書く女 3


* * *

 それは、岡崎英明にとって、最後の決断のきっかけになった。
 今日は結婚記念日だったのだ。――去年までは、二人でささやかながらお祝いをして過ごしたものだ。幸恵特製のビーフシチュー。少し高価なワイン。それに、英明が会社帰りに買ってくるガーベラとカスミソウの花束。幸恵は、華やかな薔薇よりも可愛いピンクのガーベラが大好きだった。
 去年までの二人は幸せだった。それがこんな形で終わるとは、思ってもいなかった。
 今年の結婚記念日には、幸恵がいない。今年だけではない。来年も、さ来年も。彼女は、もうこの日を祝おうとは思っていないのだ。十日前に離婚届を置いて、出ていってしまった。
 英明は、まだ離婚届を提出してはいなかった。今日の日に賭けていたのだ。去年までのこの日のことを、二人で幸せだった頃のことを思い出してくれれば、幸恵も正気に戻って自分の元へ帰ってくるのではないか、と。儚い希望だった。
 今日は会社を休み、朝から家中を大掃除した。夕方にはテーブルをセッティングし、ガーベラの花束を飾った。――だが、夜になっても彼女は帰ってこなかった。英明が作った、少し焦げっぽいビーフシチューは、すっかり冷めてしまっている。
 耐えきれず家を出ると、英明は信者が布教活動をしているという噂の街角へ、幸恵を探しに行った。
 彼女は、いた。ファミレスの入り口の横で仲間たちと一緒に、若い男に何かを熱心に語りかけていた。ファミレスの駐車場の街灯に照らされ、幸恵の真剣な表情はよく見えた。
 そういえば彼女は何事にも真剣に取り組む生真面目な女だったな、と、英明はぼんやりと思い出していた。
 真剣な恋愛をし、真剣に主婦業に取り組み、真剣に母親になろうとしていた。そして、母親になれなかったあとは真剣にその理由を探していた。――子供をなくしたあとの俺は、仕事に逃げてばかりいたというのに。
 その結果がこれなのであろうか? 彼女と向き合うことから逃げ続けてきた報いが。
 一人きりで過ごす結婚記念日。いや、彼女にとっては、もう記念日ですらない。あの表情が告げている。彼女の世界に、もう英明は存在していないのだと。
 自問している英明に気づかないまま、幸恵たちはダンボールで内側から目隠ししているワゴン車に男を乗せると、そのまま走り去っていった。

 翌日、ひどい二日酔いの状態で目が覚めると、もう昼過ぎだった。
 部屋の中も、英明の精神状態に劣らずひどい状態だった。シンクにぶちまけられ、乾いてこびりついているビーフシチュー。床に叩きつけられ、踏み潰されたガーベラ。粉々に砕けているペアのワイングラス。
 あまりの惨状に、英明の口からは笑いがこぼれた。その声はだんだん大きくなり、しまいには腹を抱えての大笑いとなった。
 笑い疲れて目尻に溜まった涙を拭うと、英明は椅子にどしんと座り、テーブルの空いているスペースに離婚届をひろげ、自分の名前を殴り書きした。

