食べる・飲む

報告者:橋本・藤岡

課題図書

①『茶の世界史』. 角山栄. ②『茶の文化史』. 村井康彦. ③『バーのある人生』. 枝川公一. ④『カフェ ユニークな文化の場所』. 渡辺淳. ⑤『蕎麦屋のしきたり』. 藤村和夫

課題図書の紹介

①『茶の世界史』. 角山栄. 序:★★破:★★★急:★
①角山栄(つのやま さかえ)氏は経済学者。1978年に開催された民俗学および文化人類学の共同研究「茶の文化に関する総合的研究」において、西洋経済史の分野から研究を担当した。本書はその際、「茶の文化に関するシンポジウム」で発表された研究成果をまとめたものである。
 第一部では「文化」という切り口で欧州における茶の定着を語っている。ヨーロッパ人は日本の茶の文化に衝撃を受けたことを契機に茶の輸入を始め、オランダで飲茶の風習が始まった。しかし国民に広く受容される前にオランダが凋落する。オランダと異なりイギリスでは紅茶が広く定着した。はじめ「くすり」として売られていた茶が、やがて飲料として宮廷や上流階級に親しまれるようになった背景には、イギリスにおいて飲料の種類が乏しかったこと、代用茶の基盤があった。茶に対する反対運動も生まれたがやがてそれは影をひそめるようになった。茶が定着する前はコーヒーとココアが飲まれていたが、いずれも供給確保の国際競争に敗れて中国茶を貿易の力点にせざるを得なかったことも、イギリスにおける茶の定着を手伝ったのだろう。イギリスで独自の紅茶文化が花開いた(=「光」)一方で、中国やインドなどの国がイギリスを中枢とする世界資本主義体制に犠牲を伴う形で組み込まれていった(=「影」)。
 第二部では商品としての茶の歴史を見る。開港した日本は世界市場に組み込まれ、日本緑茶や日本紅茶が主要輸出品目になるもやがて国際競争に敗れ脱落していく。19世紀後半に世界市場が情報化したあとは、日本茶業は海外情報の収集を領事報告に依存し、結局世界の商況に疎いままであったので直輸出は軌道にのらなかった。日本茶業は最後までインド・セイロン紅茶との競争に勝てず、商品としての茶はやがて衰退していく。
 アジアを視点の中心に据えて茶をめぐる国際社会の変動を描いた点は面白い。一方で第二部の最終節は浮いた印象で終わり方に気持ち悪さを感じた。(エピローグで持ち直してはいるが。)また日本茶が緑茶なのか紅茶なのか、ただ日本「産」を意味するのかわかりにくかったり、各節の見出しが適切でなかったりと、いささか不親切なところもみられた。
①現在「茶」を意味する語は「チャ」系と「ティ」系に大別される。それは,広東語由来の「CH’A」と,福建語由来の「TAY」の違いに由来するものだと著者はいう。広東から伝播した茶は,陸路に従って北は北京・日本・朝鮮・モンゴル・ロシア,南はチベット・インド,そこから西の中近東・トルコ・北欧東部へ伝来し,その地域では「チャ」の発音を持つ語が使用されている。他方,福建から伝来する茶は,海路により直接ポルトガルへともたらされ,そこから欧州全域・アメリカへ伝来し,その地域では「ティ」の発音を持つ語が使用されている。ここで面白いのは,トルコやアラビア地域では茶飲料が「チャイ(チャ+ティ)」と呼ばれているが,この地域がまさに双方の系譜の中間地点に存在していること。

②『茶の文化史』. 村井康彦.序:★破:★★急:★
 視点の中心を日本におき、日本独特の文化である「茶の湯(≒茶道)」の成立やその特質について説明する一冊。どのような茶の種類や飲み方が日本に流入し、どのように普及・発展してきたのかというところから、茶会の内容や会場となる場・道具にまで、幅広く触れられている。
 茶道について知ろうというつもりで読むと変なところでやけに詳しいと感じて辛くなるかもしれないため、茶道に関わる日本の文化史だと思って読むといいだろう。興味のないところは思い切って一気に飛ばしながら一通り読み、一部内容を覚えておくと、いつか外国人の知り合いに説明してかっこつけられるかもしれない。

