&&

報告者:秋山・佐々木

課題図書

①鎌田遵『ネイティブ・アメリカン』(2009)
②岸上伸啓『イヌイット』(2005)
③水谷驍『ジプシー』(2006)
④渡部哲郎『バスクとバスク人』(2004)
⑤譚?美、劉傑『新華僑 老華僑』(2008)

課題図書の紹介

①鎌田遵『ネイティブ・アメリカン』(2009)序;★★★破:★★★急:★★★
①本書は、アメリカ社会の末端に追いやられたネイティブ・アメリカンたちの姿を、史料分析やフィールドワークを通じて紹介し、先住民問題について多角的に考察した一冊である。著者はカルフォルニア大学・大学院在学時代からネイティブ・アメリカンについて研究してきた鎌田遵である。鎌田氏自身が長年にわたって行ってきたフィールドワークの成果が、本書にもふんだんに盛り込まれている。  全編通しての主軸となっているのは、部族政府vs.連邦・州政府の駆け引きである。部族政府は、コロンブス以前からアメリカ大陸にいた者として、与えられて然るべき諸権利を要求し。自治そして共生を呼びかける。一方の政府側は、国益のためにネイティブ・アメリカンを犠牲にしてきた。そしてその傷痕に、ネイティブ・アメリカンは今日まで苦しめられている。差別、貧困、麻薬、健康問題、そして他者による利益妨害まで。複雑に絡み合う難題に直面しながら、社会の底辺から這い上がろうとするネイティブ・アメリカンの姿は、先住民族に対して抱いてきた楽観的なイメージを覆すものだった。客観性と熱意の狭間で揺れながら、著者がネイティブ・アメリカンの窮状を伝えたいと希求しているのがひしひしと感じられる、渾身の一冊である。
①アメリカ社会にはびこる人種差別や偏見のうち、先住民が抱える問題点にスポットライトを当てた本である。著者はフィールドワークを重視する研究者のようで、本書には多くの個人名や彼らの苦しみと嘆きの声が書かれており、その文は生々しく読む者の心に響く。
 白人による侵略と抑圧→大戦後の民族自決運動→差別との闘い、というマイノリティのお決まりのルートが本書でもやはり描かれているが、それだけこうした諸問題は解決困難で根が深いともいえる。
 そうした中で、著者が本書で先住民族の側に立って繰り返し主張するのは、アメリカ社会が先住民族に対して持つ差別的で植民地主義的な歴史観を見直すこと、そして彼らに対する敬意や尊重を求めることである。
 本書が慣行されたのはオバマ氏が米初の黒人大統領として就任した直後であるため、全体的には先住民族が抱える闇が書かれているが、ところどころに人種差別撤廃政策に対する希望が見える。それから5年が経った現在の米社会を見て、著者は何を考えているのだろうか。

②岸上伸啓『イヌイット』(2005)序:★★破:★★急:★
1980年代以降のカナダ・イヌイットについて記述した民族誌である。文化人類学の見地から、生活全般についてイヌイットに密に寄り添いながら述べられていて、イヌイットの現状を知るにはうってつけの一冊である。極北地域でも都市部でも伝統とテクノロジーを上手く融和させながら生活しているイヌイットたち、そして彼らにとって最大の問題である環境問題についての動向を詳しく知ることが出来るが、著者はあくまで叙述者であって、著者自身が何に問題意識を持っているのかは今ひとつ見えにくい。あくまでイヌイットの紹介本といった位置づけなのだろう。巻末には旅行者へのアドバイスがあり、イヌイットの現状を知ってほしいという著者の願いは伝わってきた。

③水谷驍『ジプシー』(2006)序:★★破:★★急:★★
本書は“放浪の民・流浪の人々“と一般的にイメージされることの多いジプシーの正体を、表題のように歴史・社会・文化に焦点を当てながら科学的に検証しようと試みる本である。
 本書で著者は、従来のジプシー研究は科学的根拠や学問的手法を欠き問題が多いと指摘し、統計データや史実を分析し、比較研究のアプローチを取り入れることで、「科学的」にジプシー像を組み立てることに気を配っている。
 しかし、筆者が根拠としている資料も、現代で入手できる最良のものにすぎず、必ずしも正確なデータではなく、筆者の主張が必ずしも正しいわけではないことは注意するべきである。この点は、本書が研究の到達点ではなく出発点にすぎないとあとがきで述べる筆者自身も認識しているといえよう。
 本書を読む上で最も注意してほしいのは、ジプシーがなんなのかは本書を読んでも全くわからないということである笑。“ジプシー“という言葉の響きの好奇心から期待して本書を読むと、時間を無駄にするだろう(僕がそうでした)。