 夜、英明はバーの片隅でグラスを傾けていた。
 五十年配の落ち着いた風貌のマスターが一人で切り盛りしている、カウンターとテーブル席が二つだけの小さなバー。そこの奥のテーブルで、入り口やカウンターに背を向けて、英明はバーボンを飲んでいた。誰にも、マスターからさえも話しかけられたくなかった。客は、他に若い女がカウンターに一人いるだけだった。時おりドアが開いたり閉まったりしたようだが、英明はまったく気にとめていなかった。
 幸恵と暮らした家にいるのが辛くて外に飲みにきたのに、結局幸恵とよくデートしたこの店にきてしまうとは。未練がましい自分を、英明は心の中で嗤った。
 離婚届は、ジャケットのポケットの中だった。持って家を出たものの、役所が休みだったのだ。提出できずに済んだことでほっとしている自分がいることを、英明は悲しい気持ちで認めた。
 低くスタンダードジャズが流れる中、マスターの氷を削る音とシェーカーを振る音だけが、時おり響いた。もう一人の客は、結構ペースが速いらしい。
 英明も、ボトルをテーブルに置き、自分で作っては速いペースで飲み干していた。しかし、心地よい酔いはやってこなかった。
 幸恵の両親からは、早く離婚してやってほしい、それがあの娘にとっての幸せなのだからと、さんざん言われていた。彼らも幸恵の説得で、信者になっていたのだ。
 あの頃――子供をなくした頃、医者も親戚も、早く次の子供を作ることだと、能天気なことを言っていた。人の気も知らないで。待ちに待っていた子供だったのだ。すぐに次の子供なんて、作る気分になれるわけがない。
 だが、俺に彼らを責める資格なんて、ない。俺だって、幸恵の気持ちなど考えていなかった。自分の辛さを乗り越えるのが精一杯で、幸恵を思い遣ることさえ忘れていた。あげく、新しい友達ができたと聞いて、ほっとしていた。その友達が、どんな人間なのか確かめようともせずに。
 俺たちは、二人共通の悲しみを共に乗り越えることができなかった。二人の間にあった甘い何かは、子供の死によって失われてしまったのだろう。恋は終わり愛は残らなかった、ということなのかもしれない。
「……私もね、失恋しちゃったの」
 何の話の続きなのか、カウンターの女がマスターにぽつりと言ったのが聞こえた。
「時が、いつかいい思い出にしてくれますよ」
 低い声でマスターが言っているのが聞こえる。
 時が、いつか幸恵のこともいい思い出に変えてくれるだろうか。子供が死に、宗教に走った彼女のことを。そうなってくれればいい。だけど、時は今すぐには俺を救ってくれない。
 自己憐憫と自己嫌悪の入り混じったこの苦い気持ちを、素面ではとても耐えられそうになく、英明はまた琥珀色の液体を飲み干した。ボトルの中は、既に半分以上空になっている。
 ふと、カウンターの女も自分と同じような気持ちなのかもしれないと思った。真っ黒なストレートの髪、生真面目な雰囲気が、若い頃の幸恵とよく似ている彼女。
 英明はマスターを呼び、小声で女にもう一杯オーダーしてやった。
 新しいグラスを前に、彼女は戸惑い、英明に警戒の目を向けた。
「おごらせてください。僕も失恋したばかりなんです」
 英明は明るい声を出したが、その目に深刻な悲しみが映っていたのかもしれない。彼女の目から警戒心が薄れ、ほっとした表情でグラスを手に取った。
「お隣に座ってもかまいませんか?」
 英明は、自分のグラスを持つと、彼女の横に座った。なんとなくグラスをカチリとあわせて、二人は微笑んだ。
 失恋記念に乾杯、か。
 英明は、自嘲的に小声で呟いた。少しだけ、酔いがまわってきたような気がした。

* * *

『――今日のニュース――
☆ 我らがアイドル、バッキーとヨーコ先輩がデート?!
   私たちの憧れの的、バッキーとヨーコ先輩が、中通のバー『M』でいいムードでデートしていたことがわかりました。(豊岡支店、Rちゃんの目撃情報)
   バッキーがヨーコ先輩に惚れていることは、周知の事実。また、この次の異動で本店へ栄転確実のバッキーは、いよいよヨーコ先輩にリーチをかけるのか?
   この二人、目が離せません! 何か情報、目撃談などがありましたら、ぜひ私めまでメールを送ってくださいませ。
☆ なみへー課長、家庭は円満だった
   先日夫婦喧嘩が伝えられた、中央支店のなみへー課長ですが、昨日ご家族でHホテルのランチバイキングに訪れたことがわかりました。(北支店、Kちゃんの目撃情報)
   ……なんだったんでしょうね、こないだの離婚騒ぎは。って、騒いだのは私でしたね。ははは、失礼しました。
   ランチバイキング、奥さんと子供たちが何回もおかわりに席を立つ中、なみへー課長はコーヒーを飲みながら温かい目でご家族を見守っていたそうです。
家庭円満が何よりですね。お幸せに。
 ……』

