2006/04/09 追加
erudition-0030
微積分……呪われたニュートンに関する考察
「微積分」という呪いwについて考察してみました↓。

 あらかじめ断っておくが、私は数学がニガテなほうに入る。得点力が足りない。
高校では数学教師や担任に「進級できないかもしれない」などと脅された。追試・補講の常連でもあった。

「計算など電卓/コンピュータにやらせればイイのに」
と何度思ったことか。

 それでも言う。微積分は難しくない。
ソーシャルハッキングの手助けするようなものなので控えるべきではあるが、私の過去の発言に、このようなものがある:

  • 「たしざん・ひきざん」ができれば、
    「かけざん・わりざん」ができるはずである。
    「乗算・除算は加算・減算の繰り返し」だからである。

  • まったく同様に、「かけざん・割り算」ができれば、
    「べき乗」・「根」の計算ができるはずである。

  • したがって、まったく同様に、結論として、
    「たしざん・ひきざん」ができれば
    微分・積分ができるはずである。

 乱暴だろうか無限級数のハナシは上記に当てはまりにくい、という難点があるのは自覚しているが

 私が「微分」なるシロモノを始めて目にしたときの第一印象は、「めんどうくさいな」である。
「積分」のほうは「さらにめんどうくさいな」である。ところが、直感的に、ひらめいた。

  • 3分の4パイアール三乗(すなわち体積)を微分すれば、4パイアール二乗(すなわち面積)になる。
  • いっぽう、4パイアール二乗(面積)を積分すれば、3分の4パイアール三乗(体積)になっちまう。
 なぁんだ。面倒くさいことを言っているが、次元のプラス(べき乗ふやす)ための公式が積分(1次元→2次元→3次元……)、次元のマイナス(べき乗減らす)ための公式が微分(……3次元→2次元→1次元)と言っているだけじゃないか。なにが嬉しくて、そんなものが必要なの? ……アレ、か。

 何かモノが動くとしよう。天体でも人工衛星でもミサイルでも良い。モノが動いた軌跡は線である。モノを点と仮定すると、ゼロ次元と言うことができる。点の軌跡は線すなわち1次元である。軌跡(1次元)のある時点の座標(ゼロ次元)を求めるには、マイナスさせるので微分。その点(ゼロ次元)の連続(1次元)はどこを通っていくの?と図示するには、プラスさせるので積分。……そういう時のタメに使う、のねぇ(はい、私はそんな大それたお仕事していませんw)

はっはぁーーーん、なるほどなるほど
 と高校生だった私は一人合点し、「あとのは、本題を求めるためのつけたしだ」とばかり「補足」を覚えていったのである。当時私は、自分の指を使って、微積分の問題を解いていた。「数」を数えるためではない。自分の指で図形を形作り、その架空の図形を移動させたり回転させたり断面を推測したり交点を作ったり、具体的なイメージを補強しながら、問題解法の糸口にしたのである。

 知人にアイザック・ニュートンを呪った者がいる。

「ニュートンは微積分を発明しやがった」
からである。愚かしいと断じることなど私には出来ない。少年期に私は「難しい曲を書きやがった」とロベルト・シューマンとテレマンを呪っているからである。だが、「キーボードのどこを押えれば良いか解らない者がシューマン・テレマンを呪った」程度に、はたしてニュートンは呪われるべきなのであろうか?

 「ニュートン力学」といえば古典物理の代名詞。天体の動きを解き明かそうと獅子奮迅の働きを見せたニュートンは微積分を発明した。ところが、ドーヴァー海峡の向こう側の大陸では、まったく同じことをライプニッツが解き明かそうとしていたのである。今日に残された資料によると微積分よりも複雑な解法を考案しようとして。すなわち、もしニュートンよりも先にライプニッツがゴールインしていたら、世界は「ライプニッツ力学」の名のもと、あの「微積分」よりも難しい数学を高校で勉強せねばならなかった可能性がある。……ニュートンは感謝されこそすれ、呪われるスジアイなどないのではないか?

 そのニュートンを呪った知人は、某お嬢様女子大出身者である。……だから微積分ができないのか?

 私の蔵書の中の対談エッセー「空想科学論争」では「所長」なる人物が「私には微積分ができない」主旨の発言をしている。それに対し柳田理科雄氏は

「それはあんたが勉強しないからだ」
と言っている。はたしてそれだけか?

 この薀蓄ページの表ページにあたる蔵書一覧の書籍「ロートマンの文化記号論入門」で訳者の谷口氏は巻末で苦心譚をこのように表現しておられる。

「抽象内容の連続−−挙げ句は“積分学”の出現−−もあって,訳者を大いに苦しめることとなった(後略)」
 東大の大学院卒業後に京大で博士課程とってローマ大に留学した言語学教授ですら、これだぞ。
谷口氏の名誉のために付言しておくと、何も訳者自身が微積分をしようとして苦しんだわけではない。記号論学者ザミャーチンが自作小説で書いたシャレ(!)の中の積分学(陰関数だ、不定積分だ、テーラー級数だ、マクローリン級数だ、エトセトラ、エトセトラ……)をクソマジメに取り上げたアンドリュースの論文を平易な文章に和文翻訳しようとして四苦八苦されているのである。
5か国語以上で飛び交う積分学を平易に「説明」するのは少々カタイかもしれないが、私に言わせると、谷口氏にとっては、まだ軽いハンデのはずである。

 ここで谷口氏の苦心譚「挙げ句」の直前のフレーズに着目してみよう。

抽象内容の連続
とある。高校時代に愛用(?)した私の数学参考書の微分・積分の項には設問解法の脇に、何回も何回もくどいほど出版社が注意書きをしてくれている。
グラフを描け
 具体的なイメージを描きながら整理したほうが、考えやすく・解きやすいからである。つまり、世に言う「微積分恐怖症」患者は、上記の「苦心譚」のように抽象的な把握に失敗して、「難しい」「難しい」と連呼した挙げ句、理解することを放棄したのではないか? また、柳田のように「理解できないのは勉強しないからだ」などと自らの怠慢も省みず突き放す「教師」が掃いて捨てるほどいるから、「難しい」のではないのか?

 私の通っていた予備校の講師(ということは御多分に漏れず某大学のセンセということである)は、すぐに「難しい」「わからない」と言う生徒に、こう一喝されたことがある。

「わからない」のではない。
「わかろうとしない」のだ!

 世の「微積分恐怖症」患者たちに(否・人の話を聞こうとしないカイシャ人間たちに)とくと聞かせたいセリフである。
 ちなみに、私の理解(しようとした)ところによると、「ロートマンの文化記号論入門」で用いられた微積分と適用例は、妥当かどうか議論の余地があると思う(極言すれば「妥当ではない」)。詳しく書くと私自身が記号論の学術論文を書かねばならぬハメになるので(今は)遠慮するが、もう少し別の所にこそ微分を(場合によっては積分も)使うことがあろうかと思うのである……ということを谷口氏には訳注に書いてほしかったなぁ……
 ということを三流の大学を出て三流の会社(IT関連)に勤めた数学的に27流の人間にも言えるのであるから、決して、微積分は難しくはないはずである ただ、面倒くさいだけである