それは、すべて失恋のせいなのであった。
普段はそんなこと思いもつかないような真面目な人間なのに、失恋のショックで、勢いで、ついあんなことをしてしまったのだ。
――こんな感じでどうだろう。
先を読みたいと読者に思わせる、インパクトの強い書き出し。
……でも、厳密に言うと「すべて失恋のせい」ではないんだよなあ。誇大表現とか言われるかなあ。でも、今はこれ以上のは考えられないんだよな。
うーん。とりあえず続きを書いてみよう。書いているうちに、もっといい書き出しを思いつくかもしれないし。
順を追って説明しよう。
私は、地方銀行のとある支店に勤める、ごく普通の真面目なOLである。
血液型はA型。髪は真っ黒でストレート。私をよく知る友達からは、「あんたは銀行員にむいている」と言われていて、私もその通りだと思う。
部署は業務係。普通預金や当座預金の新規口座を開設したり、入出金を行なう係である。
バブルと呼ばれていた時代より、来店客数も取扱件数も減ったと先輩たちは言うが、その当時よりもリストラが進んでいる。つまり、行員一人当たりの仕事量はかなり増えているのだ。
それなのに、ああそれなのに、上は何を考えているのか、毎年新入行員の二割くらいは仕事のまったくできないお嬢様をお雇いになるわけで。
もちろん、彼女たちの背負ってくる千万単位の預金は魅力的だ。彼女の親または伯父または知り合いの経営する会社との取引も強化され、それだけ見ればめでたしめでたしだ。
どうせお嬢様たちは、二年もすると結婚だの海外留学だの理由をつけてお辞めになられるので、その間の給料を差し引いても旨みはたっぷりとある。
しかし、現場の人間にとっては大迷惑だ。ただでさえ仕事が多くてサービス残業の毎日だというのに、彼女たちのカバーまでしてやらなきゃならない。
そしてもちろん、なんのコネもなく入行した私は、彼女たちのカバーをする役なわけであって。
私の直属の上司である業務課長は、上役や取引先などには卑屈なぐらいにぺこぺこしてみせるのに、私のように何のバックもない、立場の弱い人間には態度のでかい、典型的な嫌なやつなのである。
定刻間際に課長が回してくるお嬢様のやり残しの仕事を、私は生真面目にこつこつとこなしていくしかなかった。
お嬢様が五時になるといそいそと帰り支度をするのに、私は社会人となってからのこの二年半、定時に帰れたことなどないのであった。
そんな私でも、心のオアシスはある。学生時代からつきあい続けている彼である。口には出していないが、私は彼との結婚を意識していた。
「何で毎日毎日、こんなに帰りが遅いんだよ」
約束していた待ち合わせ場所の、ホテルの一階にあるラウンジに遅刻してやってきた私に、彼は溜息をつきながら言った。
彼の前には空になったコーヒーカップが置かれ、灰皿には吸殻が堆く積まれている。
二年後輩だった彼は公務員試験に合格し、この春からコネを最大限活用して市役所に勤務していた。今のところ、毎日定時に帰宅する生活である。
「仕方ないじゃない。忙しいんだもの」
注文したカルボナーラを食べながら、上目づかいで私は言った。
「俺の友達の彼女も銀行に勤めてるけど、毎日定時に帰ってきてるぜ」
それはコネで入社したお嬢様なのよ、と説明しても、彼には通じなかった。
「おまえ、結婚しても仕事はやめないんだろ。毎日こんな状態じゃ、俺晩飯どうしたらいいんだよ?」
口から麺をぶら下げたまま、私は彼を無言で見つめた。
「母さんにも言われてるんだよな。おまえは忙しすぎて、俺の世話はあんまりできないんじゃないかって」
私は、ずずずっと音をたてて麺を口の中に吸引した。鳥肌が立っていた。そしてフォークを置くと、ナプキンで口の周りを拭った。
「だったら一生お母さんにお世話してもらったらいいじゃない」
そう言うと、ナプキンをテーブルにそっと置き、後も見ずにレストランを出ていった。
――が、ホテルを出ようとしたところで、足が止まった。カルボナーラ代を払っていないことが気になったのである。
年下で給料も私より安い彼におごってもらうのは、私の信条に合わない。
癪に障るが消費税込千二百五十円を渡してこようと踵を返したとき、ラウンジから出てこようとする彼の姿が見えた。
私は咄嗟に大理石の柱の蔭に隠れた。派手な服を着た若い女が、彼の腕にぶら下がるようにして歩いているのが見えたからだ。
