7 性教育・性風俗

報告者:岡村、成澤

課題図書

①風間孝=河口和也・同性愛と異性愛(岩波新書新赤版1235)2010
②橋本紀子・こんなに違う!世界の性教育(メディアファクトリー新書026)2011
③渋谷知美・日本の童貞(文春新書316)2003
④杉浦由美子・20代女性がセックスしていない―彼女たちはなぜ男に求められない?(角川ONEテーマ21B-153)2011
⑤塚崎幹夫・老いても枯れず―大人のための性教育ノート(ソフトバンク新書043) 2007

課題図書の紹介

① 風間孝=河口和也 同性愛と異性愛(2010) 序:★★★ 破:★★ 急:★★★
本書は同性愛がこれまで辿ってきた歴史や事件、社会での扱いを通して同性愛の過去と現在を明らかにし、性的指向というのが人を構成する一要素に過ぎないものとして受け入れられ同性愛者も異性愛者もお互いに生きやすい社会になるようにという願いをもって書かれたものである。各章の冒頭は「異性愛者であるJさんへの返信」という形の導入が設けられており、読者に同性愛をめぐる問題をより身近に感じさせるものとなっている。
第1章では80年代のエイズが同性愛者の病気と捉えられたことによるアメリカ、日本でのエイズパニックが取り上げられている。第2章では東京都青年の家での同性愛者の宿泊拒否問題とその裁判から同性愛が人権の問題でありその差別は社会の問題であることが指摘され、第3章では同性愛の「犯罪化」と「病理化」の欧米と日本の歴史が述べられている。第4章では教育現場や職場での同性愛者の困難とヘイトクライム事件から、同性愛を嫌悪すべきものと扱う社会とそれを同性愛者が自己嫌悪感として内面化することとそれを批判するホモフォビアという概念が取り上げられる。第5章では性同一性障害を取り上げ、そこからセックス/ジェンダー/性的指向/性自認という複数の枠組みのその複雑さを指摘する。第6章ではカミングアウトが扱われている。
異性愛主義という見えない規範がいかに強固なものであるか。そしてその規範から外れたものを犯罪あるいは病気として扱ってしまう社会の怖さに気づかせてくれる。第6章のカミングアウトというのはカミングアウト・オブ・ザ・クローゼットのことであるが、見えなくされてしまっているクローゼットが他にもないか姿勢を改めさせられる一冊である。

本書は、同性愛という性愛・性質のあり方を、同性愛だけを切り取って論じるのではなく、日本の社会では「一般的」とされる異性愛の社会・人との問題点と関連づけて論じようとするものである。全章にわたって、同性愛が一体どういうとらえ方をされてきたのか、言い換えるなら、どう差別されてきたのかについて具体的な事件をもとに論じられている。また、反差別的または科学的と一般には思われるような同性愛に対する視点も、実は強い偏見に支えられているといった指摘が数多くあり、自分はマイノリティに寛容だと思っている人も読んでハッとさせられるものが多いはずである。
 扱う事例は90年代のエイズパニック、同性愛団体が公共施設の利用拒否の是非が争われた「府中青年の家」事件、アメリカ70年代の同性愛者解放運動の端緒となったストーンウォール事件、同性愛者を襲撃・殺害した夢の島緑道公園殺人事件と多岐にわたっている。各事例のなかでの同性愛の差別も多種多様であるが、共通点をあげるならば、「異性愛を通常のものとして規定し、同性愛を異質なものとして対処しようとするあり方」である。興味深いのは上記のように同性愛を異質なものとして扱う限り、同性愛に寛容であろうとするあり方や運動または医学の動きもすべて差別に回帰してしまうことが指摘されている点である。その解決策として同性愛者も異性愛者も社会制度、教育、生活、職場、家庭など、ほとんどの社会基盤が異性愛的であるということを自覚するということをあげている。
 著者二人は、本書の区分で言っても同性愛に属するセクシュアリティをもっているが、本書には同性愛差別に対して感情的な論調は全くなく極めて冷静に論が展開されており同性愛と異性愛という複雑で表に出にくい問題を客観的に論じた著作となっている。  

