かつて私が見合いをしたとき、当然のように相手に趣味を聞かれた。「蔵書表と音楽をHPで管理している」などとディープな話は避け、 「クラシック音楽の鑑賞」と無難に答える。作曲家を列挙していき、最後におずおずと追加する「ブルックナー」と。
ぶるっく……なあ……? (そういう名前の作曲家を)初めて聞きました無理もなし。
(私が他界してあの世で)ブルックナーに会ったら、言ってあげたい。遠い日本には、こんなに(コンサートホールが満員になるくらい)大勢、あなたの音楽が好きな人がいるのですよ、と。ふむ。すると少し疑問が湧く。ブルックナーはコンサートホールを満員にするくらい知名度が高いのか。それとも知名度は低くて出来そこないの私なんぞと見合いせねばならぬような出来そこないで嫁に行き遅れた(というか早々にバツイチとなった)おバカなオバチャンには解らないのだろうか? もう少し証言を拾ってみよう。一つめは、コンサートの当日、ご夫人を伴い、立ち話しで談笑する朝比奈隆本人の言葉を直接私が耳にした(偶然にも立ち聞きしてしまった)とっておきの証言である:
どういうお客さんが苦手かって、何といっても、ああいうのは苦手ですな。つまり、指揮者が「苦手とする」客がおり、しかも「苦手と認識した」指揮者も、頷く相手も、理解する私もいる、という状況がある。どうも、この証言には、「一般受けするには難しい、何か支障となる複雑な事情がありそうだ」という予感がある。さらに、致命的な要素もある。私が、とある飲み会で会った人、「クラシック音楽が好き」とのたまう人による証言である:あ、先生、これ(ブルックナーの作品)はノヴァーク版じゃなくて、ハース版ですね?とわざわざ言いにきてくれる手合い……。ああいうのは、どうも苦手ですな。
チャイコフスキーの5番(第5交響曲)が大好きなんですよ〜!では、本当に、ブルックナーの作品は長いのか(というか、MIDIページの演奏時間を見ると「長い!」と思うかもしれないが、ちゃんと証言を取ろうw)。 前述の朝比奈隆は、最晩年の時、曲が終わった直後に、このようにぼやいている:
え? ブルックナー……??
いえいえいえいえ!! (グスタフ・)マーラーとかブルックナーとかは長ったらしくて聞けないです!
ブルックナーの7番(第7交響曲)は長すぎる……。さらに、 当サイトでも取り上げた(『新世界から』の作曲家)アントン・ドヴォルジャークが、ブルックナーのとある交響曲を評して言っている:
もう少し短ければ、国際的な成功も収めるだろう……。 となると、彼の作曲家としての力量に疑問が持たれても当然である。まずは弁護側(w)の証人の証言。証言者は「美しき青きドナウ」で名高い「ワルツ王」シュトラウスである:
(ブルックナーがシュトラウスに「マイスター」と呼んだことに応じて)いやいや、あなた(ブルックナー)こそがマイスターだ。あなたの交響曲に比べれば私なぞ、場末の音楽家にすぎん。ふむ。映画「2001年宇宙の旅」のBGMにも使われた作品の作曲家の弁だ。そこそこの説得力はあろう。いっぽう、検察側wwの証人は、ヨハネス・ブラームスである。
ふむ、検察側の証人に、かなり問題がありそうだw。だが、次の弁護側証人は、もっと問題である。古典後期ロマン派戦争の当事者ブラームスとの相手、激烈な反ユダヤ主義者たるリヒャルト・ワグナーだからである(ちなみにワグナーとブラームスが直接争った形跡は、薄い。ブラームス側近とワグナー側近が争っていた。もっとも、ブラームスとブルックナーは蔭口の応酬をしていたようであるがw)。
- (ブルックナーのとある作品を評して)交響曲だと? そもそもあれが交響曲だと? 全くのお笑いぐさだ!