④渡部哲郎『バスクとバスク人』(2004)序:★破:★★急:★★
スペインとフランスの国境の小さな一地域に過ぎないにもかかわらず、世界に名を知られているバスク地方の全体像を描く本。大部分を割いて、バスクがいかに文化的独立を保ちながら、世界史上で重要な役割を果たしてきたかが語られる。
 バスク語といえば孤立言語として有名であり、本書の第四章はそれと関連して、言語とアイデンティティの関係を記しており必見の価値がある。人口流動のため一度衰退しかけた旧バスク語に代わって、地方自治政府による言語政策によって、方言等の地域差を無くした新しいバスク語が普及したという議論は、政治的な背景が文化に与える影響を考える上で興味深い。

⑤譚?美、劉傑『新華僑 老華僑』(2008)序:★破:★★急:★★
華僑や華人と呼ばれる海外に住む中国人について記述した一冊。二人の著者が一部ずつ執筆した、二部構成の形をとっている。第一部は譚?美が、長崎・神戸・横浜それぞれの中国人社会の歩みと特色をうまく対比させながら描いていて、ルポルタージュとして楽しめる。第二部は劉傑が、終戦直後からの日本の中国人社会についてまとめているが、その前置きである「華僑」の定義のくだりが少々くどく今ひとつわかりにくい。だが中国における国共内戦、そして日本・中国・台湾の三国関係の影響を甚大に受けながら、華僑社会がそれら三国の橋渡しをしてきたのだ、という著者の主張はよく伝わってきた。


コメントⅠ

 ①?⑤の民族は、「先住民族・少数民族」と一括りにしかねるほど、歩んできた歴史も、現在置かれている状況も異なっている。①ネイティブ・アメリカンは「移住者」本位の政策の煽りを食い、今なお社会の底辺で負の連鎖から抜け出せずに苦しんでいる。そんな苦境にあっても、消えゆく伝統を守り本来の権利を取り戻すべく奮闘する一方、②イヌイットは「移住者」とうまく折り合いをつけ、伝統と科学技術とをうまく融合させながら「移住者」とほぼ変わらぬ生活水準で暮らししている。④バスク人はアイデンティティの要である言語を一度は失いかけたものの、バスク語の統一によって民族の一体感を得ると政治運動が急進化し、主流社会スペインから強大な自治権を獲得するに至った。③ジプシーは現在に至るまで、世界様々な地域の主流社会からの差別と排斥の標的となってきた。一方⑤華僑は日本と故郷中国の国交を取り持ってきた歴史があるほど、強大な政治的・経済的影響力を有している。
 このように民族間でも生活水準や付与された権利に大きな差がある。それらを規定している要因はいったい何なのだろうか、そしてそうした格差を克服していくことは可能なのだろうか。それが今回のゼミでぜひ話し合ってみたい議題の1つである。(秋山)
 どの民族も偏見や差別に苦しんできたことは共通しており、どのようにして問題を克服してきたか、また克服していくかに多くの頁が割かれている。
 より大きな世界の一部として組み込まれた民族(①②④)と、自ら散らばって行った民族(③⑤)とに分かれるが、どちらも生活レベルで異なる文化と接触することで、固有の文化が変容を遂げているという点が目に付く。
 特にその動きは80年代以降のグローバル化以降加速しており、少数民族内部でも多様性が生まれ、民族の特徴が薄れ、明確な定義付けが難しくなっている。この流れを単なる文化の変容と捉えるか、それとも衰退と捉えるか、他の捉え方があるのかを考えたい。(佐々木)

 

