相撲・歌舞伎・歌劇

報告者:山口・中原

課題図書

①大山眞人『昭和大相撲騒動記』
②十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』
③岡田暁生『オペラの運命』
④嶺 隆『帝国劇場開幕「今日は帝劇 明日は三越」』
⑤玉岡かおる『タカラジェンヌの太平洋戦争記』

課題図書の紹介

①大山眞人『昭和大相撲騒動記』序:★★破:★★★急:★★
 ①本書では、筆者が「相撲道改革」の原点であるととらえる春秋園事件とその前後の改革への取り組みについて述べている。一力士であった天龍を首謀者として、6年間弱続いた春秋園事件では、力士の待遇が良くなったのみで、相撲協会の抜本的な改革にはならなった。その後、自身の連勝記録とカリスマ性で理事長としての立場から時津風親方が改革を進めたものの、国会での問題提起があったにも関わらず、親方株制度と茶屋制度は依然として残っている。この点で「相撲道改革」は中途であるといえる。
 筆者はノンフィクション作家であり、相撲は一ファンとして掘り下げて本書を書いたようである。そんな筆者の問題意識は相撲人気の復活にあり、近年相撲道改革案を公表した貴乃花に期待を寄せている。本書はそのための学びといった視点から書かれているが、そう考えると少し冗長な感が否めない。他方で、時代背景との関連づけや、ラジオ・テレビなどの技術の進歩による相撲自体の変化、また親方・兄弟弟子の関係などに適宜触れているため、背景をよく理解できるように丁寧に書かれているとも感じた。
 個人的には近年の相撲人気の低下の他、「国際技」ともいわれる力士の多国籍化も重要な変化であると感じた。
 ①貴乃花親方の「相撲道改革論」を契機に、相撲道改革の本質に迫るため、その原点となる昭和7年の春秋園事件の正確な検証を試みた一冊である、と筆者は述べる。まず春秋園事件以前の相撲界の状況や、力士の反抗について、明治44年の新橋倶楽部籠城事件、大正12年の三河島事件が取り上げらるが、力士の待遇が悪く、協会は改革を履行しなかった歴史がうかがえる。
 そして昭和7年から12年まで、現役力士の天龍が幕内力士を大勢引き連れて協会を離れ、相撲道改革を目指した春秋園事件。10項目の改革要求の中で、協会の会計制度の明朗化、茶屋の撤廃、養老金制度の確立、力士の生活安定、が重要な内容であったとする。この後、天龍たちが組織した振興力士団は独自の興行を模索しながら行いつつ、昭和12年に解散する。結局、養老金など力士の待遇改善がなされたものの、茶屋制度の撤廃や年寄制度の廃止(つまり親方株の問題)、会計制度の明朗化は改革されずに残る。
 この後の改革は、協会の理事長によって担われるようになる。時津風、武蔵川、春日野、二子山、境川理事長らが、緩急はあるものの対戦制度の変更など細かな、相撲制度の改革を行ったことがわかる。しかし親方株問題、茶屋撤廃問題は協会の守旧派の強い抵抗が存在し、改革は実行されていない。
 本書の「おわりに」では、突然、筆者の興奮して上気した顔の表情や鼻息の粗さが伝ってくる。相撲界だけが別世界に安住するわけにはいかないだろうと述べ、その意味で貴乃花親方の「相撲道改革論」を、自然な成り行きの中で起きた「提言」だ、として擁護する。「相撲界の人気を盛り上げる方法はすべて相撲道改革と呼んでもいい」という言葉が、おそらく筆者の一番強い思いであろう。冒頭で述べられた「相撲道改革の本質」が、相撲人気の復活という筆者の問題意識に集約されるのだろうか。

