書く女 2


* * *

 それは、榊原敬史にとって、期待していた誘いだった。
 榊原は、入行した頃から中野蓉子が好きだった。
 銀行は、就職活動をしていたとき予想していた以上に厳しいところであった。
 ノルマはきつい。行員も、地方銀行とはいえ、その地方では金融業界のエリートであると自負(もしくは勘違い)している人が多いせいか、または金を扱う仕事のせいか、性格がきつい。ノルマがこなせなければ、人間扱いされない。仕事のできる先輩は、「俺が稼いできた金だ」という意識があるから、ノルマのこなせない人間は給料泥棒扱いである。
 仕事ができる人間でも、目の前でやりとりされる多額の数字に目が眩んで使い込みをし、懲戒免職になる者もいる。他人の貴重なトラの子を扱うプレッシャーのあまり、精神に変調をきたす者もいる。榊原にとって、職場は毎日が戦場なのであった。
 そんな戦場で、蓉子はまさにナイチンゲールだった。彼女は仕事ができるが、決して他人を見下すようなことは言わなかった。
 入行当時は、業務課に配属されて銀行業務を一から叩き込まれていた。毎日何かしら失敗を繰り返していた。それでも蓉子は、優しく、ときに厳しく、榊原の指導を続けていた。
 課長に叱られて落ち込んだ日には、飲みに連れ出して愚痴を聞いてくれた。ノルマがこなせなくて困っていたときは、普通預金残高の多い顧客をリストアップして、勧誘してみるように勧めてくれた。
 自信をなくし、銀行を辞めようかと思いつめていた榊原を、一人前の社会人にしてくれたのは、蓉子だった。蓉子を先輩としてではなく、一人の女性として意識するようになるのに、時間はかからなかった。
 やがて配置換えで所属する課は変わったが、彼女と対等になりたい、彼女に認められるような男になりたいと頑張ってきた結果、榊原は周囲も一目置く仕事のできる男になっていた。
 今度の人事異動では、本店に栄転するという内示が出ている。
 そろそろ蓉子に、自分を男として見てくれるのか、確かめなければならなかった。
 その決意を固めていたときに、蓉子からの誘いの電話がきたのである。

 2DKのアパートで、榊原はネクタイを締めなおしていた。ちょうど帰りついて、着替えようとしていたときに電話が来たのだ。私服に替えるよりも、このままのスーツ姿のほうがいいだろう。今日のように、真面目な話をするつもりのときは。
 銀行には独身寮もあるのだが、榊原は学生時代からのこの古いアパートの二階に住み続けていた。このアパートは、彼の祖父の持ち物で、家賃もほとんどただのようなものだった。だが、本店に転勤になれば、ここも引っ越さなければならない。
 そのとき、インターホンが鳴った。
「はい」
「あたし」
「おう、開いてるぞ。入れよ」
 ドアを開け、サンダルを脱いで入り込んできたのは、隣の部屋に住んでいる小学六年生の有紗(ありさ)だった。彼女は、榊原の従妹である。
「無用心だね。あたしが強盗だったら、どうするのよ」
「平気平気。盗られる物ねーしよ」
 そう言いながら、榊原はあわただしくスーツの袖に腕を通した。
「出かけるの?」
「おう。ちょっと先輩に呼び出されちまってよ」
「えー。せっかく聖剣の続きやろうと思ったのに」
「悪い。ソフト貸してやるから、自分ちでやれよ」
「……一人じゃつまんないもん」
 有紗の母、つまり榊原の叔母は、三年前に離婚していた。看護士をしているので、夜遅い日もあった。そんな夜は、有紗は榊原の部屋で過ごすのが常だった。
 榊原は、有紗の髪をくしゃっと撫ぜた。
「明日は休みだから、一日中つきあうよ。今夜は、我慢して自分の部屋でやってれ」
「絶対、明日は一緒だよ」
「ああ、約束すっから」
 榊原は、ジェルをつけて髪を撫で付けた。
「もしかして、先輩って女?」
 クッションを抱え込んで、有紗は唇を尖らせた。ミニスカートからすらりと伸びた足であぐらをかいていて、今のところは女らしさのかけらもない。
「ああ。よくわかるな」
 自分の髪を整えるのに一生懸命な榊原は、有紗の表情には気づいていなかった。
「ま、そういうことだから、今夜はおとなしく自分ちにいろ。叔母さん、遅いのか?」
「うん」
「そっか。しっかり鍵かけてろよ」
「大丈夫。うちも盗られる物ないし」
「バーカ。有紗に何かあったらたいへんだろうが」
 榊原は、有紗の額を指でちょんとつついた。ずいぶん背がのびたな、と思う。もう何年かすれば体つきも丸みを帯び、叔母さんの心配事も増えるだろう。まだ子供っぽい今でさえ、きれいな顔立ちは将来美人と呼ばれることを予感させる。
 だが今の榊原は、将来の美人よりも憧れのナイチンゲールのほうに心を奪われているのだった。
「さあ、出るぞ。サンダルはけ」
 榊原は、有紗を部屋の前まで送り鍵のかかる音を確かめると、錆びた外階段を駆け降りた。
(俺がここを引っ越したら、有紗は夜どうするんだろう……)
 しっかりしているとはいえ、まだ小学生だ。夜遅くまで一人でいるのは好ましいことではない。叔母が再婚して昼間だけの仕事になれば問題解決だと思うのだが、榊原の母は再婚には反対している。彼女によれば、難しい年頃の娘がいるのに血のつながらない男と一緒に住むのは危険なのだそうだ。
(おふくろは、ドラマの見すぎだよな)
 もっとも、肝心の叔母には再婚の予定などないのだが。
 そのときタクシーの空車が通りかかったので、榊原は手を上げた。
 白いカバーの後部座席に体を沈めながら、榊原は従妹の家族問題はひとまず置いといて、自分の将来の家族を持つための問題に集中することにした。