「やるわねー。マザコンのふりをするなんて。あたし、後ろのテーブルで吹き出しそうになっちゃった」
二人は、柱の蔭の私にまったく気づいていなかった。彼の手に、このホテルのルームキーが握られているのがちらりと見える。
「あいつはマザコン男が大嫌いだからな。これで俺には近寄らなくなるだろ。誰も傷つかない、最良の方法ってやつ?」
二人の笑い声が遠くなり、やがてエレベーターが上の階へ上がっていくのが見えた。
私はよろけながら、柱を離れてホテルを出た。
家に帰ると、私はいつもの習慣で、機械的にパソコンを立ち上げた。ブックマークされているホームページを開く。
このホームページは、私が銀行に就職が内定した頃に開設した、自作の小説中心のサイトだ。
学生時代、文芸サークルに所属していた私は、文章を書く仕事に就けなかったとはいえ、小説を書くことは続けていこうと、このホームページを作ったのだ。
しかし現実は厳しく、仕事に追われて新作の更新は滞りっぱなしだった。せめて書くことだけは続けようと、毎日日記を更新するのが精一杯な状態だった。
今日も日記のページを開こうとして、ふとトップページのカウンターの数字を見た。
カウンターは、昨日日記を書いたときからひとつしか回っていなかった。
私はホームページを閉じ、パソコンを終了した。開設以来初めてだったが、日記をサボることにした。誰も読まない文章など書いて何になるというのだろう。
開設当初は、同じような自作小説サイトをまわり、掲示板に感想などを書き込み、それを読んだ人が私のホームページに来てくれたりしていた。
しかし、仕事の忙しい今はサイトまわりもできず、更新もされないホームページは、次第に忘れ去られた存在になっているらしかった。
暗くなったパソコンの画面を見つめているうちに、私の心の中に怒りがふつふつと込み上げてきた。
彼に捨てられてしまった。仕事が忙しくて、彼に愛想をつかされたのだ。
小説も書けない。仕事が忙しくて、構想を練る間もないからだ。
仕事が忙しいのはなぜか? 課長が他の人の仕事まで私に押し付けるからだ。
私の怒りは、彼でも彼の新恋人でもお嬢様でもなく、課長に向かった。仮にも課長として人の上に立つような人間は、コネなどに左右されず、お嬢様も一行員として平等に扱うべきなのだわ、と常日頃から不満と憤りが溜まっていたからである。
発作的に私は受話器をとった。
電話番号を押そうとして、あわてて職員名簿を取りにいった。もちろん、課長の自宅の電話番号など暗記しているわけがないのである。
名簿で課長宅の番号を確認し、念のため一八四を押してから、番号をプッシュした。呼び出し音二回で、少し甲高い耳障りな声が聞こえた。
「はい、氏家でございます」
課長の奥さんに違いない。私は少し息を飲んだ。ここで臆してはいけない。私は女優なのよ、と無理な暗示をかけてみる。そして、ゆっくりと、舌足らずな調子で話し始めた。
「あのぉ、義幸さんはいらっしゃいますか」
「主人はまだ帰っておりませんけど。あなた、どなた?」
「え? あなた、奥さんなんですか」
私は、わざとここで少し間を空けた。そして、小声で早口に言った。
「別居してるって言ってたのに。離婚も間近だって……」
「なんのこと? もしもし、あなた、誰なの?」
奥さんの声が、ますます甲高くなる。
「……全部、嘘だったんですね」
奥さんが何か喚いているのを無視して、私は受話器を置いた。胸がドキドキし、受話器を握っていた指の先までが脈打つようだ。
たかがイタズラ電話などと言うなかれ。イタズラ電話なんて、道から外れないようにひたすら地道に真面目に生きてきた私には、生まれて初めての卑怯な経験なのだ。課長に復讐してやったという爽快感よりも、虚しさのほうが身にしみる。
自分の思うようにならないからって、イタズラ電話なんかで嫌がらせするなんて。これじゃ匿名掲示板に「逝ってよし」とか書いている語彙の少ない中学生(とは限らないが)と変わらない。
仮にも作家志望者である自分が、こんなことでしか自分の鬱屈を表現できないなんて。世の無常、不条理を作品に昇華させることこそが真の作家の仕事じゃないの。こんな卑怯で小心者でオリジナリティのない私なんて、作家失格だわ。
