ルームメイト 1


 ふつか酔いのことを「千の天使がバスケットボールする」と詩に書いたのは、中原中也だっただろうか。今、私の頭の中にいるのは、天使ではなく悪魔である。
 昨夜、家に帰るなりトイレに駆け込んで吐きまくったのは、なんとなく覚えている。
 いや、それはもしかしたら一昨日か、一週間前の記憶かもしれない。最近は毎晩浴びるように飲んで、泥酔して帰るのが日課になっているから。とりあえず、路上で眠り込むこともなく無事に家にたどり着いたのだから、よかったというべきなんだろう。
 朝、目が覚めたとき、私はきちんとベッドの中で寝ていた。サイドテーブルの上には、封を切った胃腸薬と、水を飲んだ後のコップが置かれている。化粧を落としていないので顔がバリバリになっているのは仕方がないが、スーツはきちんとハンガーに掛けてあった。ルームメイトのナナコがやってくれたんだろう。胃腸薬も、スーツも。
 ナナコは本当にありがたい存在だ。彼女と一緒に住む前の私は、よく玄関やトイレで目を覚ましていたし、スーツもしわしわで着ていく服に困ったものだった。
 今日は土曜日で、私の仕事は休みだけど、フリーターの彼女はもう出かけたようだ。マンションのどこかの部屋から、掃除機をかける音や、子供の泣き声がかすかに聞こえてくる。
 私はのろのろと体を起こした。目が覚めたばかりだというのに、ひどく疲れているような気がする。重い身体を引きずるように浴室へ行き、熱いシャワーを浴びた。まだ頭は痛いが、体中の細胞がアルコールを放出して引き締まってくるような気がする。
 ドライヤーをかけながら、今日と明日の予定を考えた。といっても、掃除、洗濯、買い物ぐらいしかすることを思いつかない。ショートスタイルの髪も、あっという間に乾いてしまったので、予定のことはそれ以上考えないことにした。
 洗濯機をセットしてから、パンツ一枚の姿でキッチンまで行き、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出すと、そのまま口をつけた。
 シンクには洗い物がたまり(それもコップとか、資源ごみに出すために洗わなくてはならないコンビニ弁当の容器ばかりだ)、リビングに置いてあるソファには脱いだ服がだらしなく掛けっぱなしになっている。細かくチェックすれば、棚には埃がたまり、部屋の隅には綿埃が落ちているだろう。寝室も似たりよったり。先週出し忘れた生ゴミが、異臭を放ち始めている。
 掃除をするだけで半日は潰れそうだと思うと、少しうんざりした。しかし、どうせ何も予定のない休日、半日潰れるだけでもありがたいかも、と前向きに考えてみる。
 この2LDKのマンションの中で、きちんと片づいているのは、おそらくナナコの住んでいる玄関横の六畳間だけだろう。もちろん、のぞいてみたことはないけれど、彼女の性格なら間違いない。彼女ぐらいしっかりした、信頼できる人を私は他に知らない。


 私の住んでいるこのマンションは、地下鉄の終点の駅から歩いて十分ほどの所にある。築十五年で四階建ての三階。エレベーターがないのが、ちょっとつらい。
 四年前、弟が結婚するのを機に私は実家を出た。
 もちろん、マンションを買えるほどのお金は持っていなかったが、父の遺産を分けてもらって頭金にし、ローンを組んでこの中古マンションを購入したのだ。
 最初の頃は、というか、つい最近までは、私もきちんと掃除をしていた。それなりに料理も作ったりしていた。部屋の中だって、生ゴミ臭くなかった。訪ねてくる男がいたからだ。
 北嶋という、私よりも六歳上のその男は、私が独り暮らしを始めると毎日のようにやってきた。やってこないのは、土曜日と日曜日だけ。いわゆる、不倫というやつだった。
 短大を卒業して就職して間もない頃から約十二年、私はずっと彼とだらだらとつきあっていた。
 燃え上がるような恋をしていたわけではない。許されぬ関係に酔っていたわけでもない。今にして思えば、彼のどこが好きだったのか、不思議にさえ思う。――強いて言うならば、彼の大きな温かい手、それからどんなときにも荒げることのない、おだやかな声が好きだった。
