演習の趣旨

 この演習は、毎年、「~と法」という表題で開講され、「新・有閑法学の試み(新書を読んで考える)」という総題が付されている。また、私は民法の教授なので、「民法」の演習として開講されている。そして当然ながら、これは「学部の演習」である。
 そこで、次の3点につきお話することを通じて、演習の趣旨を説明したい。「~と法」という「学部」のゼミが目指すもの(Ⅰ)、「試み」や「読んで考える」の意味するところ(Ⅱ)、「民法」との関係、「有閑法学」とは何か(Ⅲ)。なお、「新書」については、別に説明する。

Ⅰ「~と法」について

 ネット上のシラバスには、「私たちの世界における法の位置を測定する」と書いた。「法」というもの(システム・領分)が、他のもの(システム・領分)とどのような関係に立つのかを考えることを通じて、法に関する理解を深めようという趣旨である。
 アメリカでは'' Law ands ''と総称される研究、最も著名なのは、Law and Economicsだが、ほかにLaw and Society, Law and Litterature, Law and Psycology Law and Genderなど様々な研究がなされている。現行法の政治的な含意を暴き出すCritical Legal Studiesという学派も存在するが、それはいわばLaw and Politicsとして理解することもできる。これらはアメリカのロースクールで教えられているが、そうした授業を受講しないとしても、アメリカのロースクールは大学院段階に設けられているので、学部で経済学・社会学・文学・心理学…など他の学問を学んできた学生たちは、それらの学問に照らして法を考えるという思考様式を備えている。
翻って日本の法科大学院を見ると、そこでは必ずしも多数ではないものの、同様に他の学問を学んだ学生たちが学んでいる。彼ら(法学以外の学問を学ぶ日米の学生たち)と競っていくためには、日本の法学部生も法学の外部から法を観察することが必要である。しかし、その機会があまり多くはない。「~と法」は、学部演習という形でこうした学習の機会を提供しようというものである。

Ⅱ「読んで考える」「試み」について

 あるテーマについて、読んで考える、さらに、仲間と議論し、他者に向けて発信する。その際に必要なのは、imagintionとcommunicationであるが、それらを適切に行うためのスキルを磨くことが現代の知的エリートには求められている。大学の役割の一つは、そのスキルアップの機会を提供することにある。
 注意してほしいのは、これが「試み」であるということである。「コミュニケーションと法」について、私たちは何を語りうるのか。それはやってみなければわからない。現代における多くの問題と同様、ここには予め獲得されている正解は存在しない。少なくとも現在の私の手元に「解」があるわけではない。諸君とともに「解」を求める、それが現代における大学のあり方だと思う。実は、ネット上にシラバスを出したことを失念し、夏休み中に教務係りに再度シラバスを送ってしまったのだが(資料**)、その末尾に「何だかわからないけれど面白そう、と思う諸君の参加を歓迎する」と書き足したのは、以上のような考えによるものである。
 なお、私はこれまで学部では、消費者・家族・不法行為、民法学の歴史・方法論あるいは「日常生活と法」「社交と法」などに関するゼミを行ってきたが、どのゼミを既存の知識を伝えるのではなく、学生諸君とともに新たな知を求めるというスタンスで臨み、その時々の成果を公表してきた。だから、ゼミは私にとっては知的生産の場でもある。

Ⅲ「民法」「有閑法学」について

 この演習が民法演習であることを意外に思う人もいるだろう。しかし、日本民法がそれに連なるフランス法の伝統の中では〔もっとも、それは19世紀末に「創られた伝統」である〕、法学入門は「民法」の一部をなしている。というよりも、法はすべて「民法」から発しており、独立の法領域となったもの以外はすべて民法に属するのである〔ちなみに、民法上の「権利(日本では私権)」とは参政権以外のすべての権利を指す〕。
 20世紀を代表するフランスの民法学者にジャン・カルボニエ(Jean Carbonnier, 1910-2003)という人がいるが、彼の民法教科書の第1巻は「法学入門」である〔ほかの学者の教科書も同様〕。その目次(最新の27版。2002)を見ると、第1部「対象の概観」第1章「法」第1節「法現象」〔ちなみに、第2節は「法の科学」、第3節は「法の哲学」〕には、3つの項目、すなわち、「法規範」「判決」「社会的コンテクストの中の法現象」が含まれている。「法規範」「判決」が法を内部的に特徴づける二つの要素であることは理解可能であろうが、それに加えて「社会的なコンテクストの中の法現象」が語られていることが注目される。彼は次のように述べている。
 「法は社会の中に宙づりになって存在する。それは社会の中で他の社会現象と出会う。それらの中で法は、最も古いわけでも最も重要なわけでもないが、あるものとは近くあるものとは遠い。というのは、アナロジーが成り立ったり、競合や相互浸透の関係にあるからである。これらの関係は多様である。というのは、法は見る角度によって異なる面を示すからである。すなわちそれは、コミュニケーションという現象であり、レギュレーションという現象であり、文化という現象である。」
 要するに、カルボニエによれば、「コミュニケーション」「レギュレーション」「文化」と法の関係は法学入門のテーマであり、それは「民法」の課題なのである。
 他方、「有閑法学」は穂積重遠(1883-1951)という民法学者の著書のタイトルである。「非法律家を法律家に、法律家を非法律家に」というのが、彼の教育のモットーであったが、「有閑法学」は「法律家の頭をもみほぐす」ためのエッセイとして書かれた。法律家になるためには法的思考様式を習得することが必要なのは当然だが、よい法律家になるには、非法律家でありつづけることも必要であるということである。彼の法学は、必ずしも十分に方法化されてはいなかったが、社会に開かれ、文学・歴史を素材とし、教育と連携していた。「新・有閑法学」の試みは、日本民法学のこのような先駆的な試みを継承しようという意思を示す。