②十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』序:★★破:★★急:★
 昨年亡くなった12代目市川團十郎さんの講義録をもとに一冊の本としてまとめた、歌舞伎あれこれを解説する本である。歌舞伎になぞらえて幕として章だてされており、第一幕では、歴代の團十郎を追いながら、庶民の芸能であった歌舞伎が社会状況や庶民の施行に合わせてどのように現在の形になったかをくわしく書いている。第二幕は、神楽、田楽や上流階級の芸能であった能・狂言などと歌舞伎との関係や、阿国歌舞伎からの変遷、外国の演劇や踊りとの比較など、様々な面から歌舞伎をとらえている。第三幕では歌舞伎の有名な演目について裏話とともに説明をしている。
筆者は世界の文化が一つの方向へ進んでいるように感じていると本書の中で触れており、歌舞伎を世界で上演していきつつ、日本の芸能独自の感性を大事にしようという考えが特に印象に残った。
 全体として、歴代の團十郎への尊敬からか評価が主観的になっているように感じられたが、歌舞伎をやさしい語り口で解説しており、歌舞伎初心者には親しみやすい本であると思う。

③岡田暁生『オペラの運命』序:★★破:★★★急:★★
 この本の中で筆者は、フランス革命から第一次世界大戦までの一世紀強をオペラの黄金期として、その前後を含めたオペラの歴史を解説している。
 オペラが誕生したバロック時代(絶対王政期)には、オペラは王侯貴族を中心とした祝典的なものであった。その後貴族が没落し、市民階級が台頭してくるとオペラの内容も庶民的に変化する。また、フランス革命以降国家意識が芽生えると、国民オペラや、異国オペラなど国民性を高めるためのオペラや、異国性を消費するオペラが生まれる。このようなオペラの内実の変化・客層の変化にともなって、一つの社交の場としてのオペラが、芸術性を高めてくることになる。他方、オペラはバロック時代を彷彿とさせるような装飾性と豪華絢爛さを維持してきたと筆者は言う。その後第一次世界大戦後の娯楽の多様化により前衛的になりつつも斜陽化する。  このように一つの芸術としてのオペラは‘らしさ’を残しつつも時代の要請に応じて変化を迫られてきた。筆者は今のオペラ、これからのオペラがどのような立場の芸術であるかについて疑問を投げかけている。

④嶺 隆『帝国劇場開幕「今日は帝劇 明日は三越」』 序:★★破:★★急:★★
  筆者は毎日新聞学芸部編集委員(1996年当時)。本書は新国立劇場ができる前年に書かれている。新国立劇場はオペラ、バレエ、ダンス、演劇など現代舞台芸術のための唯一の国立劇場である。それに対して、帝国劇場は各国貴賓をもてなす外交上の大切な役割をも担ったが、国ではなく民間の手によって設立、運営されている。その帝国劇場誕生前から、関東大震災で炎上するまでの期間における、劇界をめぐる状況や帝劇に関わった人物についての具体的で細かい記述が並ぶ。筆者はこの期間を、帝劇が最も帝劇らしい役割を果たし期間としてとらえている。
引用文献138冊をもちいて、明治大正期の帝劇史を細かなパッチワークのようにつないでおり、帝劇の「周辺網の目史」という印象である。
帝劇設立の中心となった政財界の要人たちが、洋行体験の中で帝室劇場に多大な影響を受けてきたことや、帝室劇場の構想ができつつも結局民間で作られた経緯、三越の広告から見る時代の雰囲気、また劇界人を排して作られた新しい観劇制度の中で、歌舞伎や新劇、女優劇、オペラなどが繰り広げられた様などが、情報量多く並べられた構成になっている。
帝劇をめぐる細かなエピソードから、日本の現代舞台芸術の始まりが見える。

⑤玉岡かおる『タカラジェンヌの太平洋戦争記』序:★★★破:★★急:★★
太平洋戦争中の宝塚歌劇について、当時のタカラジェンヌや女学生ファン、少年ファンへのインタビューと、雑誌や脚本集などの資料を用いて描いている。具体的なエピソードがユーモラスで読みやすい1冊である。
筆者自身が幼いころからの宝塚ファンであり、世代を超えて愛され続けてきた宝塚の、もっとも苦しい時期について掘り起こすことに意義を見出している。 阪急電鉄によるレジャー施設開発の一環として誕生した宝塚歌劇は、戦争中も1944年まで大劇場での公演を続けており、多くの観客が夢を求めて劇場に足を運んでいたことがわかる。
戦争中に数多く制作・上演された国策映画、国策歌劇について筆者は、その内容を説明したうえで、宝塚が率先して戦争を美化し、殺し合いを奨励したようなことはなく、戦争責任がないことは誰の目にも明らかだ、と主張する。