* * *

 それは、渡辺有紗にとって、予想された展開ではあった。
 有紗は、自分の部屋の窓から走っていく榊原の姿を見送った。彼の姿が見えなくなると、カーテンを閉めてベッドの上に寝転がった。足を天井に向けてぐるぐる回す。それを五十回やると、足は天井に向けたままで、今度はつま先で一から十まで大きく数字を書いた。この体操を毎日続けると、脚が引き締まり細くなるのだ。クラスメートの絵梨香が言っていた。
 ここ二・三年、有紗の手足はにょきにょきと伸びた。正直言って、自分でも持て余している。それでも、友達は羨ましいと言ってくれる。
 有紗は起き上がって、洗面所へ顔を洗いにいった。鏡で自分の顔を念入りにチェックする。よかった。ニキビは出ていない。昼間、絵梨香の家に遊びにいったとき、おやつに出されたチョコレートを食べ過ぎたので心配だったのだ。
 有紗は、美しくなりたかった。榊原のために。早く榊原に女として見てもらえるような大人になりたかった。
 三年前、両親が離婚して、有紗はこのアパートに引っ越してきた。このアパートは祖父の持ち物なので、ただ同然で住まわせてもらえている。
 離婚する前から母親は看護士として働いており、父親も仕事が忙しく帰ってくるのはたいてい午前様だった。有紗は家ではいつも一人だった。一人に慣れてはいたけれど、会話する人のいない夕食、誰もいない家で眠るのは寂しかった。
 しかし、このアパートに住むようになって、夜眠るまでの時間を榊原と過ごすようになってからは、家に帰るのがどれほど楽しみになったことだろう。
 もちろん、榊原も仕事で帰りは遅いのだけれど、それでも嫌な顔一つしないで母親が帰るまで一緒にいてくれる。
 有紗は、いつ榊原が来ても大丈夫なように、部屋を片付けたり、洗濯物をたたんだり、家庭科で習ったばかりの料理を作ったり、まるで新婚早々の若妻のような気分で家事にいそしんでいた。
 しっかりした子供に育ったと、母親は目を細めていただろう。でも、それはすべて榊原のおかげだった。
 榊原に予定のない休みの日は、映画に行ったり、ドライブに連れて行ってもらったりして、まるでデートのように過ごした。父親がいなくても、有紗は幸せだった。
 でも本当は榊原に好きな人がいることに気づいていたけれど。
 社員旅行で撮った『先輩』の写真は、榊原の宝物として定期入れの中におさまっていることを知っていた。長い髪にゆるやかなウェーヴをかけたその人は、有紗から見てもドキドキするくらい美しかった。
 冗談交じりに問い詰めると、彼女は三歳年上の先輩だと説明してくれた。三歳なんて、差のうちに入らないと思った。有紗と榊原は十七歳の差があるのだ。愛があれば年の差なんて、とは言うけれど、その愛も一方通行なら年の差は救いようがない。
 ぼんやりとテレビを見ながら、有紗は溜息をついた。誰かと話をしたかった。友達の家に電話しても、この時間じゃ相手の親に迷惑がられる。有紗の母親は小学生が携帯を持つのには反対だったし、友達の家もそうだった。
 有紗は机の引き出しの奥から、小さな紙を取り出した。ポケットティッシュに挟まっていたテレクラのチラシだった。今日、絵梨香の家に遊びにいったとき、彼女がくれたのだ。
 絵梨香の家は共働きで、日中は彼女一人きりのことが多い。暇なときはここに電話するの、と無邪気に言っていた。ただだしね、とも。
そのチラシに書かれている女性用のフリーダイヤルを、有紗は緊張しながらプッシュした。
