アウトロー

報告者:塩田・志水

課題図書

①宮崎学『ヤクザと日本』(ちくま新書)2008
②氏家幹人『サムライとヤクザ』(ちくま新書)2007
③難波功士『ヤンキー進化論』(光文社新書)2009
④沖浦和光『旅芸人のいた風景』(文春新書)2007
⑤一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)2009

課題図書の紹介

①宮崎学『ヤクザと日本』(ちくま新書)2008序:★★★破:★★★急:★★★
①本書は、猪野健治と並び日本二大ヤクザ著述家である、宮崎学の著書である。筆者によると、近代ヤクザは日本の近代化に役立ったのだという。明治維新後の日本の急速な工業化の中で必要とされた港湾労働者や建築作業員といった下層労働者の供給を担ったのが、近代ヤクザ(の原型)であった。近代ヤクザは日本の近代化の中である時は国家権力に協力し、ある時は対抗しながら成長する。また、近代ヤクザは社会の周縁部に生きる人々のセーフティネットとしての役割も果たしたという。経済的な利益を追求する現代ヤクザとは異なったものとして、共同社会型の近代ヤクザが描かれる。第6章で筆者は、近代ヤクザの法(掟)である義理人情の源流を、日本の伝統的社会関係である「イエ」「ムラ」に求め、西欧の権利義務と比較しながら義理人情にポジティブな評価を下している。
近代ヤクザは、社会の周縁部の一つの部分社会であり、国家は完全には近代ヤクザ社会を管理できていない。だが近代ヤクザもただの無法者というわけではなく、独自の義理人情という規範を持っていたということに注意が必要であろう。
①本書は近代ヤクザについての本である。筆者の言う「近代ヤクザ」とはヤクザの内近代的な人々のことを指すのではなく「近代が生み出さざるを得なかったヤクザ」という意味であり、経済的・政治的・社会的変遷としてのヤクザ史が描かれている。法の支配の及ばぬ世界での下層労働力統括者、周縁仲介者、社会的権力としての近代ヤクザなど、社会との関わりを中心に解説されており、不当に卑下されがちなヤクザについての誤った認識を是正したいように思えた。

②氏家幹人『サムライとヤクザ』(ちくま新書)2007序:★★破:★★急:★
「男になる」「男を磨く」「男がすたる」…「男」とは何かの変遷をサムライとヤクザの歴史に沿って考察した一冊。冒頭で筆者は武士道や任侠道という「自己の集団を支え、発展させるエネルギー源」でしかないものが社会全体で立派なものだと賞賛されることが鬱陶しいと語り、ではなぜそうなったかを本文で解説している。
筆者の論によれば、徳川治世に武士は人殺し稼業の荒々しい男たちから儒教的倫理で彩られた役人へと転化する。必要な武力は庶民の荒くれ者に外部委託されるが、武士のその引け目が今の政治家とヤクザの関係と同じであり、それゆえ今も任侠道が賛美されるのだという。各章ごとにテーマはあるが、時代ごとに自身の主張に合う逸話を繋ぎあわせた感じが否めない。

③難波功士『ヤンキー進化論』(光文社新書)2009序:★★★破:★★★急:★★
 愚連隊や暴走族、竹の子族にツッパリ。そしてヤンキー。1960年代から現代までのヤンキー(的なもの)について、膨大な資料をもとに描いたのが、本書である。筆者によるヤンキーの定義は、「階層的には下」「旧来型の男女性役割」「ドメスティックやネイバーフットを志向」な人々である。ヤンキーは、現代を「額に汗し自力で稼」いで生きており、「敬意を払われるべき」だというのが筆者の主張だ。最近の言葉では、これらヤンキーを、マイルドヤンキーと呼ぶのだろう。あまり語られることのないヤンキー文化というサブカルチャーを、広く浅く知ることができる一冊である。