 もともと彼と結婚する気はなかった。結婚して主婦となり、ましてや母親となるなんて、ぞっとする。ときどきそばにいてくれれば、愛している素振りを見せてさえくれれば、それでよかった。彼の妻も私のことは黙認していたらしい。彼にとって、私は都合のいい女だったと思う。
 そんな円満な関係が、なぜ破局に至ったのかというと、彼の十二歳の娘――彼は妻の妊娠中に、私に手を出したのだった―― が手首を切ったからだ。私のことが原因、らしい。
 もちろん、彼女は死にはしない。本気で死ぬつもりなら、居間で切ったりはしないだろう。しかもほんの浅い傷なのだ。絆創膏をはったら血が止まるくらいの。
 それでも彼女は相当追いつめられていたのだろうし、私のことが許せなかったのに違いない。それまで見て見ぬふりをしていた北嶋の妻は、強い調子で彼に私と別れることを要求した。女としての自分には自信がなかったらしいが、母親としては黙っていられなかったのだろう。話し合いの席で、私は彼女にずいぶん責められた。その横で、北嶋はうつむいて煙草を吸っていた。
 後で聞いてみると、自分が口出しすることで妻の怒りが増幅することを危惧していたんだという。しかし、そのあまりに頼りにならない姿に、私はすっかり冷めてしまった。それで、やめることにした。ずるずる引きずった十二年に、けりをつけた。それはそれでいい。どのみち永遠に続くものだとは思っていなかったのだから。
 だけど、時々思う。もしも、先に私が手首を切っていたら、どんな結果になっていたんだろう。
 もちろん、情緒不安定な思春期じゃあるまいし、誰かにかまってもらいたいばかりに自分を傷つけるような馬鹿なこと、私はしない。
 でも、もしもやっていたら、彼は私のもとへ来てくれたのだろうか。奥さんと子供を捨てて。私は、「私の家庭」を持つことができたのだろうか。


 ピーピーという電子音が、静かな部屋の中に響いた。洗濯機が止まったのだ。
 電気製品の中で、全自動洗濯機がいちばんの働き者だと思う。セットさえしておけば、ほっといても洗って、ゆすいで、脱水までしてくれる。たとえその間、持ち主である私が外出していようと、寝ていようと、あるいは死んでいようと、だ。 融通は利かないけれど、その従順さは愛おしささえ感じてしまう。この次、男を作るときは、全自動洗濯機のような従順な男にしよう。
 馬鹿なことを考えながら、タンスからブラとTシャツとジーンズを出して身につけ、左手首に、男物の腕時計をはめた。もちろん、北嶋の残したものではない。これは弟からのもらい物だ。丈夫なので、もう十五年近く使い続けている。我ながら、物持ちのいい女だと思う。
 バルコニーにある物干し竿に、洗濯物を掛ける。洗濯日和のいい天気で、街路樹のプラタナスの緑が、二日酔いの目に痛いほどだった。
 洗濯物を干し終わると、部屋中に散らばっている服の仕分けにかかった。クリーニングに出す服と、ハンガーに掛けてタンスにしまっておく服を分ける。それを済ませただけで、かなり部屋の中がすっきりしたように見えた。
 その次には、掃除機を出して部屋中の埃を吸いまくった。掃除機は、洗濯機とは違い、何もかもこちらで動かしてやらねばならない。全く手の掛かるやつだ。しかもやっかいなことに、すぐコードか引っかかったり、ホースがねじれたりして使いづらい。おまけに、安物を買ったせいか重い。
 テーブルの足や、部屋の敷居などにさんざん本体をぶつけながら、何とか掃除も終わった、ということにした。この上、拭き掃除をやる気力はない。
 掃除、洗濯を終えてみると、もう昼に近い時間になっていた。
 朝食もまだだったことを思い出し、財布の入ったリュックをつかんで買い物に行くことにした。シンクの洗い物は、そのままにして。


 駅のすぐ近くにあるショッピングセンターまでは、ちょうどいい散歩コースだった。この辺は交通量も少なく、街路樹などの緑も豊かで庭の美しい家も多い。ちょっと足を伸ばせば、大きな公園もある。