 私は、携帯をパタンと閉じて、メルマガを見るのをやめた。
 同期の沙織が作っているメルマガは不定期に届く。内容が、行員関係のスキャンダル中心だから、ネタがなければ発行されないのだ。昨日、今日と二日続けて発行されるのは珍しい。
 もともとは同期の仲のいい人だけに配信されていたのだが、休憩時間の話題として結構好評で、今では後輩やパートさんにも配信していると聞く。そして、そのメルマガを楽しんでいる人たちは、自分の持っている情報も沙織に提供し、新たなネタ元となっていくのだ。
 今日は二件とも単なる目撃談だったが、昨日のはちょっと複雑だった。
 なみへーこと氏家課長の家のある地域は、数年前、銀行が不良債権処理のために所有していたグラウンドを宅地として売りに出したものだった。その土地は行員に格安の値段で販売されたので、向こう三軒両隣すべて銀行員またはOBであるという、自宅なのにまるで社宅のような住環境になってしまっている。
 で、氏家課長の家の隣は北支店の安田課長の家なのだが、安田課長は社内婚で奥さんも銀行OGなのである。
 で、その安田課長の奥さんが、氏家課長の奥さんが朝、「ちょっと実家に行ってきます」(その実家は市内なのだが)と挨拶されて、奥さん専用の軽自動車に荷物を詰め込んでいたのを、銀行員時代の同期で仲良しだった中央支店でパート勤務している小菅さんに電話で話し、それを小菅さんが沙織にご注進して緊急にメルマガが発行されたというわけなのだ。
 そのメルマガを見たときは、少しどきりとした。……もしかしたら、もしかしたら私のせいなのではないか、と。罪悪感で胸がふさがり、伝票の数字を打ち間違えるような単純ミスを三件もしてしまった。もちろん課長からはひどく叱責されたが、私はうなだれるばかりだった。私なんか、怒られて当然の人間なのだから。
 食欲もなく、昨日一日でずいぶんやつれてしまったような気がする。もちろん日記をつける気力もなく、二日連続サボってしまった。こんなこと、小学二年生の冬休みの宿題で絵日記をつけ始めて以来、初めてのことだ。
 悩みに悩んだ末、今朝は課長にすべてを告白する覚悟でいた。しかし、今日は銀行は休みである。課長に謝るためには電話をしなければならない。しかし、この電話が発端なのだ。それを思うと、受話器をとって課長の家の番号を押すのが怖い……。
 そうやって逡巡しているときに携帯が鳴り、このメルマガが届いたのだ。
 よかった。まず思ったのは、そのことだった。いくら嫌な課長でも、私のせいで離婚なんてことになったら、どうやってお詫びすればいいのかわからない。沙織の言い草ではないが、家庭は円満なのが何よりだ。
 だが、奇妙なことに私は寂しさも感じていた。結局私の電話は気にも留められなかったのだろう。奥さんが実家に帰ったというのも、何か用事でもあったのに違いない。
 結局私のすることなど、誰にも、なんの影響を与えることもできないのだ。

 夜、思い切って出かけることにした。
 彼にふられて時間もできたことだし、久々にきちんと小説を書きたくなった。甘い恋愛小説。モデルは、手近なところだが蓉子先輩と榊原さんで。
 蓉子先輩は、小説のヒロインにふさわしい人だ。美人で、仕事もできて、気配りも上手で――何か欠点を設定しないと、人間的魅力に欠けるだろうか? 例えば生立ちが複雑でトラウマを抱えている、みたいな。
 榊原さんには、そういう陰の設定は不要だ。わかりやすい、単純な熱血漢。今時流行るようなキャラではないが、榊原さんをモデルにするなら、それしかないだろう。
 そういえば、以前休みの日に榊原さんと映画館でばったり会ったことがあった。榊原さんは小学生くらいの女の子と一緒だった。その女の子、私の彼氏を紹介するまですごい目で私のことを睨んでいたっけ。従妹だといっていたけれど、あれは恋をしている女の目だった。榊原さんを取られまいと、他の女に敵意をむき出しにしている……。
 いっそ、榊原さんは子持ちのバツイチ男という設定にしてみようか? 少女時代にトラウマをもつ蓉子先輩と、父親を独占したい少女との、困惑、苦悩、葛藤、悶絶――いかん、恋愛小説からずれている。
 とりあえず、メルマガに書いてあった、バー『M』に行ってみよう。何か雰囲気を掴むことができるかもしれない。それに――それに、もしかしたら新しい出会いというものがあるかもしれない。
 彼のことは、完全に吹っ切れていた。もしも彼が、正直に新しい彼女のことを話してくれていたら、私は未練を残していたかもしれない。しかし、彼は嘘をついた。私は、嘘だけは許すことができない。
 結婚話を出す前に、ああいう人だったということがわかってよかったのだ、結局。
それが、「すっぱいぶどう」の屁理屈とはわかっていても、私はそうやって自分を納得させることができる。

