6 教育・学校

報告者:根本・奥村

課題図書

①山崎正和『文明としての教育(新潮新書241、2007)
②山崎思外里『大人たちの学校』(中公新書1602、2001)
③朴三石『外国人学校―インターナショナル・スクールから民族学校まで』(中公新書1970、2008)
④苅谷剛彦、増田ユリヤ『欲張りすぎるニッポンの教育』(講談社現代新書1866、2006)
⑤黒岩祐治『灘中 奇跡の国語教室―橋本武の超スロー・リーディング』(中公新書ラクレ394、2011)

課題図書の紹介

①山崎正和・文明としての教育(2007)序:★★ 破:★★★ 急:★★
終戦時、満州で生活しそれゆえ日本の学校制度とは全く異なる環境で学んだ中学時代。ナショナリズム色を排した学校で学んだ高校時代。また大学教員時代の学園紛争、コロンビア大学での教授経験。これらの経験も影響し、筆者は国家・政治に影響されない「文明」との関係で教育を捉えることが大切と主張する。
2章では様々な思想、事例を元に文明と教育の相互関係、また文化と文明について述べられている。文明とは世界観・技術・法制度など教育を通じて伝播可能なものを指し、文化は人間の体に染み付いた行動としている。3〜4章では、古代ギリシャから現代の国民国家までを概観しながら国家と教育の関係の変遷について、また5〜6章では鎌倉時代から日本の近代国家化と教育の関係について考察が加えられている。ここで筆者が主張するのは文明に関する「多元性の統一」であり、様々な世界観が相互に接触し、片方が他方に包摂されていくとしている。そしてその一方で文化は細分化していくことが指摘される。7章では、現在について国民国家の文明から地球市民の文明への過渡期であること、それに伴い国民としての統治教育と個人の生をより豊かにするサービス教育の両方が求められていることが述べられ、それに伴う学校の負担増について指摘されている。この議論を踏まえて現代の学校改革についての課題意識、また学校教育で扱う事項を普遍的な文明に絞り、ただし確実に身に付くように強制すべき、という提案がなされる。8章、終章ではこれまで扱って来た主張に沿って具体的な提案がいくつかなされ締めくくられる。
3〜7章で扱われた国家と文明、教育の関係は教育のそもそもの目的、役割を捉え直すのに有意義と考える。また、8章で扱われた国語・道徳・歴史教育の文明という観点からの考察、終章の教育と福祉に関する考察も興味深かった。
一方で、提言の多くは既に他の方面からも様々な形でなされている内容であること、従来の政策に対する考察や人の学習についての見方についてはやや不十分さが見られた。 総じて、現在の教育の意義を様々な視点から見直す契機を与えてくれた一冊といえる。(根本)

本書は、世界と日本の教育史を追いながら、文明と教育との深い関係性、特に国家と教育、近代化と教育との関係性を明らかにしつつ教育の本質について考察している。著者の山崎氏は以前文部科学省の中央教育審議会会長を務めていたことがあり、本書は彼が会長に就任する直前に「一個人としての所懐を表明」したものである。
 序章では著者が「教育の原風景」であるとする敗戦後の満州での経験が述べられる。第一章では著者の考える学校教育の存在意義が示され、第二章では文明は力でなく教育であることが強調される。三・四章で主に西洋の教育史を、五章で日本の鎌倉~江戸時代の教育史を俯瞰した上で、六章では近代国家成立以降の教育のありかたが述べられている。第七章では統治行為としての教育とサービスとしての教育という二つの教育が現在の制度に組み込まれていることが語られ、第八章では国語、道徳、歴史という三つの教育に焦点が当てられる。終章では著者が明日の日本の教育のためのいくつかの提言を行う。本書は、教育を歴史というタテ軸と地理というヨコ軸の両方からとらえ、事例を多用して幅広く論じているため、若干まとまりがなく読みにくいと感じられるかもしれない。しかしながら、教育(史)を概観する教養書としては面白く読めるだろう。
 全体を通して、なにを教育の目的とするのかという問題や、公教育の範囲をいかにさだめるかという問題が興味深い。著者が「教育の原点」と感じた「教育のための教育」から、「職業教育」に「全人教育」、第七章で論じられている「社会統合のため」の教育と「個人の自己実現のため」の教育に至るまであらゆる仕方で教育は分類できそうだが、その線引きは難しく、なにを重んじるかによって国家や個人の負担の度合いも変化する。文明は教育であり教育は文明であるというこの関係そのものが、教育に関する問題が一筋縄ではいかない所以ともいえよう。(奥村)  