③『バーのある人生』. 枝川公一.序:★破:★急:★
 著者は下町や酒場に関するルポルタージュを多数記したノンフィクション作家である。本書はまず日本におけるバーの歴史を紐解き、客が入店するまでのドキドキ感にも触れながら、照明やインテリアといった「空間」について述べる。いよいよ入店すると今度はバーテンダーについての説明。そして代表的なカクテルについて、筆者の経験談とセットで紹介される。最後に客の作法の指南と、「こんなバーは良い/嫌だ」というバーテンダーの作法(?)が述べられる。
 具体的なエピソードを織り交ぜながら書かれているため、読み手がバーへ入店し、ひとときを過ごす、その情景をイメージしながら読めるのが魅力(NHKテレビ番組「世界ふれあい街歩き」といったところ)。「これぞバー、て所は敷居が高くてちょっと…」という若僧は背中を押されたような気分になるのではなかろうか。

④『カフェ ユニークな文化の場所』. 渡辺淳 序:★破:★★★急:★★
 「カフェのガルソンは,邪魔にならないように姿を消すのと同様に,いたるところにいなければならぬ」とは本書の一節だが,カフェもまた,その存在感を消しながらも存在を常に主張し続けねばならぬ存在であった。本書は,珈琲のパリ食文化への参入を濫觴に,カフェという場所が成立してから今日に至るまでの文化史を具体的なカフェ名と共に概観しており,通読すると,初めは貴族の社交場として普及したカフェが,19世紀にかけて庶民に広がり,芸術や文芸の語り場として20世紀の狂騒の時代や戦間期を経て,1960年代以降には衰退していった様子が情感を持って立ち現れてくる。その中で興味深いのは,カフェの主役はあくまでその中で行われる議論や会話であって,珈琲やカフェ自体は徹底して「場」であり続けたということだ。有名・無名に拘らず,時代の先端を牽引せんとする者が集い激論を交わす場所として,戦略的にモラトリアムの受け皿となったカフェにこそ,パリ人の「心意気」が見て取れる。惜しむらくは,本人がまさにパリで過ごしていた60年代のカフェ転換期というものが何故起こったかについての考察が存在しない。尤も,それに踏み込むことは評価を排し事実に沿って記述してきた本書の方針に背離することもなるだろう。

⑤『蕎麦屋のしきたり』. 藤村和夫. 序:★★★破:★★急:★
 蕎麦通といえば言わずと知れた文豪・池波正太郎であるが,もし彼に同じタイトルで本を書いてもらうとすれば,その一頁目の見出しは「蕎麦前なくして蕎麦屋なし」であっただろうか。尤も,彼が愛した蕎麦屋はどちらかというと藪御三家や室町砂場の系統であり,本書の著者藤村和夫はその藪・砂場と並ぶ江戸蕎麦の御三家の一,更科の暖簾分けである「有楽町更科」の四代目である。自分の知っている話と祖父母の見聞きした話とを合わせると人間150年分の歴史を遡ることができる,と語る著者によれば,前述の三蕎麦屋は相手にする客層を変えることによって競合を避けてきた。曰く,藪は「通りすがりの客」を,砂場は「街中の店への出前」を,更科は「町のヒマ人や遠い武家屋敷への出前」を主眼に置いているらしい。おやどの商いをする藪では,客がささっと手繰り込んでいくために,口当たりの良い細打ちの麺になっており,それに合うように汁(つゆ)も濃く,辛いものを蕎麦の先にちょっとつける食べ方がなされた。他方出前蕎麦は,伸びたり切れたりしないように小麦粉の割合を多くした太麺で,薄めの味の汁(つゆ)が付いてくるといい,更科はおやども出前もやるために二通りの蕎麦を打っているという。男が「死ぬ前に,一度でいいからつゆをたっぷりとつけて蕎麦を食べたかった」と言って事切れるという有名な枕が落語にあるが,この男はいつも藪そばを手繰っていたのだろう。