- 坊さんの元で幼少の頃を過ごすということが、どういうことだかおわかりですかな? 全く馬鹿げています。頭がおかしくなってしまいます(と、幼少の頃を修道院で過ごしたブルックナーの「頭がおかしい」ことを示唆)。
- (とある出版社の人間に、でもブルックナーの作品には思想があるでしょうと言われて答えて曰く)私ならば(思想を楽曲に表現せずに)その思想だけを出版しますな。そうすれば、あなたも面倒がなくて良いでしょう。
wwwww。ブラームスと私は、気が合いそうだ。いや、向こうで御免こうむると言うだろうが。 ただし、私は同じ台詞をブラームスにぶつける、「そもそもあれが交響曲だと?」とw。
なおかつ面罵する、「おのれの作品など、みな、ベートーベンの出来の悪いパロディでしかないではないか。それに、おのれの作品が、 シュトラウスに及ばぬことを、おのれ自身が認めておった(とくに美しき青きドナウ)ではないか!」などとwwww。
(献呈された通称『ワグナー交響曲』の譜面を示して)いや、なかなか立派なものだ。演奏、演奏、とにかく演奏することです。これからのドイツの音楽界はわれわれ二人に。私はオペラの分野で、あなたは交響曲の分野で。ちなみに、なぜ『ワグナー交響曲』が通称で、しかも誰も通称していない理由は、ブルックナー本人だけが『ワグナー交響曲』と呼び始めたからである。
……では「ノヴァーク版」のみを使えば良いんじゃね?いや、これが困ることに、音楽的には、「ハース版」のほうが、比較的優れているところである。一般に、ブルックナーと言う人は、生前から「長い」「長い」と言われつづけ、「できるだけ短くなるように」修正していった傾向がある(楽器の追加などの修正もあるが)。つまり、最終確定版に近づけば近づくほど、楽曲の長さが短くなっていく。短くなって「聴きやすくなった」のならばともかく、「無意味なフレーズは減ったけれども、かえって主題が唐突に聞こえる(第8交響曲の第4楽章)」という欠点もある。
では、ハース版をベースに「ノヴァーク版」の良いところだけを使えば良いんじゃね?そうは問屋がおろさない。というか、ナチス党がおろしてくれなかった。当初、国際ブルックナー協会において、ロベルト・ハースが前述の方針でハース版の校訂を進めていた。ところが、戦後、ハースは「ナチス党への協力」のカドで国際ブルックナー協会から追放される(つまり、戦争がなかったりナチス党がなかったりナチス党が勝ったりしていたら、ハースはそのまま校訂作業を続けられた)。後釜に居座ったのが、幸か不幸か、校訂方針の全く異なるレオポルト・ノヴァークだったのである。今日、国際ブルックナー協会に認められたブルックナー作品の譜面は、当然ながら例外なく、「ノヴァーク版」である。すなわち、「音楽的により良い」ハース版は、入手しづらいのである。作品の長さ・ロマン派戦争の当事者・ワグナーの模倣とみなされやすいことに加えて、この版の問題が、さらにブルックナーを一般から遠ざけている(でも、聞く人は聞いているし、知っている人は知っている)。
簡単な話だねと思うか
かなり数学的な話だねと思うかは、人それぞれであるが、一応、指揮者・朝比奈隆の意見も聞いておこう。
そんなもの(四分音符=数字をバカ正直に墨守するよう)守っていたら、あんた、そりゃバカですよ。ただし朝比奈隆は(テンポを少しかっこよくアップテンポに指揮した)本業の指揮者を自室に呼び付け、このように注意している。
それに大体、ベートーベンの時代は(メトロノームの精度自体が悪くて)数字自体がおかしかったらしいですな。ものすごく速くなってしまうんです。
いいかね。答えはここ(オーケストラ譜面を手のひらでぽんぽんたたく)にあるんだ。ここ以外に答えはない。つまり、譜面に書かれたことを忠実に(そこから作曲家の意図を読み取りながら)表現するのが、朝比奈隆の信条である。また、作曲者の意図を考慮せずにテンポ数を墨守することも馬鹿げた話、ということであろう。そこで、ブルックナーの譜面を見てみると……。ない! 四分音符=数字がない! 代わりにドイツ語で「ゆっくり」とか「あまり遅くなく」とか「速く」とか……。おおい。どうしろっていうのだぁ?(いや、もっと大昔は、イタリア語でそのように書いていたのだが←だもんで、メトロノームで計って数を書くようになった)。 数字がないことは、大した問題ではない。問題はテンポが変わる時である。どの作曲家も、よく、作中で「だんだん遅く」「だんだん速く」などと、徐々にテンポが変化する様子を譜面で指定している。ブルックナーも、している。問題はブルックナーの拍子とリズムである。ブルックナーの作品にはいろいろ特徴がある。二拍子の曲が多く、また付点を二つも三つも使った「たーっった」「たーーーーった」というリズムが頻出する。ところが、二拍子でテンポを「だんだんはやく」「だんだんおそく」などとされると、この付点リズムが演奏しづらくなるのである(DTMでMIDIが鳴る分には気にもならないだろうが)。こういうのは、常識で考えてみたら、すぐに解る。指揮棒の腕が二個動く隙間に、楽団員たちは「たーっった」「たーーーーった」と間のリズムを刻む必要がある。ところが、取る拍子が二つと四つならば、いずれがリズムを刻みやすいであろうか? 当然、四つである。しかも、指揮者は出来の悪いマリオネットのように、機械的に時計のように腕を動かすわけではない(ブルックナー自身の指揮は、ぎくしゃくとぎこちなかったらしいが)。すなわち、別に四拍子で書いても支障のないメロディラインの曲を二拍子で書いてあるがために、楽団員たちはしなくても良い苦労を強いられるのである(いや、プロならば誤差の範囲で気にしてはならないことであるが)。
書くこともできるが、全能のおかた(神)がおゆるしにならんのだ。……いや、そういうことを言っているから、(神様に献げようとしていた)念願の第9交響曲が未完成で終わったんじゃね?
(他界してあの世で)神様に会ったときに「こりゃ、なぜおまえは、わしの与えた才能をちゃんと使わなかった?」と詰問されるわけにはならぬ。
ちなみに、未完成であるため、第9交響曲は第三楽章の、「まるで神様に他界するのがいやいや」といやいやをしているみたいな最後で終わる。したがって全曲(1〜3楽章)を聴くとかなり沈鬱な印象を受ける(←チャイコフスキーの悲愴ほどではない)。ブルックナー自身のメモが残されており、彼の第9交響曲は、実に彼らしい壮大で壮麗な「神様を賛え、奉呈す」に相応しいハッピーエンドとしたかったようである。しかし、あと一歩というところで、彼の命は保たなかった。ベートーベン並の信念を持っておれば、ごちゃごちゃ書きなおさずにちゃんと第9交響曲も完成できたはずである。
なお、眠りこけるのは、ブルックナーよりもむしろマーラーのほうが相応しい。
私も大概、変人扱いされてきた。私もブルックナー並に高校で「もっと別のように作れないのか」と言われたものである。