。それなのに、不景気のせいで残業代はカット。仕方のないことだから、私はそれほど気にしていなかった。食事代、ホテル代は割り勘で当然、私が出すこともたびたびあった。私がマンションを買ってからは、いつも私の部屋で手料理を食べ、抱きあった。
 それでよかった。金はなくても愛はあるなんて、能天気にも思っていられたのだから。
 私は、そのお金をわしづかみにすると、ホテルを出た。そして、なじみの飲み屋のある方角へ歩き出した。こんなお金は、さっさと飲み干してしまうに限る。


 深夜、家に着くとナナコはもう帰ってきていた。
 私はトイレに行くと、便器に顔を突っこむようにして、げえげえ吐いた。北嶋のくれたお金は、全部トイレの中に流されていった。いつの間にか横にきていたナナコが、背中をさすってくれている。吐くものがなくなると、私はナナコに支えられながらトイレを出た。
 寝室につくと、ナナコの手をふりほどくようにベッドに倒れ込んだ。天井がぐるぐると回っているような気がする。また気持ちが悪くなって、空吐きした。苦い胃液が口の中で粘りついて、ますます吐き気を募らせた。
 ナナコは、洗面器とコップを持ってきた。私は洗面器の中に胃液を吐き出すと、水で口の中をゆすいだ。それを繰り返すうちに、ようやく吐き気はおさまった。吐く苦しさで、私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。ナナコがタオルを持ってきて、拭いてくれた。
「……私って、馬鹿」
 タオルを顔に押し当てたまま、ようやく、それだけ言えた。
 ナナコはおだやかな表情で、私の髪を撫でてくれていた。その仕草が母親のようだと思ったが、考えてみれば、私は母からそのように慰められたことなど今までないのだった。
「果南ちゃんは、ちっとも馬鹿じゃないよ」
「ホントに?」
「うん、本当」
 まったく馬鹿な酔っぱらいだと思うけれど、ナナコのその一言で、鼻の奥がツンと痛くなった。つらいときや悲しいとき、優しく慰めてもらうということを、しばらく忘れていたようだ。だからナナコの一言で、こんなに泣きたい気持ちになるのだ。
 その夜はナナコの温もりを感じながら、夢も見ずにぐっすり眠った。


 目が覚めたのは、もう十時過ぎ。ナナコはいなかった。
 昨日と同じように、シャワーを浴びた。無性におなかが空いていた。炊飯器にそのままになっていた昨夜のご飯で、お茶漬けを二杯食べた。
 おなかが落ち着くと、部屋の中の臭いが気になって、窓を全部開けた。昨日と違って、どんよりとした雲が空を覆っていた。湿った風が、雨の匂いを運んでくる。
 午後からは、貴史が愛人とやってくる。お茶菓子でも用意しておくべきなのだろうか。


 チャイムが鳴ったのは、お昼ごはんのカップうどんを食べ終わった直後だった。あわててカップをシンクに放り込むと、ドアを開けた。相変わらず飄々とした貴史と、こわばった表情の愛人、由佳さんがいた。由佳さんは、たぶん二十代後半で小柄な人だった。少し、私に似ているかもしれない。
 とりあえず二人を居間に通し、私はティーパックの紅茶をいれた。さっき買ってきたクッキーと一緒に出して、由佳さんに砂糖を勧めると、小さな声で「いいです」という返事がかえってきた。
「今日の用件は、だいたいわかっていると思うけれど……」
 落ち着いた口調で、貴史が話を切りだした。由佳さんは、じっとうつむいている。
 約束した手前仕方なく同席しているが、何とも居心地が悪い。ほんの何週間か前、私自身が体験したことをリプレイしているみたいだ。男は、淡々と別れを切り出す。女は、うつむいてじっと話を聞いている。そして…… 。
 私の場合は、娘の自殺未遂のことで北嶋の妻から責められたことで面倒くさくなっていたのと、プライドが手伝って、あっさりと別れることに同意したのだった。他の女はどうやって別れるのだろうという興味はないでもなかったが、純粋に他人事として面白がるには、自分の最近の経験が生々しすぎた。
 風が強くなってきていた。がたがたと音がする窓を見てみると、雨粒がガラスを濡らし始めたところだった。どうりで、部屋の中が暗いはずだ。
「……由佳には、本当に済まないことをしたと思っているんだ」
 由佳さんが一言も口をきかないまま、貴史の話は続いている。
 それにしても、男の別れ話というのはオリジナリティがない。北嶋と、かなりセリフがだぶっている。マニュアルでもあるのだろうか。
「……わかったわ」
 小さな声で、由佳さんが言った。貴史はほっとしたように、ぬるくなった紅茶を一口飲んで唇を湿した。由佳さんは無表情のまま下を向き、ハンドバッグからハンカチでも取り出すように、華奢なナイフを取りだした。そして、そのナイフを両手で握り、凄みのある笑顔で貴史を見つめていた。
 貴史のほうは、呆然とした顔で由佳さんを見ていた。由佳さんをそこまで追いつめていたなんて、まるで考えもしていなかったのだろう。貴史にとって、これは父もやっていた軽い遊びにすぎないのだから。
(貴史が殺される?)
 胸の奥が、スーッと冷たくなった。
(死ぬ……貴史がいなくなる。そんなことは許さない!)
 昔、母に無理やり部屋を分けられたときのような、いや、それよりもはるかに強い怒りが私をとらえた。ひどいことを先にしたのは、貴史のほうだ。頭では、それはわかっている。だけど心は、私から貴史を奪い取ろうとする者への怒りで荒れ狂っていた。
(貴史は絶対に死なせない!)
 怒りのせいか、頭の芯が痺れるように痛かった。突然、どこからか現れたナナコが貴史の前に飛び出してきたのが見えた。それは、由佳さんがナイフごと貴史にぶつかっていったのと同時だった。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。脇腹に、鋭い痛みが走った。我に返ると、刺されていたのは、私だった。
「果南子! 果南子!」
 貴史が、私を抱きかかえて叫んでいた。由佳さんは、血塗れのナイフを持ったまま、呆然と座り込んでいる。私のお気に入りのラグが、見る見るうちに赤く染まっていく。
 ナナコはどこへ行ったのだろう。首をまわして、部屋の中を見たが、彼女の姿はどこにもない。脇腹の痛みに気が遠くなりそうになり、もう、わけがわからなかった。なぜ、刺されたのが私なのだろう。ナナコはどこに消えてしまったのだろう。
「……ねえ、ナナコはどこ?」
 私の名を呼び続けていた貴史が、一瞬絶句した。その目に、恐怖の色が浮かんでいた。由佳さんに対する恐怖ではなく、ここにはいない、誰かに対しての。
 私はデジャ・ビュを感じた。前にもこういうことがあった。流れている私の血、恐怖を感じているらしい貴史、ここにはいない、懐かしい温かい人……。
 傷が痛み、私は思わずうめき声をあげてしまった。
「今すぐ救急車を呼ぶから」
 貴史が、携帯を取り出した。
 由佳さんは両手で顔を覆い、泣いているような、笑っているようなひきつった声を出していた。ナイフはいつの間にか床の上に落ちている。私の血に怖気づいたのか、これ以上貴史を襲う気力はなさそうだ。ホッとすると、だんだん目の前が暗くなり、やがて何もわからなくなった。