コメントⅠ

5冊の内容は大きく、茶・バー・カフェの文化の成立過程(①茶の世界史・②茶の文化史の前半・③バーのある人生の前半 ④カフェ ユニークな文化の場所 )と、作法やしきたり(②後半、③後半、⑤)にわかれる。後者はさらに、伝統として確立した作法に関する説明(②)と、本のテーマに関して造詣が深い筆者が考える「こうあるべき」の主張(③⑤)とに分類できる。
 「伝統」「しきたり」「慣習」「大多数の好み」…これらの境界ははっきりしないものであるし、また時代や人によって変化しつづけているだろう。最近はこれらが人々に与える影響がどんどん薄れているように思われる。例えば、お茶屋といえば「一見さんお断り」であって、どんなにお金を詰んでも紹介が無ければ舞妓には会えないものであった。「一見さんお断り」を破ったお茶屋は村八分のような状態になったという話もある。しかし現在はビアガーデンに舞妓さんが出向いてお酌をしている。また、もともとゲイバーはノンケ(=異性を恋愛対象とする人)入店不可だった。このルールは、ゲイバーがセクシュアルマイノリティの人が自分らしく居られる世界であり、その性質を守るために設けられていたのであろう。今は「観光バー」という分類で、ノンケでも入店可能になっているところが増えている。このような変化は好ましいものであるのか否か、場合によって異なるならその違いはどこで生まれるのか、みなさんの意見を伺いたい。

 

コメントⅡ

「食べる・飲む」に関わる法律といえば,まずは食品衛生法や風俗営業法を思い浮かべることができるであろう。尤も,これらは風紀や衛生を保つために国家が必要最低限度の介入をしているだけであり,言わばパターナリズムに基づく制約にすぎない。最低限の法に抵触しない限り広範な自由が認められているという点で,飲食にまつわる文化は,ボトム・ラインが定められただけの広い領域で発達してきたものであると言える。
 しかしながら,飲食文化の中には,自由な領域の中で自ら慣習や伝統により「規範」を作り上げて規律している事例が多い(③⑤における「しきたり」「作法」など)。例えばテーブル・マナーやドレスコードといったようなしきたりは,その特定の飲食文化の中では全員が従うべきものとしてある種間主観的に成り立っているが,それらはもはやその場における「法」と呼んで差し支えないだろう。なぜそのような「法」が醸成されていくのだろうか。規律という存在が食べる/飲むという行為を良く,または悪くしているのだろうか。そもそもどのような事例があるのかということから出発すると,それが見えてくるのではないだろうか。

ディスカッションの概要

コメントⅠ
 「伝統」「しきたり」「慣習」「大多数の好み」…といったものが最近は人々に与える影響がどんどん薄れているように思われることについて、①まずレジュメ以外の例を挙げてもらい、次に②次にこの変化が好ましいことであるのか否か、場合によって異なるならその違いはどこで生まれるのか、意見を募った。

 寿司:
① 回転寿司が増加
② (レジュメの舞妓の例も併せて)ターゲットにする客層が違うため、高級・伝統的なところに行く層は“けしからん店”を気にしないのではないか、上記の例は新次元、新規参入と捉えると慣習が薄れているわけではないのでは。

 服のブランド:
① 高級ブランドのセカンドライン
② 善し悪しの判断は別として生存戦略としては有効である。

 居酒屋:
① 以前は店長の意向で女性入店不可だったが今は解かれたところがある。また「学生のみお断り」「ドリンクだけの利用不可」といった決まりのあるところもある。
② お店の哲学は客にとって魅力になる。また、ルールによって客が限定されると、客としても会いたくないお客さんに会わずに済むというメリットがある。人によってはルールの緩和を歓迎しないかもしれない。

コメントⅡ
①飲食において「法」と呼びうるような規律がなぜ醸成されていくのだろうか。②規律という存在が食べる/飲むという行為を良く,または悪くしているのだろうか。そもそもどのような事例があるのかというところから考えた。ディスカッションでは次第に③どういう場合に良い・悪いという判断が生まれるのかという話に移った。