② 橋本紀子 こんなに違う!世界の性教育(2011)序:★★★破:★★★急:★★★
 本書の意図は海外10各国の性教育のあり方を説明することにより、日本の性教育に役立つヒントを得ようとするものである。10各国ともアジア、欧米から様々な国が紹介されており題名の通り、そのあり方は千差万別である。興味深いのは、未成年のセックス・エイズ・売春など「あってはならないもの」を、そこに存在するものとして現実的に受け止め対処しようとする国々は成果をあげ、理想を追求し禁欲・道徳をとく国々は逆説的に少女の出産などが問題になっているところである。個人的に心を惹かれたのはオランダでこの国は五歳から性の知識をすべて教え込み、性産業は国が公的に介入していく性に開放的な政策を有するのだが10代の少女の中絶率・出産率は非常に低いものとなっている。

③ 渋谷知美 日本の童貞(2003)序:★破:★★急:★★
 日本の童貞観について1920年代から現在に至るまで論じられている。「童貞が恰好よく価値があるとされている時代があった。」ことが膨大な資料に基づいて論じられている。貞操観念の変化、ただそれだけで興味深いのではあるが、なぜ現在はこれほどまでに価値がなくなってしまったのか、などの理由の考察がほとんどなく、童貞価値論を肯定的とするならばどういう根本思想があるのかも解明してほしかったところである。

④杉浦由美子 20代女性がセックスしていない―彼女たちはなぜ男に求められない?(2011) 序:★★ 破:★ 急:★★
明るく華やかでコミュニケーション能力があり、同性から見ても好印象の「キチンとした女の子」である彼女たちがどうして恋人とセックスレスなのか。本書は20代女性のこうした状況に疑問を抱いた40代の女性ライターである筆者がインタビューを通してその理由を明らかにしようとしたものである。そこから浮かび上がってくるのは、貞操観念が強くも恋愛至上主義であった90年代と個人の選択や一人の社会人としての自立を重んじ、社会性が重視される現代との相違であり、私たちが生まれる前後と現代との恋愛観・ジェンダー観の大きな変化を感じさせるものとなっている。

⑤塚崎幹夫 老いても枯れず―大人のための性教育ノート(2007) 序:★★ 破:★★★ 急:★
当時76歳にして31歳年下の女性と3度目の結婚をし、生涯7人目となる15歳の娘を持つ筆者によって、筆者の性生活の実際や性の快楽、バイアグラ、熟年離婚などの性に関する話題がのびのびとした文章で語られていく。大学教授でもある筆者は永井荷風やマヌの法典など国内外の文学や宗教の古典から風俗の情報誌に至るまで、さまざまな資料にあたりながら知的にエロスを追求していく。そこにあるのは明るく生き生きとした「性」であり、陰気でじめじめとしたいやらしさは感じられない。人生と性が本来切り離せないものであることを教えてくれ、熟年となった自分を考える想像力を与えてくれる。

コメントⅠ

まず新書というメディアの観点から5冊を考えたい。筆者の職業に従って分類してみると①②③⑤は研究者、④は職業ライターによるものである。ただ①②③は自分の専攻に従ったものであるのに対し、⑤は大学教授ならではの豊かな教養と筆者自身の体験が中心となっている。新書を一般読者向けの読みやすくて手軽な知識メディアと一応定義すると、その中でもさらに専門書寄りと一般書寄りに分かれる。今回は①②③が前者、④⑤が後者に分類され、前者に関して言うと①②は教科書的でクセがなくすっきりとして読みやすかった。一方③は資料の引用が豊富になされているのだが、主張の根拠が弱く少々雑然とした印象を受けた。これは修士論文を新書に仕立て直したという経緯も関係しているのかもしれないが、専門書にも一般書にも寄りきれていない感じである。後者では④は筆者が問題視していることを「空気を読む力」など世間でよく聞く言葉と結び付けてみただけではという印象を持ったが、もしこれが雑誌の連載だったらと思うと許容できる。⑤はエッセイであり分かりやすさと深さが両立している。
 次に内容についてだが、あえて社会制度―個人の意識という切り分けをするならば①②が前者、④⑤が個人の意識を主として扱っているということになるだろうか。ただし性に関しては公領域と私領域が複雑に絡んでいるので単純な分類はできない。例えば④で「変わりたくない」、「女扱いはいやだ」という20代女性たちが登場するが筆者はこれを女性も男性と並んで社会に出て働かねばならなくなったからと分析している。主張として①③は同性愛・童貞が病理や犯罪、恥として問題視される社会が問題であるとする。③④ではコミュニケーション能力と恋愛との結びつきが語られ、恋人の有無が社会性の有無の評価に結び付くとしている。①②からは日本の家庭の中で性の話題を取り上げることが難しいことが読み取れる。②のオランダの例や⑤のように解放的に語ることが性に関する権利・要求を自ら実現する重要な手段なのだろう。