「たいていは、すぐに会いたがるいやらしい声の男が多いんだよ。そんなときは、待ち合わせの約束をして、物陰からこっそりと相手を見て笑ってやるんだ」
 絵梨香の言葉を思い出しながら、彼女は勇気があると有紗は思った。そんなスケベな男を見にいくなんて、怖くないのだろうか?
「もしもし」
 相手の男が出た。有紗は、二十歳のフリーターを演じ会話を進めた。会話自体は思っていたほど怖くなかった。しばらくは順調だったが、相手の男の人を見下す態度が鼻につき始めた。
「こんなところに電話して、退屈を紛らわせてるわけ? 寂しい生活してるんだね」
 それは事実なので、有紗はムッとした。そういう自分だって、『こんなところ』に電話して女を漁っているのではないか。
「そうなの。会ってこの寂しさを埋めてくれる? 場所は……」
 適当なホテルの前を指定して、有紗は電話を切った。心臓がドキドキする。もちろん行くつもりなんてない。見るだけでも、真っ平ごめんだ。
 不愉快な男の声を耳から追い払うかのように、有紗はテレビの音量を上げた。
(携帯が欲しいなあ……)
 携帯なら、同じ暇つぶしでも文字のやり取りで済む。相手の不快な声につきあう必要はないだろう。
(そうだ! パパに買ってもらおう)
 月に一度、父親との面会日があった。それは離婚のときに決められたことだった。滅多に会えない娘のために、父親はいろいろプレゼントを買ってくれた。だが、いまだに有紗のことを子ども扱いする父親は大きなテディベアを勝手に買ったりして、彼女を困惑させることが多かった。早く大人になりたい有紗にとって、ぬいぐるみなんて子供っぽいものはもらっても邪魔なだけなのに、父親はさっぱりわかっていないのだ。
 今度の面会日には、エンジェルブルーのブルゾンを買ってもらうつもりだったが、携帯のほうが絶対いい。
(携帯さえあればパパといつでもお話できるのになあ、って言えば絶対買ってもらえるわ。カメラつきの最新機種を買ってもらおう。それで敬ちゃんとのツーショット撮って、待受けにするんだ。着メロはポルノグラフティの新曲がいいかな。ストラップはビーズで手作りしてみよう。そうだ、上手にできたら敬ちゃんにもプレゼントして、おそろいにしよう……)
 いろいろ考えているうちに、有紗の機嫌はすっかり直り、テレクラの男のことなど忘れてしまった。
 鼻歌を歌いながら、有紗は足の爪にラメ入りのマニキュアを塗った。そして乾かすために、ベッドで仰向けになって足をバタバタと振った。

* * *

 それは、谷口祐哉にとって、新たな獲物を見つける手段だった。
 彼は、バカな女が嫌いだった。テレクラに電話をして男を漁るようなバカな女は、この俺の性欲を満たす小道具になる以外に使い道がない。
 彼は、いつも持ち歩いているスポーツリュックを肩から下げて待ち合わせ場所に向かった。
 電話の主は二十歳と言っていたが、声の感じはもっと若かった。せいぜい中学生くらいか? そんな子供が大人をからかっちゃいかんのである。躾のできていない子供には、親に代わってこの俺が、きっちりと教育的指導をしてさしあげよう。
 彼女が物陰に隠れていて、こっそりこちらの様子を窺っているという可能性は、もちろん考慮している。だが、自分の顔を見れば必ず女は出てくるという自信が、谷口にはあった。
 谷口は年の割には童顔で、いわゆるジャニーズ顔だった。彼はこの顔が嫌いだったが、こういう場面では結構役に立つ。いや、こういう場面でしか役に立たないのだ。