④沖浦和光『旅芸人のいた風景』(文春新書)2007序:★★破:★★急:★★
本書では、少年時代の筆者の眼に映った旅芸人たちの姿がノスタルジックに描かれている。筆者は、西国街道沿いの箕面、そして紀州街道沿いの天下茶屋で少年時代を過ごした。そんな、道行く旅芸人を数多く見てきた筆者によるオマージュ的作品である。旅芸人たちは、近代と前近代とを問わず、社会・身分秩序からはみ出した存在である。日常においては蔑まされる彼らが、それゆえ非日常の空間ではむしろ神性を帯びた存在として現れてくることを、筆者は再三指摘している。

⑤一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)2009序:★★破:★★急:★★★
明治以降の「皇軍」についてその徴兵から軍隊での生活、死後の扱われ方、また家族(遺族)の呻吟の姿などについて書かれている。勇敢だとされた皇軍もその実態は兵士と将校・下士官の「勇怯」を相互監視することでやっと成り立つものであったと筆者は主張する。本書のもう一つの主題は「軍隊は規律正しく平等である」「戦争が社会を公平化する」というテーゼについて異を唱えることである。第3章では学歴や階級を元とする様々な不平等について列挙されている。しかし、過度な賛美への否定は同意できるが、一定の公平化はもたらされたのではという印象も受けた。


コメントⅠ

今回のテーマはアウトローである。アウトローの代表としてヤクザが挙げられる。彼らが従う規範は権利義務の体系でなく、義理人情の世界であり、構成員相互の関係は、独立した人格による台頭な関係でなく、親分子分の間柄である。彼らヤクザが本分とする任侠道は、怪しいものではあるとはいえ、一般には日本の伝統であり、武士道に由来するとされる。共通課題本において再三指摘されている通り、ヤクザは国家の管理の届かない人々同士の互助的なネットワークとして機能していたのだろう。ヤクザは部分的に社会権力を構成しており、日本は、あるときはヤクザを利用し、あるときはヤクザを切り捨て、近代化を成し遂げた。現代は、ヤクザと写真に映るだけでテレビを引退せねばならない世の中である。アメリカ政府の圧力があるのだろうか、ヤクザを「反社会的勢力」、いわゆる反社として商取引から追放しつつある現代日本では、近いうちにヤクザ勢力は滅ぼされてしまうかもしれない。
 文化という側面からは③が面白い。愚連隊や暴走族といった社会のはみ出しものであったヤンキー的な文化が、メディアの発展によって、骨のないタコのようなふにゃふにゃした文化に変質してしまう歴史が描かれている。人間はヤンキー・オタク・一般人(パンピー)に分けられ、前二者の文化がいわゆるサブカルチャーであろう。サブカルチャーであるヤンキー文化とオタク文化は、アイドルという点で交差する(第7章)。現代は氣志團・ライムベリーなど、オタクなんだかヤンキーなんだかよく分からないサブカルチャーが隆盛を極めている。「ガキ帝国」や「狂い咲きサンダーロード」のような、痺れるヤンキー文化は現代に存在するのだろうか。(塩田)
 アウトローとは元来「法の保護」を受けられなくなった人を指す言葉であるが、現代では無法者やそのような生活スタイルを好む人を指すように使われている。共通課題本の中でも「法の保護を受けられない層としてのアウトロー」「法からはみ出す荒くれ者としてのアウトロー」の2つの側面が描かれていた。②はヤクザの起源として戦国時代の武士を上げているが、これはアウトローというよりもローがない時代の荒くれ者の姿である。
 また、アウトローというと「義理と人情」「仁義」という行動規範が掲げられるが、これはムラ、イエといった日本特有の共同体的な場で成り立ってきたことが指摘されている。⑤では日本軍が「皇軍」意識ではなく「親分子分の私情」で貫かれていたと解説しているが、ここにもアウトローに特徴的な日本的な規範意識を見出すことが出来る。(志水)

 

