ルームメイト 3



 気がついたら、私は病院のベッドの上だった。白い蛍光灯が、ベッドの上の薄い掛け布団を冷たく照らしている。萌黄色のカーテンに囲まれていて、室内の様子はよくわからなかったが、静まり返っている様子からすると、個室らしかった。私の右腕には針が刺さっていて、吊り下げられた袋から、透明な液体が一滴、二滴と私の中に入ってくる。
 横には、目の下が黒ずみ、無精ひげもちらほら生えている貴史がいた。私が目を開けたことに気づくと、かすかに安堵の表情を浮かべた。
「……貴史、ナナコは?」
「……怪我は、思ったより軽いから。内蔵も損傷していないから、治りも早いって」
「それはよかったわ。それで、ナナコは?」
「由佳が、今警察で取調べを受けている。果南子のところにも、たぶん後で事情聴取に来るから」
「ねえ、ナナコは?」
 私はイライラしながら尋ねた。私がこんなに傷ついているときに、ナナコがそばにいてくれないはずがない。
「果南子、ハナコのこと、覚えているか?」
 貴史が苦渋の表情で切りだした。
「ハナコ?」
 突然何を言い出すんだろう。私は、貴史を睨んだ。
 でも、ハナコって……。覚えがないわけではなかった。あれは……、彼女がそばにいたのは……。
 左手首が、鈍く痛んだ。いけない。思い出してはいけない。
「高校三年の頃、果南子が先輩と別れて、ふさぎ込んでいたときの……」
 貴史の言葉に、私は何も答えられなかった。
 あの頃の記憶は、もう切れ切れになっていた。覚えているのは、冴木が別れ際に放った言葉。それから……? だめだ。思い出したくない。
「あのとき、傷を診てくれた医者が言っていただろ。架空の人物を創りだして、現実から逃げているって。心療内科できちんと診てもらうべきだって……」
「ナナコは架空の人物じゃないわよ!」
 大声を出したら、脇腹の傷に響いた。私は顔をしかめて、左手でそっとおなかを押さえた。貴史は、それ以上言うのをやめた。
「……俺、そろそろ行くわ。あとで、母さん来るから」
「あんな女、来なくていい。ナナコを呼んで」
 貴史は何も言わず、疲れた表情のまま、病室を出ていった。


 一人になり、私は、ナナコのこととハナコのことを考えていた。
 ハナコのことを思うと、なぜか左手首が疼くように痛む。私は、そっと左手首を目の前にかざした。貴史にもらった腕時計は、ベッドの横のテレビ台の上に載せられていた。たぶん、治療の邪魔になるのではずされたのだろう。
 私は、じっと目を凝らした。左手首には、うっすらと白い傷痕があった。
 ――冴木と別れた頃、彩子とは貴史のことで気まずくなっていた。母や父に何も期待できないのは、わかりきっていた。
 貴史でさえ、もう昔の貴史ではなかった。彩子と別れた後も、貴史は手当たり次第にいろいろな女とつきあっていた。年上の女が多かったと思う。
 そんなとき、確かに誰かがそばにいてくれた。私のすべてを受け止めて、包み込んでくれる優しい人が。それが、ハナコだったのだろうか。もう、ハナコの顔も、声も覚えていない。でも、優しい手の感触と、声がナナコに似ていたような気がする。
 自然に、目から涙があふれた。
 そうだ。確かに、ハナコとナナコは似ている。どうして、今までそのことを忘れていたんだろう。あの頃、あんなに頼りにしていた人だったのに。
 あの日、ハナコにいろいろなことを話していたとき、私の声を訝しく思った貴史が私の部屋に来た。そして、ハナコの存在を否定した。言い争っているうちに、興奮した私は自分の手首を切ったのだ。もう私のそばにいてくれない、私の大切な人を認めてくれない貴史に当てつけるために。
 応急処置も、病院へ連れていってくれたのも、みんな貴史だった。母は酔い潰れていた。彼女は、きっと今でも私が手首を切ったことなど知らないだろう。
 包帯がはずれた頃、貴史は自分の腕時計を私にくれた。ベルトが太いから、傷痕を隠せるだろうという思いやりからだった。
