まとめに代えて

Ⅰ.ゼミでの議論の後で

1「カルチャー」「文化」「法」について

 法がカルチャーと密接な関係を持つことは、ある意味ではわかりやすい。民法・法社会学の川島武宜の『日本人の法意識』という有名な本があるが、これは基本的には文化的要因によって日本法の性質を説明しようとするものであった(その後、様々な反論がなされている)。このゼミを始めるにあたって私が参考にしたカルボニエの教科書(民法入門)には、フランス法そのもの文化的な特徴として、書証の重視、二分法の愛好、判決文の様式などが挙げられている。他方、文化一般における法に関しては、美術や文学における法の現れなどにも言及されている。フランス文学で言えばバルザック、英文学で言えばシェクスピアが典型例であろうが、日本文学ではたとえば浄瑠璃や歌舞伎などを挙げることができるかもしれない。
 カルチャーに「文化」という言葉を対応させるのではなく、「人文」という言葉を対応させている理由についても一言しておく。「文化」という言葉は「文明」という言葉との関係を考えさせるが、ある用語法によれば「文化」と「文明」とは対立する。しかし、このゼミでは、カルチャーに双方を含めて考えていきたい。それゆえ、カルチャーを「人文」という広い射程を持つ言葉に置き換えてみた。「人文」は、「人倫」や「文化」を指すこともあるが、より広く「人間(の営み)」を指している(天文・地文・人文)。「人文地理学(geographie humaine)」―地上で人間がどのような営みをしているか―というときのニュアンスである。文学部の「文」(lettres)も同じ文脈でとらえることができるだろう。

2 サブ・テーマの分類

 ゼミのサブ・テーマとしては、結局、①「文化一般」のほかに、次の11テーマが選ばれた。②「イスラーム」、③「先住民族・少数民族」、④「東アジア圏」、⑤「皇国としての日本」、⑥「アウトロー」、⑦「都と鄙」、⑧「相撲・歌舞伎・歌劇」、⑨「冠婚葬祭」、⑩「働き方」、⑪「国技としてのスポーツ」、⑫「食べる・飲む」。
 これらのテーマは、一方で、「異文化」と見られるものとの関係(A-1群:②イスラーム、③先住民族)からスタートして、「単一」と見られるものの再検討(A-2群:④東アジア、⑤皇国日本)を経て、一つの国や社会の中での差異(A-3群:⑥アウトロー、⑦都鄙)へと至り、他方、「伝統文化」と思われるものの変遷(B-1群:⑧芸能、⑨冠婚葬祭)と国や社会によって差があると思われるもの(B-2群:⑩働き方、⑪スポーツ、⑫飲食)とが対比される、という形で配列されていた。

3 カルチャーとは何か

 「カルチャー」とは何か、それはどのような働きを持っているのか。この点につき、当初想定していたのは、α:普遍性と多様性、人為性と自然性をめぐる議論、β:法のカルチャー(法の中にある文化)、カルチャーとしての法(文化の中にある法)に関する指摘、γ:日本法の文化的背景に関する検討などがなされるのではないか、ということであった。
 A-1群からA-3群へと移るに従い、αのうちでは「普遍性と多様性」から「人為性と自然性」へと関心がシフトするのではないか、B-1群・B-2群では、むしろ「人為性と自然性」の方に関心が集まるのではないか。また、γはテーマによっては意見が出るだろうが、(それに適したテーマ設定ができていないため)βの「法のカルチャー」「カルチャーとしての法」を考えるのは難しい、と予想していた。

Ⅱ ゼミでの議論をふまえて

1(共通課題本から出発した)コメントⅠは、十分に機能したか

 コメントⅠをめぐる議論は様々な問題に及んだが、認識の側のスタンスにかかわる話題と、対象の側の特性やこれに対する実践的な姿勢にかかわる話題に大別できる。両者の関係をどうとらえるかという問題は(時に意識されてはいたものの)必ずしも十分には論じられなかったかもしれないが、議論を通じて一定程度の問題空間が形成されたように思う。
 ①文化一般では、普遍か特殊かという評価自体が相対的なものであるが、「文化」はより普遍的なものとの対比で特殊なものを位置づけるのに用いられる関係的な概念であることが指摘された。②イスラームでは、「異文化」が一様のものとして構成されているのではないかという問題が提起された。④東アジアでは、ヨーロッパの状況とも対比しつつ、歴史認識・歴史教育が議論された。⑤皇国日本では、日本史を通じて天皇との関係で日本を特徴づけることが可能かに関心が集まった。⑦都鄙では、共同体のモデルとしての「田舎」が語られ、これに何を求めるのか、「都会」における共同体の可能性が問われた。
 ②イスラームでは、異なるものを理解し、尊重することが必要かという問いも立てられたが、これとの関連で、③先住民族で、先住民族・少数民族の特徴が薄れ、メジャーな文化に融解していくことを衰退とみるべきなのか、変容と見るべきなのかが論じられた。⑫飲食でも、伝統・慣習・しきたりの衰退が話題になった。⑥アウトローでは、社会から外れたアウトロー、社会に反抗するアウトローという対比がされたが、排除と反逆との関係が問われるだろう。⑧芸能では、伝統芸能の国際化・産業化、保存と革新のバランスが論じられた。⑨冠婚葬祭では、宗教と儀礼(ビジネス)の関係が話題になった。⑩働き方では、終身雇用と成果制とが比較対照された。⑪スポーツでは、スポーツの国際化の条件やナショナリズムとの関係が議論された。