 バー『M』は、小さな店だった。五人ほど座れるカウンター席と、テーブル席が二つだけ。渋い初老のマスターが、一人で切り盛りしている。飲み会の三次会などで親しい同僚と来たことは何度かあるが、一人で来るのは初めてだった。
 カウンターに座り、ジントニックをオーダーすると、程なく一人の客が来た。おそらく三十代の、少々無精ひげが生えてはいるが、哀愁を帯びた雰囲気で彫の深い顔立ちのいい男だった。
彼は、私やマスターの視線を避けるように、こちらに背を向けて奥のテーブル席に座った。オーダーを取りにいったマスターが、ハーパーのボトルとアイスペールとグラスを持って彼の元へ引き返す。しかし彼は、それ以上マスターの手を煩わせるつもりはないらしく、自分で勝手に飲み始めた。
私は、カウンターに戻ってきたマスターに、今度はギムレットを頼んだ。
 木製のドアが開き、また誰かがやってきた。しかし、その客は店内にはいってくる気配もなく、戸口のところでマスターを呼び、何か低い声で熱心に語りかけている。
 好奇心に駆られてドアのほうを見ると、そこにいたのは涎の垂れそうなぐらい美形の若い男だった。彼は、何かを一生懸命に頼んでいるらしいのだが、マスターは渋い顔でそれを断っていた。美形はせつなげに目を伏せた。長い睫毛が、彼の滑らかな肌に影を落とす。その頬も、よく見るとほんのりと桜色に染まっている。
「……どうしてもダメなんですか。それじゃ、俺は、俺は――」
 怪しい気配に、目が釘付けになる。あの美形は小説のモデルになり得る! ……最も、同性の恋愛小説は、私の専門外なのだが。
 だが、彼の次の言葉に、私は愕然とした。
「――俺、踊ります!」
 そう言って、彼は頭の上に両手をひらひらとかざすと、怪しげな節で歌いながらぎこちなく踊りだした。
 マスターが、慌てて両手で彼の手を押さえて踊りを止めさせた。店の前であんなことをされたら、営業妨害もいいところだろう。マスターが低い声でぼそぼそと囁くと、美形の男の顔が、ぱあっと輝くように明るくなった。マスターからお札をもらうと、いそいそと足元に置いてあった瓶を渡し、意気揚々と帰っていった。
「大変でしたね」
 やれやれという表情で戻ってきたマスターに、私は声をかけた。あの瓶でわかったのだ。美形の男が、悪徳霊感商法で名高い宗教団体の信者だということが。
「まったく。何不自由なさそうな若い人が、どうしてあんなものにハマるんでしょうね」
 マスターは苦笑いしながら、瓶を客から見えないカウンターの内側に隠した。
「……もしかすると、失恋のショックかもしれませんね。純情そうな人だったから」
 一途に愛した人を失い、彼女を忘れるために俗世のすべてを捨てる、というのは、なかなかロマンチックなネタになりそうな気がした。しかし、出家先が悪徳宗教団体というのはいただけない。
 いっそ、こういうのはどうだろう。虫も殺さぬような顔をした若い男が、おのれの魅力を武器に女性信者やマスコミを手玉に取り、やがて教祖に上りつめる――いかん、また恋愛小説からずれているじゃないの。
 いきなり首を振りだした私を、マスターが不思議そうに見ていた。私は、慌てて笑ってごまかした。
「私もね、失恋しちゃったの」
 言いながら、背筋がむずむずした。落ち着いた雰囲気の、ジャズの流れるバーの止まり木で、一人グラスを傾けて失恋の渇きを癒す女――ベタだ。ベタ過ぎる。
 マスターは、ありきたりな慰めの言葉を言ってくれたあと、テーブルの男に呼ばれてカウンターを離れた。
 私は、残っていたギムレットを一息に飲んだ。これで頬が赤くても、ベタなシチュエーションに照れているわけじゃなく、酔いがまわったせいだと言い訳できるだろう。自分自身に。
 カウンターに戻ってきたマスターが、私の前に、またギムレットを置いた。
「私、まだ頼んでいませんけど……」
「あのお客様からですよ」
 マスターは、テーブル席のほうを目で示しながら、にっこりと笑って言った。
 私がテーブル席を見ると、あの哀愁の無精ひげ男が、微笑みながら「おごらせてください」と言っていた。
――今日は、ジンベースのカクテルを制覇するつもりで、次はトム・コリンズを注文する予定だったんだけど……。
 いや、そんな事はどうでもいい。このベタベタな展開は、どうだろう。直球の恋愛小説、ではないか?

