邂逅2
地面の上に寝かされたとき、の息はほとんど止まっていた。休む間もなく、弥勒は彼女の胸を力いっぱい押した。
「……どうなってんだよ、これは?」
「……袂の中に、石がたくさん入っている。覚悟の上の入水でしょう」
犬夜叉の問いに、手を休めることもなく、弥勒は答えた。
犬夜叉は、黙り込んで青ざめた顔のを見つめた。もう既に死んでいるように見えるその顔は、まるで桔梗の死に顔のようだった。
「ダメだ、このままじゃ息が戻らない」
弥勒は、の首を仰け反らせ鼻をつまむと、自分の口を彼女の唇に当てた。
思わず、珊瑚は息を飲んだ。の命を助けるためだということは、わかっている。しかし、こんな間近で弥勒が女と口付けるのを見るのは、楽しいことではなかった。そして、そんなことを考えてしまった自分を恥ずかしく思った。
弥勒は2・3回に息を吹き込むと、また胸を押した。それを何度か繰り返した後、ようやくの息が戻った。彼女は水を吐き、苦しそうに咳き込んだ。
「大丈夫か?」
弥勒は、の身体を起こし、背中をさすってやった。
呼吸が落ち着いてくると、は涙の滲んだ目で弥勒を睨みつけた。そして、頬を思い切り平手打ちした。
「どうして助けたりするのよ!」
「そんな言い方はないだろ。法師さまは、あんたのために……!」
弥勒が何か言うよりも先に、珊瑚が強い口調で言い返した。
「あたしなんか、死んだほうがいいのよ! あたしが生きている限り、また人が死ぬわ!」
は怒鳴るように言った。そして立ち上がろうとしたが、彼女の体にその力は残っていなかった。弥勒は、倒れそうになったの背中を支え、座らせてやった。
犬夜叉の犬耳がピクリと動いた。と、同時に不意に空中から声がした。
「見〜つけた♪」
犬夜叉、弥勒、珊瑚は弾かれたように上を見た。だけは、凍りついたように動かなかった。
「……なんだ、てめえは?」
空中に浮いているのは、とがった耳、灰色の肌をした、見るからに妖怪の少年だった。
「君たちこそなに? 僕のに手を出さないでよ」
「彼女のほうでは、おまえのものだなんて思ってないようだけどな」
真っ青な顔で歯を食いしばっているを見ながら、弥勒は言った。
「……なんだよ、僕たちの仲にケチつけようってえの?」
不穏な空気が流れた。は、よろめきながらも何とか立ち上がった。
「やめて、幽鬼。この人たちは関係ないから」
は、懇願するように言った。
「あんた、あいつに脅されてるの?」
を気遣いながら、珊瑚が言った。
「やい、てめえか、村の連中を皆殺しにしたのは!」
鉄砕牙を抜きながら、犬夜叉が怒鳴った。幽鬼は半眼で、馬鹿にしたように犬夜叉たちを見下ろした。
「僕ぅ? 僕じゃないさ、やったのは。……そうだな。君たちには見せてあげるよ。ちょっと数が足りないけど。まあ、が世話になったお礼にさ」
幽鬼は薄ら笑いを浮かべ、指を鳴らした。そのとたん、地面が盛り上がり、地鬼たちが現れた。
「こいつらか!」
犬夜叉は、鉄砕牙をかまえた。弥勒も珊瑚も、錫杖や飛来骨を手に、地鬼たちに立ち向かった。
は、弥勒の袖に取りすがって、必死になって言った。
「やめて! お願い、争わないで!」
「、危険だから下がっていなさい!」
「こんな奴ら、すぐに片付けて、おまえを自由にしてやるぜ!」
犬夜叉は『風の傷』を、弥勒は法力を、珊瑚は飛来骨を、それぞれ放とうとした。
幽鬼は、上空でニヤリと笑った。
「やめて――っ!!」
は、大声で叫んだ。
そのとたん、犬夜叉、弥勒、珊瑚、そして地鬼たちの身体から薄白い光が抜けた。
「な、なんだ?」
急に力が抜けて膝をつきながら、弥勒が言った。犬夜叉、珊瑚、地鬼たちも、同じように力が抜けていた。
「君たちの荒魂の陰の気さ―――憎悪、恐怖、殺意といったようなね」
落ち着き払った様子で、幽鬼は言った。
「さあ、祭りはこれからだ!」
薄白い光が―――みんなの魂の一部が、の背中めがけて飛び込んでいった。
「嫌あ――っ!!」
は、身体をがくっと仰け反らせた。その胸から、新たな光が抜け出してきた。やがて、それは徐々に大きな鬼の姿になった。
「へえ〜、たった3人でこんなに大きな鬼が作れるなんて、君たちって意外に魂力があるんだね」
幽鬼は、愉快そうにくすりと笑った。
の身体から出た鬼は、強靭な爪で地鬼たちをなぎ払った。
「おい、あいつらはおまえたちの仲間じゃないのか?!」
「あいつらも荒魂を取られたからね。その鬼は、荒魂の持ち主を全部殺して全ての魂を解放しない限り、消えないのさ」
そう言うと、幽鬼はもっと高く上昇した。
「僕はここから見てるよ。巻き添え食って、怪我するのは嫌だからね」
「畜生……」
犬夜叉は唇を噛んだ。闘おうにも、その力が出ないのだ。
(このままじゃ、殺られる……)
弥勒は、風穴を開こうとした。その時、倒れているの姿が目に入った。
は、ピクリとも動かなかった。魂のほとんど全てが抜けているようだった。ただ、見開いたままの、硝子玉のような瞳からは涙があふれていた。
(もしも、この鬼を吸い込んだら、魂の抜けたままのあの娘は死ぬのか?)