②山本思外里・大人たちの学校−生涯学習を愉しむ(2001)序:★★ 破:★★ 急:★★
働く20代30代がキャリアアップのために学習するというイメージ、またプログラミングや英会話、ユーキャン等の通信講座など大人を対象とした学びのイメージが定着しつつある。本書が扱うのは、この「大人の学び」「大人の学校」である。1〜3章では、この「大人の学び」について誰が、何を、なぜ、どのように学ぶのかについて考察されている。そして4章では「大人の学校」の歴史的背景と行政との関わりについて考察され、5章では今後の生涯学習のあるべき姿について指摘している。
“カルチャーセンター”という言葉を聞いてもあまりパッと来ないのが現状だろう。しかし1974年、新宿に設置された朝日カルチャーセンターを皮切りに1980年代にカルチャーブームが来たこと、またその終焉にあたってはバブル崩壊に加え1990年に制定された「生涯学習新興法」が関わっていることは興味深い。教育行政のあり方についても考える契機を与えてくれる。(根本)

③朴三石・外国人学校−インターナショナル・スクールから民族学校まで(2008)序:★ 破:★★ 急:★★★
外国人学校と聞くと、イメージに登りやすいのは朝鮮学校やアメリカのインターナショナル・スクール(、ブラジル人学校も…?)だが、日本には現在200以上の外国人学校が存在する。これは世界的に見ても珍しいと筆者は指摘する。本書ではまず、そうした外国人学校について、筆者の視察体験を交えながらその様子を学校生活面(1章)、カリキュラム等の学校制度面(2章)から描写する。その後アジア系の学校(3章)、欧米・南米系の学校(4章)についていくつかの事例を見ながら特徴を紹介し、5章では日本における外国人学校の変遷について触れられている。最終6章では、外国人学校の法的位置づけについての議論が行われる。
宣教師の子弟に端を発する学校、中国朝鮮に限らず在日労働者の子弟のための学校など、様々な契機で設立された外国人学校について概観できることは興味深いとともに、「各種学校」問題など法的位置づけにおける問題も垣間見え、こちらも教育行政について考える契機となる。(根本)

④苅谷剛彦=増田ユリヤ・欲ばり過ぎるニッポンの教育(2006)序:★★★ 破:★★★ 急:★★
 本書は、学校教育にありとあらゆるものを求める「欲ばり」なニッポンの姿を批判し、「身の丈に合った」教育をするべきだと提案する。これは①における「教育のサービス面」を求めすぎているという指摘と重なるだろうか。日本の社会は教育改革に過度な期待を抱くが、人材や時間、お金を増やさずに教育の中身だけ増やそうとすれば必ずしわ寄せがくる。それが自己責任を求めることになり、格差にもつながるという議論は興味深い。本書の大きな特徴は、日本の教育の問題点を探る手がかりとしてフィンランド型の教育システムについて検討していることだろう。両者の比較により、日本の公教育、さらには日本社会そのものの特徴がより鮮明になると同時に議論に面白みが増している。(奥村)

⑤黒岩祐治・灘中 奇跡の国語教室―橋本武の超スロー・リーディング(2011)序:★★ 破:★★ 急:★
 本書は、神奈川県知事の著者が、私立灘中学・高校時代の恩師の情熱と個性にあふれた国語の授業を紹介することにより、教育とは、教師とはいかにあるべきかを問うものである。手作り教材を用いて中学3年間で中勘助作『銀の匙』を読み込む自由奔放な授業は生徒の興味関心を引き出し、学ぶことの楽しさを教えてくれたと述べ、「恩師」たる教師であれ、との提言とともにその条件を挙げる。教育の立て直しのポイントとして「教師」に焦点を当てている点において、教師の力量不足に言及する④と重なり合う。授業の内容や教師の人間像は大変魅力的だが、「超有名私立学校のカリスマ教師」といういわば特殊な事例に基づいているため、一般的な議論も展開しようとしてはいるものの説得力に乏しいと感じられるかもしれない。(奥村)