2(法との関係に関する)コメントⅡにつき、何が論じられたか

 文化と法の関係は、サブ・テーマとの関係で現れる個別問題に即した形で議論されることが多かった。もっとも、その際の論点は、差異・普遍、継続・可変にかかわるもの、国家法との関係にかんするもの、「法意識」に関するもの、そして、法・法学の性質にかかわるものに分けられる。
 まず、③先住民族では、マイノリティに対する法的保護の問題が論じられた。④東アジアでは、EU法と対比しつつ、東アジア共通法の可能性が問われた。これらは、差異性を重視するか普遍性を重視するかという対立とかかわる。⑤皇国日本では、皇位継承問題が話題になったが、伝統の保持・変容をめぐって議論は展開した。⑥アウトローでは、近代的な法規範と伝統的な習俗(義理人情)との関係が、日本に限らない形で話題になった。これらは対象の継続性・可変性のどちらを重視するかにかかわる。
次に、⑥アウトローでは、国家の管理・責任や国家法の射程に関する議論もあった。⑦都鄙では、地域振興に関する問題が取り上げられたが、共同体の内か外かで受け止め方が違うという話が出た。⑫飲食では、特定の個人がルールに対して感じる不合理は、共同体における多数派と少数派のギャップに由来するという指摘もされた。⑧芸能では、文化芸術振興政策が受け手・担い手の観点、官民の観点から検討された。⑪スポーツでは、スポーツの公共性の有無、職業選択・コマーシャリズムとの関係が論じられた。
 さらに、①文化一般では、生命倫理と死生観の関係について、⑨冠婚葬祭では、同性婚や戸籍制度と家族観の関係についての議論もあった。
 そして、①文化一般では、法文化には変化しやすい部分とそうでない部分があることが指摘された。⑨冠婚葬祭では、社会学の学問性から出発して法学の学問性が話題になった。⑪スポーツでは、「基本法」という法のあり方なども指摘された。

3 補講で読んだウィリー『ハマータウンの野郎ども』第7章について

 今回の課題本・参考本の中には、この本と直接に共鳴しあうものは少なかった。私自身は、最近読んだヒース=ポター『反逆の神話―カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(NTT出版、2014)が、ある「文化」がもたらした影響の逆説性を指摘する点において、「ハタータウン」の延長線上にあるように感じられた。ある意味では、法学部生を励ます内容でもあるので、関心がある人は読んでみるとよい。より専門性の高いものとして、ヒース『ルールに従う』(NTT出版、2012)もある。

4 再び、カルチャーとは何かについて

 カルチャーという語が指し示すものにはいくつの層があるというのは、最初にも述べたことであった。このゼミを通じて、自己と社会を関連づけるというカルチャーの個人的な側面、自己の帰属する集団と他の集団を区別するというカルチャーの集団的な側面についての理解は、そのプラス・マイナスの両面につき、ある程度まで進んだ。ただ、選ばれた本の偏りにもよるのだが、自然性と人為性に関する検討は必ずしも十分ではなかった。もちろん、文化の人為性に関心が向けられなかったわけではないが、その場合の「人為」は否定的な評価を導きがちであった。あわせて、人間が人為的な環境を構築しているこのとの積極面に注意を向けることも必要だったように思う。この点は、前述のヒースの諸著作が目指す方向とも重なり合う点である。

Ⅲ むすびに代えて

 3年間続いた、通称「新書ゼミ」「読書会ゼミ」で目指したのは、次のようなことであった。はたしてこれがどの程度まで実現されたのか。これは参加者の評価を待たざるをえない。
* * *
  ①法を外から見る(法の位置づけ)
  ②法から出発して学ぶ(法学の中での「教養」)
  ③現代の問題を意識する(社会的な関心の拡張)
  ④自分たちで考える(共同の学習・未知の連関)
  ⑤教養=読書=知識人=大学=学生を見直す(「士大夫」「読書人」「書生」の再定義)
  ⑥新書・文庫というメディアを意識する(大衆社会・大学開放との関連)
  ⑦ホームページを構築する(外部との連携・知の社会化)

 また、ゼミの議論がうまく進んだか、少なくとも参加者にとって有益であったか、という点についても、各人の評価に委ねる。ただ、3年次にわたった「読書会」は、以下に指摘されているような陥穽に陥ることがなかったのは、幸いなことであった。
* * *
 「よくあの人は批判能力に勝れているといいますけれども、つまらない面、―あそこは間違っているとか、下らないとかいった消極的な面を発見する能力を指していう場合が多いようです。これももちろん批判ですが、私はこれを低級の批判力と名づけています。本当の批判力とは、俗眼に見えない宝を―未だ宝と見られていない宝を、宝として―発見する能力です。ポジティヴにものを見る眼ですね。」 (内田義彦『読書と社会科学』岩波新書、1985、74頁)

 「アメリカでは、批判の鋭さを優秀さの証と見立て、参加者がまるで競い合うかのように議論する。それに比べ、セミナーでの質疑は、そこでのテーマのおもしろさをいかに引き出し展開するかを参加者が(暗黙の内に)共同で見つけ出していく過程のように見えるのである。競争の雰囲気は薄い。さまざまな知識を踏まえ、いろいろな角度からやんわりとした発言を通じて、テーマが展開していく。そこに論じることのおもしろさを見出そうとするのだ。物足りなさと見えたのは、奥ゆかしさのゆえであった。」 (苅谷剛彦『イギリスの大学・ニッポンの大学』中公新書ラクレ、2012、91-92頁)