 男は、私の隣りに座った。私たちは、グラスをカチリと合わせ、乾杯をした。男が小声で「失恋記念日に乾杯」と言っているのが聞こえた。私は赤くなる頬をごまかすために、またギムレットを一息で飲んだ。
「お酒、強いんですね」
 男が微笑みながら、言う。間近で見ると、無精ひげがあっても、ややたれ目で鼻筋の通った顔立ちは、かなり私の好みだった。
 私は必死に過去に読んだ恋愛小説――特に、森瑶子の小説のヒロインを思い出そうとしていた。とはいえ、森瑶子の小説は、短編を一本しか読んだことがない。高級リゾート地、上品なカクテル、黒いドレス、洒落た会話で戯れる男と女――私とは世界が違いすぎて、のめりこむことができなかったのだ。
 とりあえず、マルガリータでも頼もうかと思ったが、テキーラはあまり好きではないので、当初の予定通りトム・コリンズを頼んで飲んだ。
 男は、そんな私を懐かしそうな笑顔で見つめている。
「……あなたも、失恋されたんですか?」
 見られるのが恥ずかしくて、とりあえず会話をふってみた。
「ええ、まあ。そんな感じです」
 男は静かにハーパーを啜った。やはり、あの一杯のギムレットは、何か下心あってのものなのだろうか。
 でも、それでもいいじゃない。酔った頭の中で、声が聞こえたたような気がした。
 私は、もちろん、今まで行きずりの男と寝たことなどない。でも、この男と寝てしまえば、自分の殻を打ち破り、私を捨てていった彼のことも、きれいさっぱり忘れられるのではないか。――それは、愛ではなく、打算だけど。
 男は、ぽつぽつと自分の失った恋のことを語り始めた。彼女との出会い、彼女との結婚――結婚した相手に、いまだに恋という表現を臆面もなく使えるなんて、少し羨ましい気がした。そして、はっきりとは言わないが何か不幸な出来事があって、彼から離れていった彼女。
 私は男の話を聞きながら、マティーニとドライマティーニとギブソンとジン・フィズとシンガポールスリングとホワイトレディを飲んだ。これでこの店のジンベースのカクテルは制覇したことになる。
 充分酔いもまわったし、そろそろ場所を移して、さっさとけりをつけたくなってきた。じりじりしながら話を聞いている私の耳に、彼の一言が突き刺さった。
「――結局、僕は別れを選ぶことにしたんです。それが、これ以上誰も傷つかない、最良の方法ですから」
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 突然、ラジオの周波数がピタリと合ったように、頭の中に三十年近く昔の伝説のアイドルの歌が鳴り響く。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 私がその部分しか知らないせいだろうか。同じ歌詞ばかりが無限にリピートされる。私は脳内ラジオに負けないよう、声を張り上げた。
「ちょっと待って! 最良の方法って、何? 誰も傷つかない別れなんて、あるわけないでしょうが。私には、あなたがとても傷ついているように見えますけど?」
 訥々と彼女の思い出を語り、そのことに満足を覚えていたらしい男は、突然の反論に驚いたように私を見た。マスターも、カウンターの中からびっくりしたような目を向けている。
「まさか、傷ついたふりして、あわよくば新しい出会いがあるかもと思ってここに来たわけじゃないんでしょう?」
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「彼女と暮らした家にいるのがつらかったから、だからここに来たんでしょう? それなのに、誰も傷つかずに済むから別れるなんて、屁理屈で無理やり自分を納得させているだけです」
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
「彼女ともう一度、きちんと話し合ってください。憎み合って別れるというんじゃないのなら、彼女と向き合って、きちんと話し合うべきです!」
 そう言いきると、私は荒い息をついた。頬は、きっと真っ赤に染まっている。でも、言い訳の必要はない。私は酔っている!
 男は呆気にとられた目で私を見ていたが、やがて微笑をもらした。
「そういう生真面目なところ、幸恵にそっくりだよ。……そうだよな、話し合わなくっちゃな。よし、今度こそあいつの洗脳を解いてやるぞ! アドバイス、ありがとう」
 そう言って微笑んだ、彼のたれた目がますます好みだった。――もったいないことをしてしまったようだ。洗脳が何のことなのかは、わからなかったが。

