まとめに代えて

Ⅰ.ゼミでの議論の後で

1「レギュレーション」「教育」「法」について

J・カルボニエ(1908-2003、民法・法社会学)は、法を「レギュレーション」(規制/調整)の一態様として位置づけている。その際に、彼は、アメリカの社会学に言及しつつ、レギュレーションを「ソーシャル・コントロール」(社会統制)と言い換えてもいる。それは、社会の一体性を保つために用いられる様々な圧力手段であるとされている。そして、そこには、法のほかに、教育やモード、音楽などが含まれるとしている。ほかに、マナー、道徳、宗教などの規範も挙げられている。
 カルボニエによれば、法とそれ以外の規範を分かつのは、強制力と明確性だという。現代においては法もまた「強制」ではなく「協議」を重視するようになっているが、最終的に、理性に加えて拘束が働くのが法であるという。もっとも、これは大陸法の「法」イメージであり、英米法においては、判事という第三者(審判者)の存在が法の特徴をなすと認識されているという。
 レギュレーションの手段には、法とそれ以外のものとがあるが、法以外のものの代表格は、一般には「道徳」である。古来、「法」と「道徳」の関係については、様々な議論がなされてきた。たとえば、最近のフランス民法に即して言えば、1960年・70年代には「法の脱道徳化」が進んだ。離婚の自由化や非嫡出子の平等化がその例である。これに対して、1980年代になると、生命倫理にかかわる問題の出現によって、法と道徳の接近が再び始まっている。その他の規範についても、、法と当該規範をどう区別するか、法と当該規範をどのように関連づけるかという問題が存在する。
 ゼミにおいては、レギュレーションと関わるいくつかの問題を取り上げたが、表題中の括弧書きからもわかるように、その中心においたのは「道徳」ではなく「教育」であった。このようなセッティングをしたのには、一つの前提があった。それは、「道徳」を内面の問題ではなく社会生活の問題としてとらえ、教育によって形成されるものと考えるという前提である。
 カルボニエとの関連でいえば、この発想は、彼があげるマナーのうちの市民道徳=市民作法(civilite)と密接な関連を持つ。彼は市民道徳を、「市民の合理的で責任ある行動で、都市において隣り合って生きる他人に対して払う注意」と定義した上で、「礼儀」(politesse)と「非行」(delinquance)との間に位置づけている。市民道徳の涵養は「市民教育(education civique)」の目的であるが、市民道徳は教科としての「市民教育」ではなく日常生活の中での「市民教育」によってはぐくまれるというのが、私の印象である。規制(統制)・道徳・教育に対する同様の見方は、補講で取り上げたデューイの教育論の中にも見出すことができる。彼もまた、社会性をはぐくむ教育がすなわち道徳的な教育であると説いている。
 このように教育のもつ市民性涵養の側面に着目し、あわせて民法の行為規範としての側面を重視するならば、市民道徳と民法(少なくともその原理的部分)とは連続的な性質を持つことになる。このことを認識した上で、法の特殊性がどこにあるかを考えること、すなわち、市民教育と法学教育の連続性・不連続性を意識することが重要なのではないか。道徳教育とも法学教育とも異なる「法教育」が担うべき課題は、このあたりにある。以上が私の現状認識であり、この認識に基づいて、「教育」を中心に据えつつ、「レギュレーション」と「法」との関係を考えてみたいと思った次第である。

2 サブ・テーマの分類

ゼミのサブ・テーマとしては、結局、次の10テーマが選ばれた。
 ①大学、②地域・まちづくり、③教育格差、④都市・建築、⑤子ども、⑥教育・学校、⑦性教育・性習俗、⑧恋愛、⑨芸能、⑩ドレスコード。
このうち①大学、③教育格差、⑥教育・学校が一つのまとまりをなすことは、とりあえず明らかであろう。この第一のグループで中心をなすのは、⑥教育・学校であった。そこでは、教育という営みが果たす機能・役割に関する新書を取り上げた。教育の場としての学校の現状については③で検討されることとなった。そこでは格差が問題として設定されていたが、①では、大学が差異を求めていることや格差を創りだしていることも話題になった。
 ⑤子どもは、一見すると第一グループに属するように思われるかもしれない。あるいは、⑦も「性教育」に着目すれば、同様に第一グループに近づく。しかし、「性習俗」に重点を置くならば、⑦は⑧の恋愛に近づく。「性」や「恋愛」について、人々はどのような規範意識をもっているかということになるからである。同じ観点から、「子ども」(を持つこと)をとらえるならば、⑤もこの第二グループに属することになる。
 ⑩ドレスコードも、見方によって第二グループに含めることができる。しかし、ここでは⑨芸能とともに、第三グループに属するものとしておこう。両者に共通の点としては、既存のものからよりよいものが生まれる過程(伝統と革新の関係)を取り出すことができるだろう。
 残った②地域・まちぢくりと④都市・建築がまとまりをなすことも、わかりやすい。前者はソフト面に、後者はハード面にウエイトを置いたことになるが、このゼミの文脈では、いずれも環境が行動に影響を与えるということが重要である。