コメントⅡ

アウトローは、「法の外」であり、革命時に、裁判なしで処刑できる状態を指す言葉だと記憶している。革命体制の敵が、「法の外」宣告をされるのだ。課題本に登場するアウトローは、ヤクザや旅芸人など、国家による管理が不十分であるゆえに、国家による保護(福祉)もまた不十分である人々を指すのであろう。完全に法の外であるというより、はみ出しているという状態だ。現代の我々の目から彼らを見るとき、そこにある種の自由を感じる。①③に登場する辻医者や手配師、都市下層雑業等は、現代では国家によって管理されているか禁じられている。医師免許、労働者派遣業の許可制、ゴミ持ち去り禁止条例などなど。我々はある程度の生活が保障されていると同時に、ある程度以上の生活を強制されているとも言える。排除と包摂が進む現代に、法から少しだけはみ出すということについて考えてみたい。
 もう一つの論点として、日本における伝統的な規範と権利義務体系との関係がある。我々日本人は権利義務体系に基づく考え方を身につけることは可能なのだろうか。また、そもそもそれは望ましいのだろうか。(塩田)
 共通課題本の第7章ではヤクザが「共同社会型から利益社会型へ」移行する様が描かれている。警察による壊滅作戦が行われたのは、ヤクザの主要事業である港湾荷役と芸能興行においてヤクザが必要とされなくなったからであるが、それは資本の側からヤクザという中間集団を必要としなくなったということである。暴対法の強化など、ヤクザの居場所はなくなりつつある。その中で、はみ出さずには生きていけないメンタリティーの人々は何処へ行くのだろうか。また、そのような人々は存在し続けるのだろうか。存在し続けるのであれば、受け皿としてのアウトローな集団は社会にとって必要といえるのかもしれない。
 またアウトローというテーマからは少し離れるが、体制が暴力をどう管理するかということも法との関わりで考えることが出来るだろう。②では江戸幕府が暴力を弾圧しながらも武威をアウトソーシングしてきた歴史がヤクザの興りとして描かれている。⑤は徴兵制による「強制的同質化」による平等神話を否定するが、その一定の効果を認めている。時代により暴力の行使のされ方は異なるが、アウトローと切り離せない暴力というのも今回の大きなテーマの一つではないだろうか。(志水)

ディスカッションの概要

コメント1 アウトローについての雑談
 特にまとめるべき内容はないが、アウトローも前近代的な人間関係や、規範に縛られているのではないかという大事な指摘があった。また、参加者の中から、アウトローを、異質な他者として認識しているという発言が出たことは興味深い。

コメント2前半 義理人情と権利義務
 発表者は、アウトローの規範である義理人情と、近代市民社会の規範の権利義務体系との関係について、前者を前近代・後者を近代的なものとして対比した(日本と欧米との対比でもある)。参加者からは、義理人情は法規範の補充ではないか、義理人情(特に擬似的親子関係)は、日本にかぎらず、イタリアのマフィアにも当てはまるのではないかとの意見が聞かれた。後者に関しては、マフィアの発達したイタリア南部は経済的発展が遅れた地域であり、前近代性という点で日本と共通するのかもしれない。前者の意見に対して、発表者はまともな返答ができていなかった。大変残念である。

コメント2後半 今後のアウトロー
 アウトローには、社会に反抗するヤクザのようなアウトローと、社会から外れたホームレスのようなアウトローの二種あることが確認された。後者の、セーフティーネットから外れた人々を、前者のアウトローが食い物にすることがよく見られる。だが、一方ではヤクザ等のアウトローは彼らに生活の基盤を提供しているとも言えるのではないか。極端に言うと性産業が挙げられる(より正確に言えば、性産業の経営者の発言にそのような意識が現れたものがあった)。参加者からは、国家ではなくNPOや宗教団体のチャリティーが手を差し伸べるべきだとの意見があった。大変結構な意見である。また、市民社会の秩序からはみ出すことに対し、批判的な意見も聞かれたが、一つの秩序を絶対視し、他のありえる選択肢について考慮すらしないというのは、知性の怠慢であり、想像力の貧困と言わざるをえない。

先生のコメント
 市民社会以外の規範について考えてほしかった。軍隊やヤンキー、ヤクザには市民社会とは違った規範が存在する。また、システムにはある種のゆるさみたいなものも必要であり、その点で現代社会は息苦しく、生きづらいのかもしれない。また、ヤクザの担うグレーな領域を、国家が担うべきであるが、コストとの兼ね合いがある。国家が監督した上で、運用に幅を持たせることが考えられるとのコメントを頂きました。