コメントⅡ

〈秋山〉
 ①②④について。民族自決とまではいかなくても、力の弱い民族が自分たちの伝統を守りながら暮らしていくためには、主流社会から最低限の権利を保証してもらう必要がある。それがまさに法の領分なのであるが、どうやらここで素直に権利を保障してもらえる訳ではないのは、①②④をはじめ様々な民族問題の事例で確認できる。こうした事例の裏には、どのような政府側の思惑があるのだろうか。国家全体の利益のためか(①)。はたまた、発言権を強めた先住民族・少数民族に独立気運が高まることへの懸念(④)なのか。そんな中でも先住民族・少数民族を援護する動きが大きくなりつつあるのは、国際条約などから明らかである。果たして先住民族・少数民族の権利はどこまで保証されるべきなのだろうか。それはすなわち、自決権を勝ち得て自治州の中で伝統・文化を後世に繋いでいければいいのか(②)、それとも完全な独立を達成しなければ気が済まないのか(④)。この先住民族・少数民族の問題は、自決権だけでなく、環境問題や安全保障問題にまで関わってくるため、容易には解決できないだろう。その中で法律は、どのような役割を果たせるのだろうか。これが議論したい1つめである。
 一方、③⑤は世界各地に散らばって少数となった民族だが、主流社会から最低限の権利を保証してもらう必要があるのは①②④と同じだ。教育、医療、労働、納税など様々な分野において行動範囲は法によって規定されている。「よそ者」だという理由で周囲の「国民」と同じ待遇は受けられないこともままあり、その問題は「国民国家」のこの日本でも起こっている。しかし国民国家が減衰し多文化主義が謳われる昨今において、単一民族国家を想定した日本の法律には、見直す必要があるのではないだろうか。これが議論したい2つめである。(秋山)
 先住民族や少数民族を保護する法制度が現実で機能していないという問題が①や③から見受けられる。その原因は、制度自体が実質性を欠いているケース、制度は適切だが人々の意識まで浸透していないケースなど様々なものがある。
 先住民族や少数民族の人権や文化を守る動きは世界のすう勢となっているので、それに対応した法を作る能力もこの先求められるだろう。しかし、特定のマイノリティを保護することが、その他の利益を害することはあってはいけないので、バランス感覚は重要である。もっとも、そうしたバランスは改正などを経て保たれていくもので、法整備が進まない理由とはならないと個人的には考える。
 日本でも平成9年にアイヌ文化振興法が制定されており、20年以上経った現在どのように機能しているのかを調べれば、よりこの問題を身近なものとして捉えることができるかもしれない。
※アイヌ文化振興法はアイヌ文化の振興と知識の普及が目的であり、アイヌ民族に対する差別の解消や、教育や生活面での格差是正を担保するには至っていないという問題点がある。(佐々木)

ディスカッションの概要

 まず初めに、全員が読んできた共通本に関連して、参加者に簡単な意見調査を行った。テーマは「負の連鎖の中にいる民族(ネイティブ・アメリカン)が、時代にうまく調和して生きる他の民族(イヌイット)のような生活水準に、いつかは達することが可能と思うか、それとも不可能と思うか」。この時点で、参加者の中にも様々な意見があることが確認できた。
 前半は、異文化と接触していく中で先住・少数民族の内部でも多様性が生まれ、民族としての特徴が薄れていることに関して、それは「衰退」なのか、それとも単なる「変容」なのかについて、参加者同士で意見が交わされた。「衰退」というものはマジョリティの価値観を通して見たものでしかなく、全て「変容」であるという意見。文化を見つめる際にその時代の価値観を完全に排除することはできないから、「衰退」も存在するという意見。またその両方の側面が混在しているのではないかという意見など、参加者の中でも非常に多様な意見が見られた。この議論の中では、先住・少数民族というマイノリティの問題には、その対極にあるマジョリティの存在が少なからず関わってくるという面が浮き彫りになった。
 後半では、主流社会におけるマイノリティが、現地の法律でどう守られているのか、そもそも守られているのか、またどこまで守られるべきなのかについて、日本を場に想定して意見交換がなされた。まず先生が提示してくださった「小樽温泉入浴拒否訴訟」をベースに外国人とお風呂、そこから外国人と住居の問題へと移り、「外国人だから」という理由で日本人と別待遇にすることの是非が問われた。その議論の中では、個別対応はいけないのではないかという意見や、そもそも個別対応できないから前もって線引きをせざるをえないのではないかという意見など、多様な立場に立った様々な意見が出てきて、活発に意見が交わされた。各人が法律というものを改めて見つめ直す、良い機会になったのではないかと思われる。
 最後に、再び先生に事例解説と新たな論点(結婚など私的セクターではどうなるのかなど)をいただき、各人が今後もこうしたマイノリティ問題について再び考えてくれることを願いつつ、この日の議論はお開きとなった。
※ 今回議論した問題については、大村敦志先生の著書『他者とともに生きる-民法から見た外国人法-』(東京大学出版会、2008年)でも触れられているので、ぜひとも皆さんにも読んでいただきたいと思います。