その考えが、弥勒に風穴を開かせることを躊躇わせた。
そうしている間にも鬼は地鬼たちを全て片付け、弥勒のほうへ迫ってきていた。弥勒は錫杖で鬼の爪を防いだが、いつもの力が出ず、左腕を切り裂かれた。
「みんな、どうしたの?」
その時、かごめが現れた。小屋に戻っても誰もいなかったので、七宝とともに探しにきたのだった。
「な、なんじゃ、この鬼は!」
「かごめ! こっちへ来るんじゃねえ!」
犬夜叉は必死に力を振り絞り、鬼に立ち向かいながら、かごめに怒鳴った。
かごめは状況はよくわからないながらも、犬夜叉の言うことに従い、倒れているのほうへ向かった。
「ねえ、大丈夫なの?」
かごめは、を抱き起こした。その時、かごめの身体からまばゆい光が溢れ、2人の姿を包んだ。
「なんじゃ、この光は!」
(まさか、かごめ様の荒魂まで?)
弥勒は、眼を瞠った。犬夜叉も、珊瑚も、まばゆい光に包まれた2人を畏れに似た気持ちで見つめていた。
「うぉ―――っっ!!」
突然、鬼は恐ろしい雄叫びを上げると煙のように消滅した。そして、鬼のいた場所には、古代の巫女の衣装をつけた女が、淡い燐光に包まれて立っていた。
鬼と化していた荒魂が、犬夜叉たちの身体に飛び込むように戻った。既に死んだ地鬼たちの荒魂は、行き場所を無くして天に昇っていった。
「な、何だよ、これは!」
予想もしなかった展開に、上空の幽鬼は上ずった声をあげた。
「……ようやく出逢えたな」
女は、かごめとのほうを見ながら言った。そして、上空の幽鬼を見据えると、弓をかまえた。
「なんでだよ、奈落はこんなこと言ってなかったぞ!」
「奈落だと!!」
犬夜叉は上空高く飛び上がると、幽鬼を殴り落とした。そして、地面にめり込んだ幽鬼の胸倉を掴むと、激しく問い質した。
「奈落がどうしたんだ? 言ってみろ!」
「……奈落が教えてくれたんだよ。山間の小さな村に、面白い娘がいるって。それで……」
「それで、嫌がるを無理やり人殺しの道具にしたというのか?」
激しい怒りを燻らせた口調で、弥勒が言った。いつもながらの、奈落の卑劣なやり口は、吐き気を感じるほどだった。
「奈落はどこにいる!」
「知らないよ。教えてくれたのも、奈落の使いの者だったし……」
先程までの倣岸な口調とは違って、幽鬼の声は今にも消え入りそうだった。
「……どけ、半妖」
それまで黙っていた巫女が、口を開いた。そして、至近距離から幽鬼の胸に、破魔の矢を打ち込んだ。
「うっ!」
幽鬼は苦しげに目を見開いたが、すぐにその姿は消滅してしまった。
「……なにも、すぐに殺さなくても」
珊瑚の言葉には答えず、巫女はかごめを見た。
「魂が足りぬ。残りはどこにあるのだ?」
しかし、かごめが返事をする前に、巫女の姿は空気に溶けるように消えた。と、同時に、かごめとの魂も、元の身体に戻った。
「かごめ、大丈夫か?」
「うん。あたしは平気。でも……」
かごめは心配そうに、抱きかかえているを見た。の消耗は激しく、自力で起き上がれずにいたが、硝子玉のようだった瞳には生気が戻っていた。
「大丈夫ですか?」
弥勒は、かがみこんでの様子を見た。は微かに頷き、弥勒の左腕を見た。
「……ごめんなさい……あたしのせいで……」
「ああ、こんな傷、たいしたことありませんよ」
弥勒は笑顔で答え、腕を持ち上げてみせた。本当はかなりの深手で、相当な出血だったのだが。
「……傷を……」
は、力を振り絞って起き上がると、弥勒の左腕の傷に自分の右手を重ねた。そうして、しばらくじっとしていた。
「これは?!」
が手を離したとき、弥勒は驚いて声をあげた。鬼の爪で深く抉られた傷が、跡形もなく癒されていた。
「……もう……だいじょう……ぶ……」
は微笑むと、そのまま深い昏睡状態に落ちていった。