この五冊で共通しているのは「偏見や常識から離れて、新しい性のあり方やとらえ方」を説こうとする姿勢である。
 性教育・性習俗を考える議論において、だいたい合意がとれる結論は「多様な価値観・習俗を認めよう」という多文化主義的なスローガンである。しかし、この言は言うに易し行うは難しであり具体的で現実的な解決策とならず単なる逃げの口上となってしまうという側面を含んでしまうことがある。それを踏まえたうえで5冊が示唆してくれる解決策を考え分類していきたい。
①は異性愛者が同性愛者のことをよく知り理解することが重要だということは述べず、同性愛者は自身が抑圧されている現実を認識すると同時に異性愛者は自身が異性愛というセクシュアリティをもっていることを知ることが肝要だと述べている。また③では女性が童貞を蔑むあり方は、古来より男性が女性を値踏みしてきたことと同様の構造があるとして性も今まで女性がその値踏みに対して化粧等で対抗してきたように反抗することを提案する。両者で共通するのは平等観をもとに双方向的な解決のアプローチである。
 また④と⑤は現代のあり方を「病理」として問題として捉え、その原因を追及することで解決策を掲示する姿勢あると言えるだろう。④は女性を取り巻く環境の変化を指摘し20代女性に特別な配慮が必要であることを主張し⑤はフランス的な開放的な性の価値観を強く肯定する。②だけがアプローチが特異であり、日本の性教育を問題視するということに重点は割かれず、性教育のカタログを提供し続けようとする。そこで提案される解決策は実に様々であるが、肯定的に描かれるのは建前を排除し、いまそこにある現実は注視して現実的な解決をはかる姿勢であった。性といっても同性愛・エイズ・ジェンダー・バイアグラと幅が非常に広いが、肝要であるのは現実をありのままに見つめるという姿勢である。その姿勢はつまり偏見・常識というものを認識するということであり、5冊にも共通しているところであった。

 

コメントⅡ

法とは文字化された規範であり、制度を変えると同時に人々の意識にも影響を与えるものである。しかし法はあくまで表に出たものだけを扱う。性というのは個人の内面に大きく関わるものでありこの点は宗教と同様であるが、性は生殖という国家の存続に関わる機能も有する。だからこそ国家や社会は暗黙のものも含めてあるべき規範を用意し、そこから外れたものを病理・犯罪として排除するのだろう。法は人の内面に無理に介入することはできないが、個人的なことは個人的なことのままとして扱い、選択だけを尊重するリベラリズムの原理の下では結局偏見・差別は保存されたままになってしまうのではないか。個人的なことは政治的なことであるとはフェミニズムの言葉であるが、性をもっと社会の表側で積極的に、自由に語ることが必要なのではないかと思う。だが一方でインターネットでは性に関する情報が氾濫している。解放度のバランスを考えることが今後の課題となるのではないか。(成澤)