ゼミでの議論をふまえて

1(共通課題本から出発した)コメントⅠは、十分に機能したか

 ゼミの進め方のイメージを示す最初のセッション(①大学)において、参加者の個人的な体験に基づく意見を求めたこともあって、以後のセッションでも、参加者の体験や実感から議論が始められることが多かった(②の「シケタイ・シケプリ」のほか、④の「東京の街に対する印象」、⑤の「仕事と家庭に対する考え方」、⑥の「公立・私立の比較」、⑦の「性教育の体験」、⑧の「デートの際の支払」、⑨の「習い事体験」、⑩の「リクルート・スーツ」など)。これらは参加者を議論に引き入れる点で大きな効果を持った。また、自分たちの間に現に存在する「規範」はどのようなものかを発見する試みであったとも言える。
 その反面で、このような導入は共通課題本に即して議論をするという姿勢を希薄にした。それでも②~⑤までは共通課題本を意識した議論がなされていたが、後半に行くにしたがって、共通課題本に対する意識は希薄になっていった。また、前半においても共通課題本の論旨を検討するというよりも、そこで提起されている問題を議論することに重点が置かれた。おそらく転換点は③にあったのだろう。②では、体験・実感レベルの話は最後に付けてされていたが、③での課題設定で議論が紛糾したために、④以下では、最初に問題意識を共有することが目指されたのであろう。
このような議論の仕方はそれ自体は悪くなく、実際のところ、後半の議論はなかなか面白かった。しかし、このやり方だと本を読むことの意味は後退する。今年のゼミにおいては、共通課題本は議論のまくら・素材であり、それ自体の意味を考えようという姿勢は十分ではなかった。特に、コメントⅠは議論とはほとんど関連づけられていなかった。それだけ軽やかに議論をすることができたが、これでは、テクストと対峙することの意味はつかみにくいだろう。もっとも、今年の共通課題本にはそれだけの硬度があるものが少なかったという事情も勘案しなければならないのだが。
 今年のゼミと比べると、昨年のゼミでは沈黙の時間が流れることが多かった。これは、私設TAの高原君の感想である。確かにそうだったかもしれない。昨年はしばしば議論は停滞し、混乱した。しかし、テクストに拘り、それを利用しつつ、問題を理解するための枠組を抽出しようという姿勢は、はっきりとしていた。
 どちらのやり方がいいか。にわかには判断はできない。ただ、来年以降は、共通課題本やコメントⅠの位置づけについて、さらに工夫をしてみたい。

2(法との関係に関する)コメントⅡにつき、何が論じられたか

法と関係では、3つのレベルの議論がなされた。
 一つは、人々を規律するものがいかに生成するかにかかわる議論である。②の地域・まちづくりでは、グローバルな「資本主義システム」の影響が語られる一方で、ローカルな規範を生み出す「つながり」をいかに創り出すかが議論された。④の都市・建築では、街(システム)が人を選別するという見方に対して、人(主体)の側も状況やライフステージによって街を使い分けているという見方が対置された。
 もう一つは、それぞれの問題に法はいかにかかわるかという問題であった。③の教育格差では、法によって規律する側と規律される側の二極化・固定化が問題視され、対応策が議論された。他方で、法の関わり方として、謙抑性や中立性が指摘されることもあった。⑤の子どもや⑧の恋愛に関して現れる子育て・結婚推進策の是非だけでなく、⑥の学校について論じられた公教育の役割論もこれにかかわる。ある意味では、法と非法の領分が意識されたとも言えるが、規制的な法とは異なる法の姿が望見されたとも言える。
 最後に、法と法以外の規範の対比にかかわる問題も議論された。①大学に関しては、法学知のあり方や実効性が議論されたほか、⑨芸能では、法的思考の習得過程が芸の習得過程と対比された。さたに、⑩ドレスコードでは、人々が規範に従うのはなぜか、法とマナーの違いは何かなどが問題とされた。
議論においては、いくつかの場面で、現状を前提にして対応を考えるのか、現状を根本から改めるのか、ということが問題になったが、全体としては、現実を重視したリアリストの議論が優越していた。ややつまらない感じもするが、なぜ、まちづくりは失敗することがあり、性教育は推進されないのか、という阻害要因を探すという指向は、具体的には十分に展開されなかったものの、指摘としては興味深かった。

3 補講で読んだデューイ『民主主義と教育』第26章「道徳の理論」について

 ゼミで読んだ文献との関係でいえば、山崎正和『文明としての教育』と大塚英志『大学論―いかに教え、いかに学ぶか』がデューイの思想と切り結んでいた。山崎著は、教育を大きな枠組みでとらえる点、何を教えるかという点などで、デューイと通底しており、大塚著は、実際に製作するという経験の持つ意味、技術と教養の関係を明らかにすることで、デューイを具体化していた。
 ほかにもう一つ、穂積重遠の「法学入門」冒頭に置かれた「何のために法律を学ぶか」も思い出された。以下のような短文である。

 法律を学ばんとされる諸君。諸君は何のために法律を学ばんとするか。
 諸君の或人は云はれるだらう。行政科試験、司法科試験等に合格するためにと。
 諸君の或人は云はれるだらう。自己現在の実際生活に役立てるためにと。
 諸君の或人は云はれるだらう。国家社会乃至人生を知らんがためにと。
 諸君の或人は云はれるだらう。法律学其のものの学問的興味のためにと。
 
私は後の二目的を高尚なりとすると同時に、前の二目的をも決して卑近なりとするものではない。法律を悪用せんがため又は法律をくぐらんがために法律を学ぶのでない以上、どの目的でも結構である。而して法律の研究態度は其目的によって異なるべきではないと思ふ。即ち試験勉強の熱心と実際問題解決の切実とを以てしなければ、学問的興味も湧かず真理にも到達し得ないと同時に、学問的興味を以て根本原理まで遡らなくては、実際問題も解決出来ず試験も合格覚束ない。

 イギリス法の経験主義・実用主義の影響を受けた、また、春風駘蕩・温顔慈悲の穂積博士らしいバランスの取れた姿勢であると言えるが、ここにもデューイ的な教育観に通ずるものが現れている。