私は、戸棚から名前に惹かれて買ったフォアローゼスを取り出した。いつもは二日酔いを恐れて薄い水割りにして飲むのだが、今日はストレートで胃に流し込んだ。
彼のことも、ホームページのことも、イタズラ電話のことも、なにもかも忘れて眠りたかった。
化粧を落としていないことと、歯を磨いていないことと、パジャマに着替えていないことが、ちらりと気になったが、強いアルコールが望みどおり私を眠りの中に引きずり込んでくれた。
* * *
それは、氏家義幸にとって、突然すぎる災難だった。
氏家は、タクシーの後部座席で流れる街の灯を見ていた。家に近づくにつれ、灯りは乏しくなり、それが郊外に住んでいるということを実感させる。本当はもう少し、通勤に便利なところに住みたかったのだが、贅沢は言えなかった。
今夜は同期との飲み会で、帰りがすっかり遅くなってしまった。
昔、世の中がバブルという名の好景気に踊っていた頃の飲み会と言えば、接待ばかりだった。あの頃の接待は、楽しいものだった。
当時、融資課の主任になったばかりだった氏家は、毎晩のように接待で痛飲していた。
経費は使い放題だった。高級料亭や鮨屋を皮切りに、一流のバーをはしごしたりして、美食、美酒、美女と三拍子そろった接待を、氏家は心から楽しんでいた。
それが今はどうだ。業務課なので接待はないし、自腹を切らなければいけない飲み会では、安い居酒屋とスナックで済ますのが関の山だ。
今夜もその安いスナックで、出世した同期の自慢話を聞いているときに、気の利かないホステスにグラスをひっくり返され、スーツに染みを作ってしまった氏家は、ひどく不機嫌なのであった。そのうえ、こともあろうにそのホステスは、彼の頭のことを話題にしたのだ。
遺伝的に、自分がいつか散髪の必要のない頭になることは、わかっていた。
だが、若い頃は、そのことについてあまり気にしたことはなかった。確かに二十代後半の頃から、シャンプーなどのたびに抜け落ちていく髪の量が増えていることには気づいていた。しかし、特に対策はとっていなかった。
ハゲがなんだというのだ? 男は仕事ができてなんぼ、ではないか。
彼のその自信は、テレビ映画で見たユル・ブリンナーやテリー・サバラスの勇姿が瞼に焼き付いていたからかもしれない。彼らはみごとなスキンヘッドであったが、画面上で堂々と演じるその姿は、同性である氏家から見ても惚れ惚れとする男の色気があった。
しかし、彼の自信はバブルの崩壊と共に、呆気なくしぼんでしまった。
当時彼の所属していた課は、不良債権の根源とされる不動産会社に積極的な融資を行なっていた。直属の上司は関連会社に出向となり、氏家は何とか業務課の課長になることはできたものの、それ以上の出世の道は閉ざされてしまった。
その頃から、彼と脱毛の闘いは本格的に始まる。
ありとあらゆる養毛剤、育毛剤を試した。だが、市販されているものはどれも驚くほど効き目がない。よくもこんな効かないものを、堂々と売っているものだ。「継続して使用することが肝心」などとまことしやかに言うが、それは製薬会社の陰謀だろう。
中国へ旅行にするという女子行員がいたときは、頼み込んで漢方の強力な毛はえ薬を買ってきてもらった。だが、中国四千年の歴史も、何代続いてきたのかわからない氏家家のハゲの遺伝子には敵わなかった。
取引先の会長に、「これは効く」と保証されて、玉ねぎのすりおろしたのを頭に塗ってみたこともある。だが、これはものすごく刺激が強くて痛い上に、臭いも二日間残ってしまい、一回きりでやめた。
それでも懲りずに、今度はアロエのすりおろしを頭に塗ったりもした。こちらは塗りごこちはマイルドだったが、効き目は確認できなかった。それでも彼は、果敢に挑戦を続けていった。
仕事のできない自分は、今やただの貧相なハゲでしかない。彼には、そんな現実を直視する勇気はなかった。
今は、妻の愛読する健康雑誌に載っていた尿素水というものに、微かな望みを託す氏家なのであった。
――だいたい、そんなデリケートな話題を持ち出す無神経なホステスを雇うなんて。これだから、安スナックはダメだ。
氏家は、気の利かないホステスに、しつこく怒りを燻らせていた。そのほうが、出世した同期に対する嫉妬心を自覚しなくてすむからだ。俺の気分が収まらないのは、常識をわきまえないホステスのせいだ。断じて彼の出世が妬ましいからではない……。