 性習俗が公的な規制をするということは非常に難しい。なぜならば元来、性とは個人的で内密なものであり内面から出てくるものである。それを規制する場合、多く取られるのが外面的な規制である。例えば、同性愛行為をしたものは処罰するなど、行為やあり方を規制することしかしない。これは当たり前の話で、内面的な欲望を規制することはあり得ないからである。これは性に関わらず、如何なる規制も同様である。
 しかし日本の性習俗において問題であるのは性に関する問題が秘匿なものとされ、盛んに議論されることを拒まれることがある。それは「空気を読む」「恥」などの文化から来るものであるのか、議論されることも忌避されたりホモやセックスなどがジョークとして多用される現状をみても明らかである。そこで考えたいのがコメントⅠにもあるように5冊でも共通していた現実の性習慣をありのままで見つめようとする姿勢である。この姿勢は日本における性を考える上で、どうあるべきなのか。ひとつの答えとして、私は日本の性を秘匿するという習慣・文化をまず見つめ直す必要があるのではないかと思う。②にあるようにオランダのような開放的な政策は理想的であるが現実の日本を見るところ、それは不可能であるのは明らかだ。では、そうした性教育を行うのを諦めるのかというとそうではなく、そうした「建前」「空気を読む」「恥」といった文化をうまく利用、取りこんだ性の規制が必要なのではないだろうか。
 5冊が指摘するように、例えば双方向的な歩み寄る形での解決策や全く新しい形の価値観など様々あるが、日本の社会・家庭によくあった解決策としておとしこんでいくところに重要性を感じるとともに、あらためて、難しさを感じる。(岡村)

ディスカッションの概要

大きく分けて4つの議題を扱った。最初に投げかけた議題は「どのような性教育(主に学校・家庭)を受けてきたか、そして改善の余地はあるか」というものであった。参加者の受けてきた性教育は様々なものだったが、学校では例えばエイズなどの生物学的な性が中心という意見が多かった。生物学的ではない知識はテレビドラマや先輩後輩関係・インターネットなど多種のリソースが見られる。家庭でははっきり教えられたことがなく、常識・当然のものとして性知識が扱われていたという声が複数あった。興味深かったのは保健体育で教える側の先生に照れが見られると生徒たちもあまり真剣になろうとしないが、年に一回招かれる外部講師による性犯罪や性についての講演だと生徒たちは真剣に聞くというものだ。ここからきちんと語ってもらえる場の必要性が浮かび上がってくる。
 ではオランダのように日本も性教育を積極的に行い、情報を十分にあたえるべきかという問いには、参加者の多くは肯定的であり性教育に関して開放的な政策を支持していた。ただ、なかには児童の性教育の知識にあわせて段階的な教育を行うべきという意見、見たくない者にも見ない権利を認めるべきという意見があり慎重論も見られた。
 同性愛の問題に関しては寛容的な意見の人が多く、その理由として同性愛者を身近に感じられる環境にあったことが挙げられた。中には同性愛者にアプローチを受け生理的な不快感を持ったことがある人もいたが、一方的な好意に対して抱く気持ちは異性によるものでも同性によるものでも変わらない。異性愛者が同性愛者に迷惑をかけないようにするのと同様に、同性愛者も他者の利益を侵害しない範囲で自由であるべきという結論に最終的には収束した。  そして最後は大人に対しての性教育はどうあるべきかという議題まで来たが、残念ながら残された時間は少なく十分な議論をすることはできなかった。
 大村先生からはマイノリティ問題という点で性と宗教の教育が比較できること、性はリスク教育というネガティブなものとして扱われているがポジティブ面に光を当てるとどうなるか、そのとき取り上げられるもの・抑圧されるものは何かということ、大人に対する性教育として近年で最大のものはセクハラであることが指摘された。性が見える方がいいのか・見えない方がいいのかという問いは今後も考え続けなければならないことだろう。
今回の反省としては2点あり、まず開放的な性教育は行われるべき、同性愛者に寛容であるのは自然という感想が多く述べられたが、ではなぜ日本では開放的な性教育が実際には行われていないのかまで突き詰めるべきであったことが言える。また性教育についてと言うと行為や生物学的なものに偏りがちで、ジェンダーや性によるパートナーシップについての性教育についてあまり議論できなかったのが残念だった。最後の大村先生の指摘のように、宗教と性ではその教育の構造に同じものがある。その構造が上記の性教育の施行にどのような障害となっているのか、個人的には興味の尽きないところである。