 この町に住むことに決めたのは、北嶋のせいだった。
 彼は地下鉄の終点駅から、さらにバスで十五分ほどかかる郊外の新興住宅地に住んでいる。仕事帰りに、地下鉄を降りて私の家でささやかな逢瀬を楽しみ、それから家に帰るのが、月曜から金曜までの彼の日課だった。だから、せっかくの美しい町並みも公園も、彼と一緒に歩いたという思い出はない。そして、私はそのことをそれほど悲しいとも思ってはいなかった。明るい陽射しの中、彼と並んで散歩するよりも、薄暗い部屋で彼の温もりを身近に感じることのほうが、私にとっては大切なことだったからだ。
 ショッピングセンターに入ると、いつもの習慣で二階の本屋に向かった。特に買うものがなくても、本屋では楽に一時間ぐらい時間が潰せる。時間だけはたくさんある今の私には、ありがたい場所だ。
 ファッション誌をぺらぺらとめくっていると、どこからか視線を感じた。顔を上げると、マンガ雑誌を手にした中学生の女の子と目があった。
 まだ一年生なのだろう。スカートの長さも中途半端で、髪もふたつに分けて結んでいる。頬はぷっくりと赤くて幼い感じだが、足だけはすらりと長い。成長期に特有のアンバランスさを、窮屈そうに制服に押し込んでいる感じだ。
 そんな中坊が、じっと私のことを見ていた。いや、見ているなんて穏当なものではない。あれは、ガンを飛ばす、というやつだ。私のことを、不潔なばい菌でも見るかのような目つきで睨みつけている。
 ――ああ、そうか。
 一分ほど彼女とにらめっこしていたら、納得がいった。アレは北嶋の娘だ。嫌になるくらい、奥二重の目と、下だけ厚い唇が似ている。名前は――確か、ヒナノとかいったか。シャツの袖口から、真新しいリストバンドがのぞいて見える。
 たぶん、私はヒナノに対して申し訳ないと感じるべきなのだろう。だけど、私は欠陥人間なので、彼女に対してそんな気持ちはみじんも感じられないのだった。
 ヒナノのせいで北嶋と別れることになったが、そのことで恨んでいるわけでもない。彼女は、私にとって全く知らない子供。それだけだった。普通に街ですれ違うだけなら、きっと彼女に目を留めることもないだろう。
 それにしても、ヒナノは私から視線をそらそうとしない。こちらから目を背けるのもしゃくなので、じっとにらめっこにつきあっているのだが、五分も過ぎるとさすがに面倒くさくなってきた。
 私は雑誌を棚に戻すと、視線を彼女に固定したまま、どんどん近づいていった。ヒナノはびっくりしたようだったが、やはり逃げようともせず、私を睨み続けている。
「謝ってもらったって、絶対に許さない」
 私が口を開く前に、ヒナノはきっぱりと言った。髪に結ばれた黄色い大きなぼんぼりと、なすりつけられたように塗ってあるパールピンクのリップが、彼女の表情とは不釣合いに明るい。
「誰が謝るなんて言った?」
 謝るつもりなんて、全然なかった。私は甘ったれた子供が嫌いだ。甘やかされることが当然だとでも考えているような子供が、私にまで「甘やかし」を強制するのは、筋違いだし迷惑だ。
「私が憎いのなら、私を刺せばよかったのよ。刃物なんて自分に向けるもんじゃないんだから。あんたは十二歳なんだし、たいした罪にもならないわよ」
 そう言い捨てると、私はさっさと階下の食料品売場に向かった。周りで立ち読みしていたおばさんたちが、びっくりしたように――あるいは面白そうに私たちを見ていた。
 エスカレーターでちらりと振り返ると、真っ赤な顔をしたヒナノが、まだこちらを睨みつけていた。しかし、追って来るつもりはないようだった。


 卵や牛肉の特売日であるせいか、食品売場は混んでいた。むしゃくしゃしていたので、私は必要以上に食料品をかごの中に放り込んだ。
 のり弁と、ザンギと、生ハムサラダと、チーズ。それから、安売りの白ワインも買った。 
 買い物袋を下げて歩いていると、土曜日のせいか親子連れとよくすれ違う。お父さんとお母さん。小さな子供がふたり。子供たちははしゃいで父や母の手を引っ張り、母は穏やかな声で子供に話しかけ、父は温かい目で家族を見つめている。典型的な幸せ家族の姿だ。