 ハナコは、それ以来私の前に現れなかった。現実のあわただしさに紛れて、私もいつしかハナコのことを忘れていった。いや、無意識に忘れようとしていたのだろう。ハナコのことを思い出すと、必然的に誰からも見捨てられていた、惨めな自分の姿を思い出してしまうから。生きるためには、忘れることが必要だったのだ。


 母は、結局こなかった。入院用品を持った恵美さんが、申し訳なさそうにやってきただけだった。
「遅くなってごめんなさい。お義母さん、体調が悪いっていうものだから」
 言い訳しながら、恵美さんはベッド横の戸棚に、洗面用具や着がえを入れてくれた。
「来てくれないほうがいいのよ。あの人の顔見ると、よけい傷が悪化しそう」
 普段から私たち母娘の仲の悪さを知っている彼女は、小さく笑った。あの母に悩まされているという点では、私たちは同士でもあるのだ。もっとも、彼女にとっては私も貴史に執着している、うるさい小姑にすぎないのだろうが。
 入院用品を片付けてしまうと、もう彼女にはすることがなかった。
「……それじゃ、愛里が心配なので、申し訳ないんですけど」
「いいわよ、気にしなくて。わざわざ悪かったわね」
 わざと元気そうに言った。完全看護の病院なので付き添いは必要ないし、恵美さんにいてもらっても、心は落ち着かない。私が今そばにいて欲しいのは、ナナコなのだ。
 恵美さんは帰ろうとしてドアに手をかけ、思い直したように振り向いた。
「……私、やっぱり別れることにします」
「貴史のこと、どうしても許せないの?」
 彼女は頷いた。その拍子に零れ落ちた涙を、ハンカチで拭った。
「それに――それに私、愛里をあなたのようにしたくありませんから」
 そう言うと、恵美さんは頭を下げて、病室を出ていった。
 おとなしいだけの女だと思っていたのに、なかなか辛辣なことを言うようになったものだ。嫁姑の争いの中で鍛えられたのだろうか。それとも、母は強しということなのだろうか。
 別に腹は立たなかった。


 することもなく、ぼんやりと白い天井を眺めていると、ノックの音がして、返事をする前にドアが開いた。現れたのは、ラフなポロシャツにジーンズ姿の北嶋だった。手には、苺の入ったビニール袋を下げている。
「……よう、大丈夫か?」
 昨夜の出来事に、あれほど腹を立てていたのに、北嶋の顔を見ると、思わず涙腺がゆるみそうになった。だから、自然とぶっきらぼうな口調になってしまう。
「なんで?」
「その、ニュースで見て、びっくりして……」
 北嶋は、苺の袋をテーブルの上に置いたが、居心地悪そうに立ったままだった。
「それで、わざわざ?」
 またも、涙腺がゆるみそうになったので、私はひとつ鼻をすすった。
「ヒナノも気にしてるんだ。昨日会って、刺せばいいって話題になったんだって? 偶然の一致にしても、自分の悪意が伝わったせいなんじゃないかって、その、すごく……」
 一気に白けた。彼は私の身体を心配するあまり日曜日の夕方に駆けつけてくれたのではなくて、娘の取り越し苦労を解消してやるためだけに、渋々やってきたというわけだ。
「お嬢さんに教えてやって。憎まれっ子世にはばかるって言葉。私は全然ぴんぴんしてるから、心配するには及ばないわよ。残念なことにね」
 少しの間、沈黙があった。
「帰って。もう二度と私の前に現れないで」
 本心からそう言うと、私は横を向いた。
 北嶋は、口の中で何かもごもご言うと、病室を出ていった。
 ヒナノには、おそらくハナコやナナコのような存在が現れることはないだろう。それを羨ましいと思わないように、私は歯を食いしばった。


 一週間後、私は退院した。貴史が車で迎えに来てくれた。
 車の中で、私たちは由佳さんのことも、恵美さんのことも話題にしなかった。もちろんナナコやハナコ、それに母のことも。
 昔、あんなにおしゃべりでおたがいを慰めあっていた私たちは、今はそのおしゃべりがおたがいを傷つけるもとにしかならないことを知っていた。車の中は、場違いに明るいJ―POPが薄っぺらく響いていた。
 部屋は思っていたよりも片づいていた。私の血が染みついたラグは処分されていた。
「ありがとう。片づけておいてくれたのね」