 彼が帰ってしまうと、客は、また私一人になってしまった。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 脳内ラジオは、まだ止まない。
 私は、彼のグラスと、四分の一ほど残っているボトルを自分のほうに引き寄せた。微かに良心が疼いたが、このくらいはアドバイス料としていただいてもいいだろう。今日は良心も酔っ払わせてやる。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 彼の策略に乗ったふりして、話し合いもせずに別れを決めたのは、私。
あわよくば、なんて新しい出会いを期待していたのも、私。
「すっぱいぶどう」なんて屁理屈で、自分を納得させていたのも、私。
 最低。かっこ悪すぎ。
 まったく、よくも厚かましくアドバイスなんてできたものだ。あれは全部、自分自身に言わなければいけない言葉だろうに。
 ちょっと待って プレイバック プレイバック 今の言葉 プレイバック
 ……一度くらい、彼ときちんと話し合ったほうがいいのかもしれない。たぶん、元に戻ることはできないだろうけど。それでも、きちんとけじめをつけたほうがいい。
 私は、グラスに注いだハーパーを一口飲んだ。苦い。家で飲んでいるフォアローゼスとの違いは、よくわからない。
 ハーパーと、フォアローゼスの違いを表現できる言葉を紡ぎ出したい、と思った。
 家で飲んだあの酒と、今飲んでいるこの酒の苦さの違いを表現できる文章を生み出したい、と思った。
 グラスを空にすると、私はもう一杯注いだ。
 いい小説を書こう、と唐突に思った。ほんのりと悲しくおかしく、そして、読んだあとに微かな希望が残るような小説。
 今のかっこ悪い私も、いつかそういう小説を書くために必要な経験値になるはずだから。
 また空になったグラスに、私は最後のハーパーを注いだ。
 だんだん、闘争心が燃えてくる。
 えこひいきするハゲ課長、甘え上手なお嬢様、私に背を向けていった男たち、噂好きな女たち。
 あんたたちみんな、今に私の書いた小説で泣かせてやるんだから! ハンカチ用意して待っていなさい!
 脳内ラジオは、いつの間にか止んでいた。

「――お客さん、申し訳ありません。そろそろ閉店しますので」
 顔を上げると、マスターが不安そうな顔で私を見ていた。私は、マスターを初めて見る生き物のように観察した。
 ふさふさした白い髪。中東の人のような立派な鼻ひげ。黒い蝶ネクタイに、赤いタータンチェックのベスト。絵に描いたような、「バーのマスター」だ。
 私なら、この人に、どんな物語を与えることができるだろう。

* * *

 それは、西條史夫にとって、些細な思いつきのはずだった。
 ――たまには早く帰って、カミさんの顔を見ながら夜食にするかな。
 西條は、たった一人残った女性客をちらりと見て、そう思った。
 夕方は常連カップルの結婚式の二次会があったりして、結構忙しかったのだが、夜が更けるにしたがって、めっきり暇になった。週末とはいえ、給料日前だ。ここ数年、こういうことは珍しくはない。
 ――それでも、夫婦二人で食べていくのには困らないだけ、ありがたいものさ。
 西條は、会社が倒産して足の遠のいた何人かの常連を思い浮かべた。景気のよかった頃に札びらを切って豪遊していた彼らは、その零落も早かった。
 今も昔も、自分は好きなことをマイペースにやっているだけ。それで食べていけるのだから、ありがたい。妻の清恵には苦労をかけた時期もあったが、今はその心配もない。
 清恵は、働き者の女だった。西條は三十年前に、それまで勤めていた会社をやめた。バーテンダー修行を経てこの店を開店し軌道に乗せるまで、彼女が働いて家計を支えていた。子供も小さく、生活は苦しかったが、彼女は愚痴ひとつ言わなかった。
 その清恵が、最近沈んでいる。
「パートで勤めていたスーパーを不景気のせいで首になったからよ」と清恵は自嘲的に言うが、本当はそのせいではないことを、西條は知っている。一人娘の由香里が、結婚して福岡に住むことになってしまったからだ。
 口では「やっと片づいてせいせいしたわ」と言っているが、娘が遠く離れたところに行ってしまって、寂しくてたまらないのだ。
 由香里夫婦に近所に住んでもらい、孫の世話をして老後を過ごすのが、清恵の理想だった。だが、もちろん自分の理想のために娘の結婚にケチをつけるほど、心の狭い女ではない。それだけに、最近の清恵の様子が不憫で、西條はなるべく妻と一緒にいる時間を増やそうと思っていた。