  同じ家族構成だったのに、私のうちは幸せじゃなかった。
 私の名前は果南子というのだが、それはどうやら、父の当時の愛人の名前から付けられたものらしい。
 後でそのことを知った母は激怒して、それ以来私のことを名前では呼ばなくなった。もともと子供のことを、あまり好きな人ではなかったらしい。派手な化粧をして、毎日のようにどこかへでかけていた。
 私と二歳下の弟は、家に置き去りにされていた。昼ごはんは、テーブルの上に置いてある袋に入ったパンと牛乳を分けあって食べた。夕暮れ時は、だんだん闇に沈んでいく部屋の中が怖くて泣いた。しかし、同じように怖がって泣いている弟がすがりついてくるだけで、抱きしめたり、慰めてくれたりする大きな手や優しい声はなかった。
 母が帰ってくるのは、たいてい父の帰宅予定の一時間ぐらい前。面倒くさそうにテーブルに投げ出すおにぎりや出来合いの惣菜を、私と弟はむさぼるように食べた。母はにこりともせず、煙草を吸いながらテレビを見ていた。それでもよかった。母が帰ってくると、部屋は明るくなり、お腹もいっぱいになる。それだけで、よかった。
 父は母よりも私たちに無関心だった。「仕事が忙しい」という理由で、顔をあわせることはほとんどなかった。たぶん仕事のせいだけではなかったと思う。そして「カナコ」さんと別れたせいか、やはり私のことを名前で呼ぶことはなかった。
 やがて、私は泣かなくなった。部屋が暗ければ、電気をつければいい。寂しければ、テレビやビデオを見ればいい。食べ物は、近くのスーパーで買うことを覚えた。
 いつしか母が帰ってきても、もう湧き上がるような嬉しさは感じられなくなっていた。不機嫌な母に八つ当たりされないように、予想外に早く帰ってきた父との罵りあいの口げんかを聞かされる前に、私と弟は子供部屋に引っこんで眠ってしまうのが常だった。
 父は、八年前に他界した。癌だった。体調が悪くて病院にいったときには、既に手術も無理な状態だった。二ヶ月の入院の後に、逝った。
 私は泣かなかった。父の臨終に立ち会っていても、悲しみを感じることができなかった。親戚などの手前、大袈裟に嘆き悲しんでみせる母に対しても、何の感情も起こらなかった。
 母は、年をとった。子供の頃と同じく私のことは好きではないようだが、長男である弟のことは別らしい。弟が声変わりをした頃、母は気づいたのだ。弟がそれまでのピーピー泣くだけのうるさい子供ではなく、いつかは自分の生活を支えてくれる唯一の男になる可能性に。やがては嫁いで出ていくであろう女の私と違って。
 私には縁のなかった、家族団らん。
 でも、そんなモノ、欲しがっていたのかどうかも、もう忘れてしまった。今は、親に一喜一憂させられることのない大人になれたことだけが、うれしい。


 家に帰ると、ナナコがいた。
「もう、バイト終わったの?」
「ううん。夕方から、また行くの」
 ナナコは、ソファの背にもたれながら、のんびりと答えた。長い黒髪が、色白の肌を際立たせている。一重で切れ長の目の彼女は、和風の美人だった。
 テレビがついていて、再放送のバラエティ番組が乾いた笑いを部屋に振りまいていた。真剣に見ていたわけでもないらしい。ナナコは、リモコンでスイッチを切った。
「ゆうべは悪かったわね。また迷惑かけたみたいで」
 のり弁とワインとザンギとサラダとチーズを並べながら、私は礼を言った。
「別に。もう慣れっこ」
 やはりのんびり笑いながら、ナナコはワインのグラスを受け取った。泥酔して迷惑をかける私を責めることもせず、昼間からの酒につきあってくれる。ありがたいルームメイトである。
 私は、ナナコのことをほとんど知らない。仕事も、家族のことも、年齢も。
 それでも、私はナナコのことが好きだ。そばにいるとほっとできる、唯一の人間だ。飲み屋で酔い潰れていた私を介抱してくれたのがきっかけで、その日彼女はうちに泊まった。バイトを一つ首になって、家賃の払いに頭を痛めているという話を聞いて、私は即座に一緒に住もうと提案した。