「いや、もともと俺のせいだし」
 貴史は、居間のテーブルの横に、入院用品の入った紙袋を置いた。そして、ソファに腰掛けた。お茶でも入れようとキッチンに行きかけた私を軽く制し、向かい側に座るように促した。そこは、あの日由佳さんが座った場所だ。
「恵美さんは……」
「病院で……」
 私たちは、同時に口を開いた。そして、苦笑いをして言葉を引っこめた。
「いいわよ。先に言って」
 そう言うと、貴史の表情からは笑みが消え、真剣な表情になった。
「病院で、心療内科の先生にも診てもらったのか?」
「まだそんなこと言ってるの」
 やはりお茶を淹れよう。私は立ち上がった。とても喉が乾いていた。
「俺は心配しているんだぞ!」
 珍しく怒っている貴史の声が、キッチンまで追いかけてきた。
「私だって心配しているのよ。あんた、いつか本当に刺し殺されるわよ。どうせなら親父みたいに要領よくやらなきゃ」
 私は緑茶の入った湯呑みを二つ、トレイに載せて居間に戻った。貴史の顔を見ないようにして、それぞれの前に湯呑みを置いた。
「それより、恵美さんとは本当に別れるの?」
「ああ。まあ、仕方ないさ」
 病院で恵美さんに言われた言葉は、貴史には伝えていなかった。もしも貴史がそのことを知っていたら、愛里ちゃんのために恵美さんとやり直す道を選んだだろうか。それとも、やはり「仕方ない」の一言で片づけてしまうのだろうか。
 貴史はお茶をすすり、顔をしかめた。猫舌なのは、昔から変わらない。思わず笑いがこぼれてしまう。
「なんか、冷たい飲み物にするね」
 キッチンへ行き、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを出そうとしていると、突然背後からきつく抱きしめられた。
「……あのとき、果南子が死ぬかもと思ったら、ものすごく怖かった」
 今にも泣き出しそうなかすれ声で、貴史が言った。
「昔、果南子が手首を切ったときよりも、ずっと、ずっと」
 貴史の腕の力がゆるんだので、私は貴史のほうに向き直った。貴史は、今度は私を正面から抱きしめると唇を重ね、力強く私の舌を吸った。
 愛しい。世界中でただ一人、貴史だけが愛しい。大きな温かい手で、私をしっかりと抱きしめてくれる。永遠に、この腕に抱かれていたいのに。
 でも、それは、望むことさえ許されないのだ。
 私は、前に貴史とキスしたときのことも思い出していた。冴木と別れ、貴史も彩子と別れた頃、私たちは久しぶりに一緒のベッドで寝た。朝まで、何度もキスをした。飽きることもなかった。冴木とでは違和感のあったことが、貴史とならぴったりと上手くいった。貴史もそうだったのだろうと思う。私たちは、おたがいのために存在する二人だった。その夜、私たちは仮の子宮で眠る胎児ではなく、成長した男と女だった。
 貴史と一緒に眠ったのは、それっきりだった。私たちは怖くなってしまったのだ。最後の一線を越えてしまうことが、あまりにも簡単である事実に。
 私は貴史を愛している。貴史も私を愛している。それは間違いのないことなのに、どこかでどうしようもなく私たちは間違っている。
 私から目を背けるように、貴史はいろいろな女とつきあった。そして、私にはハナコが現れた。
 頬が生温かく濡れていた。貴史が、泣いていた。子供の頃のように。私から唇を離すと、貴史はその場に力なく跪いた。私は貴史の頭を抱きかかえた。貴史の髪からは、春のお日さまではなく、煙草と整髪剤の匂いがした。
 私は、私たちを生んだ両親を憎んだ。私も貴史も別々の親から生まれ、もっとまともな家庭で育ちたかった。そして、まったくの他人として出会いたかった。――決してかなうことのない夢だったけれど。
 いつの間にか、私も泣いていた。私の涙が、貴史の髪の毛を静かに濡らしていた。私たちは抱きあったまま、静かに泣いていた。
 やがて、貴史が突然ともいえる勢いで、私の体から身を離した。
「また、来るから」
 そう言うと、私の顔を見ようともせず、キッチンから出ていった。そして、玄関のドアが閉められる音が、静かな部屋の中に響いた。