嫉妬に悶え苦しむ情けない自分の姿を見たくない。それは、無意識の自己防衛ともいえる。
機嫌の直らないまま、氏家は三十年ローンで買った我が家に帰り着いた。しかし、彼を出迎えた妻の美恵子は、もっと不機嫌な様子であった。彼が帰ってから、一言も口を利かない。
「おい、お茶漬け用意してくれ」
だが、美恵子は頂き物のとらやの羊羹を頬張りながら、テレビの方を向いたまま、氏家を見ようともしない。
「おい、じゃあ水くれよ」
だが、やはり返事はない。
「おい、どうしたっていうんだ」
とうとう我慢しかねた氏家が声を荒げた。美恵子は、羊羹の最後の一切れを飲み込み、抹茶をすすると、静かに言った。
「さっきね、電話がきたのよ。女から」
回覧板がまわってきたのよ、とでも言うような口調だったが、これが曲者なのだ。美恵子の怒りは、粘着質にしつこく長引く。経験上、氏家にはそのことが嫌というほどわかっている。
「何の電話だよ」
心当たりはあったが、とりあえずとぼけてみた。
美恵子は、あくまでも冷静だった。
「私たち、いつから別居していたのかしら。離婚も間近なんですってね。よその女から教えられるとは、思いもしなかったわ」
氏家は渋い顔をした。蓉子のやつ、寝物語で言ったことを本気にするなんて、なんてバカな女なんだ。
だが、美恵子にはそんなことおくびにも出さない。
「バカだなあ、そんなのイタズラ電話に決まっているだろう」
「どうかしら。五年前のこともありますし」
五年前にも、氏家の浮気がばれて、離婚寸前の大騒ぎになったことがあった。
「あの女とは、完全に手を切った」
「他に女を作っているのなら、同じことなんじゃないかしら」
美恵子は、巨体を揺すって立ち上がった。
「明日の朝一番で実家に帰ります。義輝と美奈は連れていくわ。お望みどおり別居してあげるから、これからどうするのか考えてちょうだい」
美恵子は足音も荒く居間を出てゆき、後には酔いも醒めた氏家が、一人ぽつんと残された。
――冗談じゃないぞ!
氏家は、美しい女が何より好きだったが、それでも家族が一番大事なのだと思っていた。
それなら浮気なんかしなければいいのに、そこは「男の甲斐性」とか「据え膳食わぬは男の恥」などという都合のいい理屈で自分を納得させていたわけで。
自分の浮気が原因で、家庭を壊すなどという気はさらさらないのであった。
それにしても、蓉子はなぜ今更そんな電話をかけてきたのだろう。
そういえば、彼女の同期の女性行員が、ここのところ立て続けに結婚していた。
結婚など興味ない、という顔をしていたが、やはり周囲に先を越されるとあせってしまう年頃なのかもしれない。
ということは、ここいらが潮時ということだ。
義輝は十四歳。美奈は、まだ十歳だ。難しい年頃である。このかわいい子供たちを母子家庭にさせるわけにはいかない。
また長い時間をかけて美恵子の機嫌をとっていくことを考えると、思わず氏家の口から溜息が漏れた。だが、仕方がない。明日はデパ地下の新倉屋に寄って、花園だんごでも買ってこよう。
まずは、蓉子と別れるのが先決だ。
そう決意すると、氏家は自分でお茶漬けを用意するべく、キッチンに立った。
* * *
それは、中野蓉子にとって、予期せぬ別れ話だった。
「君には俺なんかよりも、もっとふさわしい男がいると思うんだ」
いつも待ち合わせに使う、とあるシティホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいるときに、不意に氏家が言った。
「俺じゃダメだ。俺は、君の望む幸せをあげることができない」
氏家は、あくまでも蓉子のためだということを強調していた。
通りかかったウェイトレスが、興味深そうな、そして少し憐れみをこめた視線を蓉子にちらりと投げていった。
蓉子は、長く美しいウェーブのかかった髪を無意識にかき上げながら、氏家の頭頂部を凝視していた。笑いたい気分のときは、磯野波平を思い出させる、その部分を見つめるに限る。
氏家が、浮気が原因で奥さんとけんかしたらしいということを、蓉子は知っていた。
どういう情報網があるのかはわからないが、女子行員の休憩時間は、そういう話題に事欠かなかった。