 谷口の生まれ育ったのは、四方を山に囲まれた、小さな田舎町だった。
 勉強の良くできる、美しく整った顔立ちの谷口は、この町では神童扱いだった。親からも先生からもクラスメートからもちやほやされて育った彼が、自分のことを特別な、選ばれた人間だと思うようになってしまったのも無理はないかもしれない。
 学校には彼のファンクラブまで存在していた。しかし、彼はファンクラブなど作るような浅薄な女は大嫌いだった。だいたい、この顔に惹かれて集まってくる女にろくなのはいなかった。みんな股を開いて彼の上に乗りたがるようなのばっかりだ。困ったことに、彼の母や姉たちまでそうだった。
 女たちに不満はあったが、この町で過ごした十七年間は、瑕のない完全な世界だった。高校二年の時転入してきた生徒が学年トップの座を奪っていた時期だけが、彼の世界に微かな影を落としたが、彼女は家の都合で半年足らずで転校してしまったので、彼の自尊心は程なく復活した。人間、誰でも不調の時期はあるものさ。それがたまたま彼女がいた時期と重なってしまっただけだ。
 しかし、それが彼の美しい時代が終わりに近づいていた兆しだったのかもしれない。
 大学に入学し町を出ると、彼程度の頭脳の持ち主はざらにいることがわかった。しかし、谷口はまだ諦めていなかった。彼のような容姿で頭脳を兼ね備えた男は、そうはいなかったからだ。他人に迎合しなくても、まだ自分を特別な存在だと信じていられる。天が二物を与えてくれたことが、彼のプライドの拠り所だった。
 だが、それも彼が社会に出るまでのことだった。
 入社試験はらくらくクリアして大手の企業に就職したものの、会社は彼をちやほやしてくれる場所ではなかった。彼よりも低レベルの大学出身の先輩や上司から罵倒されることもある。それが、谷口にとっては何よりも屈辱だった。
 そして、ジャニーズ系のこの顔である。
 どういうわけか、この顔は顧客や取引先からは信用されなかった。年より若く見えるのも良くない。おまえのようなぺーぺーじゃ話にならん、もっと責任ある立場の人間を出せ、と言われるのが常だった。もちろん、顔の第一印象を覆すような話術や交渉術を身につけていれば、事情は違ったであろう。しかし谷口は、他人からかしずかれる生活に慣れきっており、他人のために腰を屈めることを潔しとしなかった。その態度のせいで、ますます相手からの信用をなくした。
 商談もろくにできないくせに態度のでかい谷口は、同僚の間からも鼻つまみ者であった。あげくの果て、北海道の地方支店に左遷させられてしまったのである。