①なぜ法がうまれるのか?
・根源は人に対しての礼節である。(具体的な経験は礼法の授業や茶道部での活動)
・歴史をつきつめれば理由があるが形式だけが残っているものもある。(テーブルマナー)

②規律は食べる/飲むという行為を良く,または悪くしているのだろうか。
<好ましい面>
・焼酎は3杯までという独自のルールは、酔いすぎて粗相をすることがないようにというある意味合理的な面があるのだろう。
<好ましくない面>
・聞いても教えてくれないのにあとから行儀が悪かったと言われるのは腹立たしい。
・意味のわからないしきたりは面倒だ。例えばフォークの背にご飯を載せるという意味のないテーブルマナーは不合理だから不要。
・根拠が何かわからない同調圧力は不快だ。
・規範の醸成する仲間意識が敷居になっているのはよくない。

③どうして肯定的または否定的な感情が生まれるのか
・ルールを空気感の再生産と捉えれば、それを消費しづらいときに邪魔に思われるのだろう。
・規範が外在化されたものという前提が感じられるが、内在化されているものもある。外在化された規範には反抗的な態度をとるが、内在化されていると受容するのではないだろうか。例えば漫画もコマを追う順番は決まっている。他に、魚の絵をかくとき小さい子は自由だが、次第に皆横向きに書くようになる。
・お店のルールは決定者がひとりで、聞けば教えてもらえるからいいが、テーブルマナーや茶会の作法は(法の恩恵を受ける人が)不特定多数である。顔の見えない人たちにまで僕のジェントルを届けなきゃいけないのはいやだ!
・「僕が幸せである」ことと「社会が幸せである」こととの間に溝があると不快感がある。自分は自分だけが幸せになるために頑張っている。その先に社会の幸せを考えることがある。(=僕のジェントル?)

<発表者より>
 個を大切にするためのルールと、全体を大切にするためのルールの2種類がある。しきたりに意味がないわけではなくて、個にとっても全体にとっても良い意味があるからやっているのがほとんど。しかし、多数派が考える「個を考えたときにいいこと」が「全体のためにいいこと」として法が成立してきた。思考停止に陥っているから権威主義的になって非合理的なルールに従う場面もあるのだろう。

<先生のコメント>
 ①かつては合理性があったけれども今は合理性のないものが無批判に従われている。テーブルマナーには形式だけ残っているなどと否定的発言が多かったが、例えばグラスを右、パンを左に置く、というルールを共有していないとどれが自分のものかすぐにはわからないということもある。ある意味では情報処理が縮減されているといえる。交通ルールも同様である。一方、合理性とは関係ない目的をもってあえて設定されるルールもある。例えば競馬を上品な文化にするため、競馬場でビッグレースをするときはネクタイをしていこうという呼びかけがある。
 ②漫画について、本来はどういう順番でコマを追うのか先天的にはわからない。外国の漫画はコマの順番が指図されていることがある。読む順番が共有されていないからである。当然の前提を共有していない人たちの間ではルールの明文化に向かう。
③伝統の薄れについて、回転寿司とまわらない寿司の質が違うと分かっていればよいが、質の低い方が高い方にフリーライドするのは、高い方からすれば不正競争の問題になりかねない。レジュメにあるビアガーデンの舞妓についても、舞妓もどきの場合は舞妓と名乗れないようにした方がいいのか、客側がお茶屋の舞妓と区別できているから問題ないのかということは名称使用の規制につながる。
④伝統の醸成は恣意的な場合もある。民法については遡るとローマ法にいきつくが、はたしてローマ法が一番偉いのか。フランス民法典ができて近代の出発と称されることになるが、それも当然に伝統の出発点になるわけではなく、人々がそう認めるような策略が講じられた。法の世界も伝統の起点は動いていく
⑤飲食に関する法の規制として主食の価格を挙げる。主食について供給を確保する、価格を規制する、というのは深刻な問題なのではないだろうか。ヨーロッパではパンの値段を安く設定されるよう規制がかかっているところがある、パン屋は物乞いにパンをあげなければならないという慣行がまだ残っているところもある。