コメントⅠ

〈山口〉 今回の課題本5冊を一言でまとめると芸能であるだろう。相撲はふつうスポーツとして捉えられるが、ここでは見世物としての側面にクローズアップしたい。
5冊を分けて考えると、①・②・③・⑤はそれぞれの芸術の成り立ち、歴史と社会との関係を、④の『帝国劇場開幕』は帝国劇場を中心とした総合的な日本の近代の芸能の変化をまとめている。
他方、5冊すべての共通点としてはそれぞれが社会の変化や視線を踏まえて、内部からの改革をしたり、変化を強いられたりしている過程が記されている。また、それぞれ海外進出や海外からの受容などに触れ一国内ではとどまらないことを示唆する。
相撲では外国籍の力士が増加し、宝塚・歌舞伎も海外進出しているがどれも日本固有のものという傾向が強い。一方でオペラは世界中に受容され、「カワイイ文化」やアニメなど現代日本のポップカルチャーは世界的に広がっている。これらの違いはどこにあるのだろうか。また、多面的な日本理解を広げるために、興業芸術が役立つとすれば、どのような方策が必要になるだろうか。(山口)
 今回の課題本は、①相撲②歌舞伎③オペラ④帝国劇場⑤宝塚というラインナップであった。まずはこの中での、相撲の位置づけについて、議論することもできそうである。しかしながら、相撲では観客の存在が非常に重要であって、また観戦方法が観劇に近いと考えることもできるため、相撲も興行芸能として捉えたい。
 ②③⑤では、現在ではそれぞれ独自の型を確立しているように見える歌舞伎・オペラ・宝塚も、実は社会の変化に応じた変化や改革を経てきたことが記されている。そのジャンルが生まれてからしばらくは模索がなされ、そしてある時から次第に、培ってきたものの保存へと向かっていく。④の帝国劇場では、日本の近代芸能の模索過程が描かれていた。
 しかしながら、保存する動きの一方で、オペラの現代演出やスーパー歌舞伎など、現代人に受け入れられやすくする改革もなされている。興行芸術が今後も持続的に栄えるには、保存と改革のバランスをどのようにとっていくべきなのだろうか。また、各ジャンルのファン層はある程度固定化され、閉鎖的とさえ言えるかもしれないが、新しい層を取り込む工夫は必要か、それとも不必要なのだろうか。
 また、芸術においても国際化が進む中で日本固有の芸術が残っていくためには、どのような条件が必要なのだろうか。(中原)

 

コメントⅡ

近年力士の労働者性が裁判で話題になった。労働者性は芸術より野球などのスポーツの場面で語られることが多いが、芸術家にしても労働者性をはじめ、一般的な社会的地位の問題が存在すると思う。5冊の中で特に④の本の中では、演劇(歌舞伎・新劇等)の俳優の社会的地位が低かったことが大きく取り上げられていた。また、①の力士についても待遇の改善が大きな課題とされていた。
 現在では伝統的な芸能や工芸品などの後継者不足が深刻になっているが、現代の社会で、それらの担い手の社会的な地位の低さや、保障の手薄さがそうした問題の一因となっているように感じる。このような環境で伝統芸能が残るためにはどのような制度が必要か。それとも必要ないのであろうか。(山口)
国家が、芸能を含めた文化芸術の保護や支援のために支出することについて考えてみたい。文化芸術振興基本法では、「文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利である」(2条3項)と明記され、芸術の振興のために公演や展示などへの支援を行うことや、芸術家の養成や教育機関の整備なども国の責務とされている。
ここで、そもそも文化芸術を創造し、享受することは生まれながらの権利なのだろうか。そして、権利であるとすれば、何に基づいているのだろう。(憲法25条、同21条、同13条が思い浮かぶが、議論してみたい。)
 また、補助金の不正受給も問題となったが、国による文化支援の意義について検討したい。ちなみに日本の文化庁予算と民間からの芸術に対する寄付は、米英仏独韓などの諸外国に比べて低い水準にある。(中原)