 谷口は、指定された待ち合わせ場所に時間きっかりに着いた。辺りを窺ったが、予想していたような中学生は見当たらなかった。ただ、少し離れた路上に肩と背中をやたらに露出させた化粧の濃い女が立っていた。谷口に興味を持ったようで、意味ありげな視線をちらちらと投げてくる。
(別にあれでもいいか。あんな格好でホテルの前に立っているような女はバカに決まっている)
 彼女のほうへ足を一歩踏み出したとき、背後から声をかけられた。
「あの……谷口くんじゃない?」
 振り向くと、顔立ちは悪くないが老けている女が立っていた。いや、老けていると思ったのは地味な洋服や化粧気のない顔のせいで、実際の年齢は谷口と同じくらいなのかもしれない。
「覚えてないかな。あたし半年ぐらいしかいなかったから。ほら、高校二年のとき同じクラスだった……」
「中村幸恵」
 忘れているはずはなかった。黒い髪を肩のところで切りそろえ、背筋を伸ばして歩くセーラー服の少女の姿が思い浮かぶ。初めて彼のトップの座を奪った女。彼の世界に瑕をつけた、最初の女。
「ああ、良かった。覚えててくれて」
 幸恵は、ふんわりと微笑んだ。そうやって笑うと、年相応の表情になる。
 谷口は、幸恵の服がみすぼらしく、髪にパーマもあたっていないのを見て、密かな満足を覚えた。こうして並ぶと、まるで俺たちは親子のように見えないか?
「今ヒマならお茶でも飲まない? 久しぶりだから、いろいろお喋りもしたいし」
 笑顔のまま、幸恵が言った。谷口は、即座にOKした。テレクラ女にも、露出女にも既に興味は失せていた。
 深夜営業のファミレスで、谷口は幸恵と向かい合ってコーヒーを飲んだ。
「……まあ、なんだかんだ言っても、あの頃の俺って『井の中の蛙』だったんだよな。社会に出て、初めてそれがわかったよ」
 多少脚色を加えたサラリーマン生活を語った後、自嘲的に谷口は呟いた。もともと井戸の外の人間だった幸恵は、そのことに気づいていただろう。自分から認めることで、あの頃の俺とは違うんだ、成長しているんだという、谷口なりの精一杯のアピールだった。
「そうね。……でも、高校生くらいって、みんなそうじゃない? 学校と家が自分の世界のすべて。今にして思えば、小さな世界だよね」
 幸恵は、砂糖もミルクも入れていないコーヒーを少しずつすすりながら言った。が、何かを思い出したらしく、微かに目を細めた。
「ねえ、『井の中の蛙』に続きがあるの、知ってる?」
「いや」
「井の中の蛙大海を知らず。されど」
 ここで幸恵は一息ついた。
「されど、空の青さを知る」
「空の青さ?」
「そう。あたしたち、ずっと井戸の中にいても良かったのかもね。ずっときれいな青い空を見ていられたのなら」
 その瞬間、谷口の胸の奥で殺意のようなどす黒いものが疼いた。
 何が「空の青さを知る」だ! そんな知識を俺にひけらかして、そんなに嬉しいか?
 空の青さ――ああ、俺は誰よりも青い空を知っていたさ。雲ひとつない、澄みきった空を。その空に、最初に雲の影を落としたのはおまえなんだよ。中村幸恵!
 不意に黙り込んだ谷口に気づいていないのか、相変わらず幸恵は呑気にコーヒーをすすっていた。そして、さり気なく腕時計に目を走らせると立ち上がった。
「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくる」
 谷口は、目の前の残っているコーヒーを見つめながら自問自答していた。
 なぜ、幸恵などについてきてしまったのだ。こうして新たに屈辱を感じるために?
 谷口は傍らに置いたリュックに触り、薄いナイロン布の下のビデオカメラやスタンガン、荒縄の感触を確かめた。
(……あの女をこれでヒーヒー言わせてやったら、面白いだろうな)
 そう考えると、ようやく落ち着きを取り戻し、口元には笑みさえ浮かんだ。水を注ぎにきたウェイトレスが、思わず見惚れてしまうほどの魅力的な笑み。
 その笑みを浮かべたまま、谷口は戻ってきた幸恵を見つめた。