 私は、そのままキッチンの床にぺたりと座りこんでいた。
 待っていたのだ、ナナコが現れるのを。ナナコが現れ、私を慰め、そして私を許してくれるのを。しかし、ナナコはもちろん、ハナコさえ現れはしなかった。私は冷蔵庫につかまりながら、ゆっくりと立ち上がって、キッチンを出た。そして、玄関横のナナコの部屋の前まで行ってみた。静まり返っていて、人の気配は感じられなかった。意を決めて、私はナナコの部屋をノックした。
 返事はなかった。
 ノブをまわして、中に入った。中は、がらんとしていた。家具ひとつなく、窓枠にはうっすらと埃が積もっている。人のいた痕跡など、皆無だった。
 また、新たな涙が出た。
 雑巾を持ってくると、埃を拭った。ナナコのいないことは覚悟していたけれど、無人の痕跡には耐えられない。窓を開けて掃除機をかけ、枯れかけたグリーンや、椅子や、CDプレイヤーなどを置いた。それで、どうにか私の部屋になった。
 もう、ナナコやハナコに甘えることもできないのだ。そう思うだけで、あとからあとから涙はあふれた。私は乱暴に手の甲で涙を拭った。泣いたって、喚いたって、もう誰もいない。
 貴史とも、当分会えないだろう。貴史に新しい彼女ができて、私にも誰かつきあう男ができて、おたがいが安全だと思えるようになるまでは。そんな日がいつ来るのか、本当にそんな日が訪れるのか、自信もないというのに。それまで、私はずっとひとりなのだ。
 キッチンへ戻り、戸棚の中から残っていたウィスキーの瓶を取り出し、震える手でグラスと氷を用意した。北嶋と別れて以来、私の酒量は飛躍的に増えている。身体を壊したってかまわない。いや、むしろこんな身体なんて壊れてしまえばいい。
 手首を切ることは、もうしない。貴史を悲しませてしまうから。でもお酒を飲むだけなら、貴史にも、私の心にもごまかしが効く。すでに頭痛は慢性のものになっている。すさんだ生活が続けば、この忌まわしい血の流れた身体と邪まな想いに囚われた心が、望みどおり消えてくれる日も遠くはないだろう。
 だが、ウィスキーを注ごうとした私の手を、大きな温かい手が止めた。
「やめとけよ。飲みすぎは体に悪いぜ」
 優しい、おだやかな声だった。振り向くと、見知らぬ、だけどどこか懐かしい雰囲気の若い男がいた。私は驚かなかった。体も感情も麻痺してしまったようだった。
「……じゃあ、これからは、あんたが私のそばにいてくれるの?」
 男はニヤリと笑った。
「カナオとかハナオみたいな、ダサい名前は勘弁してくれよ」
「……じゃあ、タケシは?」
 男は右手の親指を立てて、にっこりと笑った。そして、私の肩を軽くたたくと、ナナコのいた部屋に入っていった。
 私は、キッチンに根が生えたように立ちつくしていた。私は嘘つきだった。私の心は、死なんか望んではいなかった。私は生きたかった。愛する人と、一緒に。
 私はきっと、タケシを愛することができるだろう。彼は、ナナコであり、ハナコでもあるのだから。どうせ一番愛している人とは、永遠に一緒になるわけにはいかないのだから、寂しさを穴埋めしてくれる相手が妄想の産物であろうが生身の人間であろうが、かまわない。いや、むしろ誰かを悲しませたり傷つけたりするぐらいなら、「架空の人物」のほうが、ずっと都合がいい。たとえ現実から逃げていると言われても。
 そのうち、私の心が辻褄合わせの物語を創りだし、彼が「架空の人物」であることも忘れさせてくれるだろう。例えば、飲み屋で意気投合した私たちは一緒に暮らすことにした、とでもいうように。
 そして、ナナコのことも、ナナコにまつわる出来事も忘れてしまうのだ。ハナコのことや自殺未遂のことを忘れていたように。それでいい。忘れることで、生きていくことが楽になるのなら。
 とにかく、私はもう独りじゃないのだ。
 私はウィスキーを戸棚に戻し、紅茶を二人分淹れた。トレイに載せると、今はもうタケシのものとなった部屋のドアをノックした。
「どうぞ」
 彼のおだやかな声が聞こえた。彼はいる。間違いなくここに。
 私は高鳴る胸を抑えつつ、ドアを開けた。