 残っていた女性客が、さっきまでいた客のボトルから勝手に飲み始めた。西條は、グラスを磨くのに没頭して、見ないふりをすることにした。あの客が、自分のボトルを飲んでいいと彼女に告げていったのかもしれないわけだし。
 それに、西條はこの女性客が少し怖かった。見かけは今どき珍しい黒髪で真面目そうな雰囲気なのだが、怪しい目つきで、一人で何事かをぶつぶつと呟いている。
 仕事柄、酔っ払いの相手は慣れている。しかし、彼女は酔っ払っていると言うよりは、何かに憑かれているような感じなのだ。
 酔っ払いも、その筋の人間も、西條は怖くなかった。慣れてもいたし、それなりの理屈(または金)が通用するからだ。さっき来た、新興宗教にはまっている若者だって、金を出して瓶を買ったとたん、おとなしく帰っていった。
しかし、素で危ない人間は怖い。どう出てくるか、見当もつかない。こちらの理屈も金も通用しない。
「……ふ、ふふ、ふふふふふふふふふふ」
 女がいきなり笑い出したので、西條はギョッとしてグラスを落とすところだった。
 見ると、ハーパーのボトルは既に空になっている。髪は乱れ、目は血走り、一点を凝視して口元だけで笑っている女は不気味だった。
西條は、幼い頃、祖父の家で見せられた、幽霊の水墨画の掛け軸を思い出した。黒髪を振り乱している女は、まさしく墨で描かれたのっぺりした顔の女幽霊そのものに見える。あれを見せられた後、西條は一人でトイレに行けなくなり、何度もおもらしをしては母親に尻を叩かれたものだ。
グラスを置いて、深呼吸すると、西條はきっぱりと決意した。閉店時間には、まだ少し早いが、今日はもう店を閉めよう。家に帰って、カミさんの手作りの鮭茶漬けを食いながら愚痴でも聞いてやろう。これ以上この女と二人きりでいるのは耐えられない。
いつもの帰宅時間を変えることが、とんでもない運命のいたずらに巻き込まれる原因となるのだが、もちろん今の西條がそんなことに気がつくはずはないのである。
 西條は、怯えていることを気取られないように気をつけながら、その怪しい女性客に声をかけた。

* * *


 ――こんな感じでどうだろう。
 主人公の問題には一応の決着をつけ、本編とはあまり関係ない微かな謎を残す終わり方。
 もしもネタさえ思いつければ、続編を書くこともできそうだし。……なんて、感想もいただかないうちから続編なんて、取らぬ狸のなんとやらだわ。これがうけるのかどうか、まったくわからないし。
 そう、問題は感想なのよ。せっかく一生懸命書いたんだし、なんとしても感想はいただきたいところだわ。小説は、読んでもらえてなんぼ、よね。
 さて、推敲はこんなもんでいいかな。それじゃ、久々にホームページの更新といきますか。まったく、さすがに一年も放置しっ放しのホームページじゃ、忘れ去られていても仕方ないのよね。でも、このままじゃ感想もらえないし。
 ……そうだ。更新作業終わったら、久々に飯田さんのサイトに遊びに行ってみようかな。掲示板に、挨拶がてらにさり気に「新作upしましたv」なんて宣伝しちゃったりして。それ見たら、きっと誰か来てくれるよね。
 よーし、頑張るぞ。










もちろん、この作品に出てくる『私』は
=『瑞穂』ではありません。
(多少は自分をモデルにしておりますが)
ちょっと自虐の入った作品です……。(;^_^A アセアセ…