ディスカッションの概要

■はじめに
 相撲•歌舞伎•歌劇•帝国劇場•宝塚というテーマを一つにまとめ「芸能」と定義する。

■前半(Ⅰ)
○芸能の国際化について(国際的に受容されている日本のアニメとの対比で考察)
 アニメは、インターネットを通じた発信や、豊富な翻訳版の存在といった外形的な有利さを持つのに対して、歌舞伎などの芸能は劇場に足を運ばなければ観られない、翻訳の問題もある、というように、国際化に不利な外形的要因がある。さらに、特に日本の「〜道」と観念できるような芸事の世界では、その精神が役者の私生活まで入り込んでいるといった内的な面もある。また、芸能の国際化を考える際に、そもそも海外市場の獲得を目指しているのかどうか、というのも重要な視点である。一方で、相撲や歌舞伎などの芸能には、観光産業としての面もあることを忘れてはならないだろう。
○伝統の保存と、革新のバランスは、どのようにあるべきか
 芸能も商業的な面がある以上、観客の求めに応じて自助努力的な革新がなされることは自然である。しかし一方で、長い時間の経過とともに洗練されてきた業の伝統を守っていくことも望ましい。革新的な試みが洗練の過程であったのか否かは、後になって時代が証明することであろう。
○先生のコメント
 国際化するのかしないのか、そして国際化するのであるならば目的は何か、を考えられたい。また例えば、国際化に成功した柔道と国際化されていない相撲を対比して考えることも有用であろう。
 国家が芸能に対してどのような関わり方をしたのか、また芸能が国家形成・国民形成にどのような役割を果たしたのか、ということを考えるために、『〈声〉の国民国家・日本』(兵藤 裕己著、NHKブックス)をお勧めする。

■後半(Ⅱ)
○芸術を享受することの権利性
 文化芸術振興基本法の2条3項は「文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利である」とし、芸術振興のための支援や芸術家の養成も国の責務としている。それについて、「芸術を享受すること」は当然権利であり、自由権的側面が第一に想定されるが、法律の文面からは請求権的側面としても読み取れるであろう。
○国と民間でどちらが芸術支援を担うべきか
米英仏独韓と比べ、日本は国・民間からの支援が少ないという前提の上で、日本ではどちらが支援を担うべきかについて話した。できる限り民間の力で支援をしていく方が望ましく、実際の例として企業のCSRなどのほか、事業家個人がコレクターとして集めたものを公開することが挙げられる。一方、国の支援については、‘反体制’的なものも多くある芸術が国策に沿った形で歪められる可能性もあり、できる限り避けたほうがよいが、民間で支えきれないものは国の補助も必要になるとの意見もあがった。
 補足として、そもそも国が一つの芸術について補助金を出してよいのかという憲法89条の論点がある。
○芸術の担い手の支援の是非
 まず、芸術の担い手(個人)の支援と、芸術そのものの保存については分けて考えるべきとの指摘がされた。芸術そのものについては、衰退している分野の保護に反対の意見があり、かつ保護されることでその支援に依存しかねないとされた。担い手については、芸術を享受する権利はあるものの、芸術家であるからといって特別の保護をする必要はなく、一般の保障であるとも考えられる。他方、職業選択の自由と考えると、生活が成り立たないために力士になることをためらうなどの状況は問題になるかもしれず、社会保障のみでは十分でない可能性もあるだろう。
○先生のコメント
 ⅠⅡ通して、①マーケットの求めるもの、②自助努力の要求、③社会保障のあり方、④職業選択の自由が話題になっていたが、大学での学問分野との比較をすると考えが深まるだろう。①マーケットが求める英語や中国語のみを教えるようになればほかの言語が駆逐されかねず、②すべてにおいて自助努力を求める現在の潮流には再考の余地がある。③学問が淘汰された結果、専門家の生活が成り立たなくなったら生活保護とすればよいのか、④大学のポストがなくなることが職業選択の自由に反する可能性はないのかという問題が存在考えられる。何らかの支援がなされるとしたら、どの学問分野であれば残すかの線引きをすることは、芸術の保護について古典芸能とそうでない場合で線引きをしてもよいのか、その基準は知名度にも左右されないかという点で共通する問題であると考えられる。