 認めるのも癪だが、北嶋と別れたばかりで、かなり精神的に弱っていたのだと思う。それでも、彼女との気の置けない同居生活は、来てもすぐに帰ってしまう北嶋を待ちわびる生活よりは、気楽で心が落ち着く。
 ナナコは、ワイングラスを両手で支えるように持って、そっとすすっていた。私と違って、彼女は酒に強くない。
 それにひきかえ、私は水のようにワインを胃に流し込んでいた。せっかく買ってきたのり弁だが、ごはんをあまり食べる気になれず、おかずを少しつつくだけだった。迎え酒のつもりのワインだったのに、頭痛は朝よりもひどくなっている。
「果南ちゃん、よく、そんなに飲めるわねえ」
 ナナコは、にこにこしながら言った。
「……実は、さっきね」
 私は、ショッピングセンターで北嶋の娘に会ったことを、ナナコに話した。「刺せば」と挑発したことまで隠さずに。
「あらあら」
 ナナコはグラスをおいて、チーズをひとつ口の中に放り込んだ。
「果南ちゃんは、その子が羨ましかったんだもんねえ。つい、意地悪も言っちゃうわよね」
「何よ、それ」
 私は、上目遣いでナナコを睨んだ。
「だって、そうでしょ。果南ちゃんには、できなかったんだもん。お父さんの不倫をやめさせること」
「できなかったんじゃないわよ。そんなこと、しようとも思わなかったのよ。自分の思い通りにならないからって、手首を切るなんて馬鹿らしいじゃないの」
「でもねえ……」
 タイミング良く、電話が鳴った。この話を打ち切るきっかけができたので、私は喜んで受話器を取った。
「もしもし」
『果南子、俺』
 電話は、弟の貴史からだった。
 貴史は、昔から私のことを名前で呼び捨てにする。それでも私は、貴史のことを生意気だとは思わない。ずっと昔、私たちがまだ幼い頃、母が私の名前を呼んでくれないことが悲しくて、布団の中でこっそり泣いていたのを、貴史は知っているのだ。
「どうしたの。何か用?」
『うん。果南子さあ、明日ひま?』
「ひまだけど、何か?」
『うん……ちょっとつきあってもらえないかな。由佳と話し合うことになったんだけど、二人きりだとなんかやばい気がして。恵美は実家だし。あの人と一緒だと、余計ややこしくなりそうだし』
 あの人というのは、母のことだ。
「いいよ。ひまだし」
『ありがと。じゃ、明日の昼過ぎに行くから』
 用件だけ告げると、貴史はさっさと電話を切った。
 もっとも、貴史とはしばしば連絡を取り合っているので、今更長電話になるほどの話もない。


 由佳というのは、貴史の愛人だ。
 四年前結婚した貴史は、実家を二世帯住宅に改築して母親と同居している。その母と、貴史の妻である恵美さんはあまり折り合いがよくなかった。恵美さんは、どちらかというと地味な、おとなしい人で、家庭的な雰囲気を持っている。しかし、どんな女でも母は気に入らないのだった。貴史に執着している母にとっては、どんな女性もライバルなのだろう。――実の娘である、私でさえも。
 貴史は、母に対しては当たり障りのない態度で接している。好き嫌いは別として、血のつながった母親という立場は尊重しているのだろう。愛してもいないくせに、法律上の妻であり、子供たちの母親という立場だけを尊重していた父親とそっくりだ。
 恵美さんの妊娠中に、貴史はよそに女を作った。そんなところまで父親にそっくりになってしまった。
 しばらくは上手く隠していたのだが、最近恵美さんにばれたようで、彼女は一人娘の愛里ちゃんを連れて実家に帰ってしまっていた。
 愛人と話し合うということは、そっちと別れて恵美さんとよりを戻すつもりなのだろう。結局、子供の存在は重いのだ。浮気ばかりしていた父でさえ、子供である私たちのために、という理由で母と別れることはなかった。それが私たちのためになっていたとは、決して思えないのだが。
 恵美さんに恨みはないが、ついこの間まで愛人をやっていた私としては、複雑な気持ちだった。