* * *

 それは、岡崎幸恵にとって、神に与えられたチャンスだった。
 岡崎幸恵、旧姓中村幸恵は、ごく平凡な人生を送ってきた。父親の仕事の都合で、何回もの引越しを経験したけれど、友達にも恵まれ、なんの不満も疑問もない人生だった。
 正月には神社へ初詣に行き、クリスマスにはツリーを飾ってサンタクロースを心待ちにし、祖父母の命日には家の仏壇を拝むというように、ごく普通の日本人的な宗教観を持って育った。
 結婚してからもそれは同じで、彼女の夫の岡崎英明も、神様に関しては幸恵と似たり寄ったりの考えだった。
 そんな彼女が変わったのは、結婚して三年目、ようやく授かった子供を死産したときだった。
 待ちに待っていた子供だっただけに、幸恵の落胆は大きかった。よその子供たちは毎日元気に生まれてくるというのに、なぜ自分の子供は死ななければならなかったのか。大切に育てるはずだった。その子のために、あらゆる機会を与えてあげるつもりだった。なのに、なぜ?
 外出すると、元気に走り回る子供に傷つき、母の腕の中で満足げに眠る赤ん坊の姿に傷つき、大きなお腹を抱えて幸せそうに歩く妊婦に傷つけられた。
 どうしてみんな幸せそうなの? あたしはこんなに不幸なのに。
 やがて幸恵は外へ出ようとしなくなった。一日中カーテンを引いた薄暗い部屋で、生まれてくる子供のために用意していた揺りかごの横にぼんやり座りながら、幸恵は答えの出ない疑問をいつまでも考え続けていた。
 そんな時、彼らは来た。
 最初は、面白いビデオがあるから見にきませんか、という軽い誘いだった。家で一人きりで死んだ子供のことを考えているのも辛くなってきたので、幸恵はその誘いに応じた。それが始まりだった。
 目から鱗が落ちる思いだった。それほど彼らのビデオや話は論理的であり、感動的ですらあった。それに、彼らはみんな真剣で優しく、親切だった。
 幸恵は彼らの集まりに足繁く通い、ついには合宿にまで参加するようになった。合宿から帰ってきたときは、立派に信者と呼ばれる人間になっていた。身も心もメシア様に捧げる覚悟ができていた。
 その頃には、さすがに夫も異常に気づいていた。最初は宗教関係だとは知らなかったから、彼はむしろ幸恵がその集まりに夢中になるのを喜んでいた。死んだ子を忘れるのに、いい気晴らしになると思っていたのだ。
 幸恵はひっきりなしに原罪や、世界の終末や、真のメシアについて語り、英明にも入信を迫った。英明は、そんな話は馬鹿馬鹿しいと断固退けた。二人の間には結婚以降初めてギスギスした空気が漂った。
 幸恵は、夫に不満だった。どうして彼は、このような素晴らしい教えを理解してくれないのだろう。私の信仰心が足りなくて、人の心を動かすことができないのかしら。彼女は、真剣に悩んだ。
 だが、その答えはメシア様があっさりと教えてくれた。そもそも結婚したことが間違いであったのだ、と。
 メシア様の教えでは、メシア様が決めた相手以外と結婚してはいけないのだ。そうでないと堕落した子供が生まれてしまう。堕落した子供は罪であり、世界を滅ぼすもとなのだ。
 幸恵に堕落した子供を産まそうとし、なおかつその子供を死なせて彼女に二重の苦悩を負わせた岡崎英明という男は悪魔の使いなのだ。メシア様の教えでは、そういうことになるのだった。
 入信前にしてしまったこととはいえ、幸恵は恐れおののいた。このように悪魔に身体を汚されてしまった自分は、地獄に落ちるのではないだろうか。
 しかし、真の仲間たちは優しかった。彼らは不安で泣き出す幸恵を慰め、彼女に献身を迫った。献身して修行に励み、きれいな身体になってメシア様に真の夫と結婚させてもらえばよいと。
 幸恵は、一も二もなくその話に飛び付いた。悪魔とは、これ以上一日たりとも同じ屋根の下で暮らせない。彼女は離婚届に判を押し、それをテーブルの上に置くと、身の回りのものを持って彼らの言うところの『真のホーム』に逃げ込んだ。
 それからは厳しい修行の毎日だったが、幸恵の心は幸せで満たされていた。雨の日も、風の日も、街頭で通行人に祝福を施させてもらったり、戸別訪問をして祝福の瓶を売ったりした。食事は質素で睡眠時間も足りなかったが、来世の保証と心の平安は得られたのだった。

 今夜、こうして谷口にばったり会ったのも、神様の思し召しに違いない。幸恵は、そう確信していた。
 高校時代の彼は、自分の周りのすべてのものに倦み疲れたような表情をしていた。彼は優秀な頭脳も、端麗な顔も、慕ってくれる友人たちもいたのに、一番大切なことに気づいていなかった。
 もっとも、それは私も同じだったけど。
 幸恵は谷口と話しながら、ふと思った。私たちのいた小さな世界。そこではメシア様の教えも、メシア様にすべてを捧げることで得られたこの満ち足りた気持ちも存在していなかった。
 それでもあの頃は幸せだった、と考えかけて、幸恵は慌ててその気持ちを打ち消した。いけない。こんな邪念がわくようでは、まだまだ修行が足りない。
 幸恵は、谷口の魅力的な笑顔に微笑を返した。
 もう大丈夫。これからは私が、私たちがあなたに人生で本当に大切なこと、生きる意味についてわかりやすく教えてあげるわね。そして共に修行に励みましょう。敬愛するメシア様のために!
 さっき、お手洗いに行くといって席をはずしたときに電話を入れておいたので、そろそろ仲間たちが来る頃だった。こういうことは、一人よりも大勢で教えてあげるほうが効果があるのだ。
「そろそろ場所を変えないか?」
 コーヒーを飲み終えた谷口が言った。
 幸恵は、ちらりとファミレスの入り口のほうを見た。ガラスのドア越しに、愛しい仲間たちの姿が見えた。
「そうね。谷口くん、素敵なところに連れて行ってあげるわ」
 幸恵は、喜々として席を立った。