「奥様、だいぶんご立腹なんですか」
氏家は怒ったような目を向けたが、蓉子は気にしなかった。あくまでも美しく別れたいと願う氏家にとって、美恵子は思い出したくない存在なのだろう。それをわかっていて、わざとそちらに水を向けたのだ。
氏家は、苦りきった表情で言った。
「正直、参っているんだよ。昨日、君が電話なんかするから」
「電話なんて、していませんわ」
蓉子は少し驚いて、口に持っていきかけたカップをソーサーの上に置いた。
「……妻は、子供を連れて実家へ帰ってしまったよ」
蓉子の言葉を無視して、氏家は溜息をついた。この厄介な事態の責任は、すべて蓉子にあるとでも言いたげな表情だった。
「申し訳ないが、俺は家庭を壊す気はない。そのことは、最初から君にも言っておいたはずだ」
さんざん口説いてきて寝た直後を最初と言うのならね、と蓉子は心の中で呟いた。
「とにかく、これで終わりにしよう。君も大人なら、ここできれいに別れよう」
言いたいことだけ言うと、氏家は勘定書きとデパートの物らしい紙袋を手に立ち上がった。だが、蓉子は座ったままだった。
レジで金を払っている氏家の頭をぼんやり眺めながら、蓉子はコーヒーなどではなく、ドンペリでもオーダーしておけばよかったと思った。
住宅ローンや子供の教育費が大変だと、愚痴ばかり言う氏家がおごってくれたことなどほとんどなかった。手切れ金がコーヒー一杯というのでは、いくらなんでも安すぎる。
蓉子は、その冷めたコーヒーを静かに飲み干した。カップについた深紅の口紅を、親指の腹でふき取る。
傍目にはそうは見えないかもしれないが、蓉子は怒っていた。
勝手なことを言って離れていった氏家に対してではなく、自分自身に。
どうしてあんな男とつきあって、その上捨てられなければならないのだ。この、あたしが!
妻子持ちは後腐れがなくていい、なんて思っていたのが間違いだった。こんなにつまらない男に、貴重な時間を無駄にされていたなんて。蓉子は自分自身の男を見る目のなさに腹が立って仕方がないのであった。
やはりこんな日は、場所を変えてとことん飲むしかない。
蓉子は、バッグから携帯を取り出した。氏家のアドレスを消去し、友人の番号を押そうとして、指が止まった。
その友人は、結婚したばかりなのだ。突然飲みにいこうと誘っても、きっと無理だろう。
考えてみれば、ここ一・二年で蓉子の友人は、ほとんど結婚していた。夜遊びする相手もいない。そのせいもあって、心ならずも氏家とのつきあいが深くなってしまったのだ。
蓉子は、結婚なんてしたいと思ったことはなかった。夫や姑に仕えて苦労していた母の姿を、よく覚えていたからかもしれない。家族に隠れて、母はよく泣いていた。
蓉子は席を立った。とにかく、どこかに飲みにいかなくてはならない。
友人たちが結婚したとき、蓉子は、心からおめでとうとは、とても言えなかった。
彼女たちは、これから生きながら墓場に入っていくのだ。家という名の、家族という名の墓場。あたしは、生きながら埋められるのは真っ平だ。
誰にも束縛されない自由。それが蓉子にとって、なにより大切なことである。
それなのに、今すぐに自分の気持ちをぶちまける相手がいないのは、寂しいことに思えた。自由は、孤独と表裏一体のものなのかもしれない。年を取るにつれて、孤独のほうが強くなっていくようだ。そう思うと、気持ちが沈んでくる。
(そうだ、あいつなら)
そのとき蓉子の頭に浮かんだのは、銀行の後輩の榊原だった。
榊原は蓉子の三年後輩で、新入行員の頃は蓉子が指導員として彼に仕事を教えていた。
硬派の爽やかなお坊ちゃんというタイプの榊原は、少々単純でお人好しという感は否めないが、誰からも好かれる好青年だった。今では部署が違うが、たまに飲みに行ったりする間柄である。
もっとも榊原は、蓉子に対して飲み友達以上の好意を抱いている節はあった。それを察して、蓉子はあまり彼との距離を縮めないようにしていた。
しかし、彼なら蓉子が頼めば、すぐにやってくるだろう。今日のような日に、一人でいるのは嫌だった。
蓉子は立ち止まると、携帯で榊原を呼び出した。案の定、彼は二つ返事で蓉子の誘いに応じた。
携帯をバッグにしまうと、蓉子は深呼吸した。憑き物が落ちたような気分だった。そして、ヒールを鳴らして約束の店へと向かって歩き始めた。