コメントⅠ

5冊のラインナップを著者の職業という点で整理してみると、学術畑・ジャーナリズム畑の2つに分けることができる。①著者の山崎氏、③著者の朴氏、④共著者の苅谷氏は大学で教鞭を取り、②著者の山本氏、④共著者の増田氏、⑤著者の黒岩氏はテレビ・新聞・雑誌等のメディア等で取材活動を行ってきた経歴を持つ。
①は思想的な、②③は統計やフィールドワーク結果、④⑤はそれぞれの取材・体験に基づくエピソードが織り交ぜられながら議論が展開されている。
今回のテーマを公教育−私教育の切り分けとするならば、今回題材に上る5冊は①④−②③⑤の2つに分けることができる。①は国家と教育のあり方を歴史・思想史を辿りながら大上段から考え、④では2006年時点での公教育に関する議論を様々な観点から考察している。一方、②は生涯教育に関する事例を、③は外国人学校に関する事例を、そして⑤では実績のある私立中高一貫校の特色ある授業実践について紹介し、一部公教育・教育行政に関する議論がなされている。また、議論の中心を1言で表すと ①公教育で大事にするべきことは何か④公教育はどのように意思決定・実施されるべきか−②③それぞれの実態紹介と公教育との関わり⑤教育実践の成功例とその実現方法の考察 と言うことができるだろう。①④の指摘は「公教育は扱う内容を厳選し、その代わり確実に実行するべきだ」とまとめることができるだろうか。②③⑤の書における、公教育や日本の教育に対する提言も「◯◯をするべきだ」という物の他に「◯◯はするべきではなかった」という議論があることは興味深い。
コメントⅡでも共通して考えることになるが、個人的に興味深かった指摘が3つある。「教育と福祉を混同してはならない」(①p.198)、「本当に私たちは、そこまで日本の教育制度をリフォームする必要に迫られていたのだろうか」(④p.80)「日本は学校に依存することで近代を作ってきた」(④p.92〜)教育課題の矛先をどこに向けるか、考える必要がある。(根本)

①③④⑤では教育の対象は基本的には子供であり、学校教育を中心に語っている。①④では公教育について述べられ、①は歴史に、④は国際比較に重点が置かれている。一方(③)⑤では私学について述べられている。私学の中でもその対象範囲は狭く、③では日本にあるさまざまな外国人学校が淡々と紹介され、⑤では有名私立学校の一人の教師に視点があてられる。これらに対し、②では教育の対象は主に学校教育を受けた後の大人であり、教育を提供するのは民間(カルチャーセンター)である。
 ①③④は主に学者の立場、②は民間の立場から書かれ、⑤では元生徒の立場から自身の母校での個人的経験が書かれている。①②④では公教育がカバーする範囲について言及がなされ、③も公的援助や法的位置づけに触れており、⑤以外からは国家と教育のかかわりが読み取りやすい。とりわけ①は統治と教育の結びつきを強調している。
 ①が歴史や思想を中心に比較的抽象的な議論が多いのに対し、②③④は現状の観察・考察が中心である。②はアンケートや統計などのデータを多用し、③は外国人学校の実態を述べることに終始し、④は海外での現地調査に比重を置いている。一方⑤では著者の経験をもとに一人の教師の魅力が語られており、個人的・具体的な側面が強い。
 内容について言えば、①④⑤は学校教育改革への疑問を投げかけている点では共通している。①と④は学校教育に求めすぎる日本社会を批判しており、ある意味教育改革の限界が見て取れる。⑤では教師の力量が良い教育の鍵とされ、自由教育の良さが説かれる。また、教育のありかたにおいて、②⑤は学ぶことの楽しさを重視しており、特に②は自己実現的な側面が強いが、③④は実社会に出ていく子供のための教育という側面が強い。①もどちらかと言えば後者だが、どちらともに言及がなされている。(奥村)

 

コメントⅡ

教育は、その成り立ちや歴史的経緯からして国家・政治とは切っても切り離せない関係にある。今回はコメントⅠから引き続く点を1点、また刑法との関係で1点提起したい。
1点目は、教育課題を解決する際にどのツールをどのように利用するか、である。おそらく多くの方の注目が集まるのは学習指導要領だろう。改正の議論の度にメディアで話題になることからもそれが分かる。また、2006年に教育基本法が改正された際も大きく話題になった。しかし、例えば公立学校の予算配分権を持っているのは 教育委員会であるし、教科書検定には教科書出版会社も関わる。実際に教壇に立つ教員に関わるのは教員養成課程・ 採用試験である。PTAはじめ保護者の方々の協力も不可欠だ。そうした中で課題解決のためにアプローチしなければならないのはどこなのか、今一度考える必要性がある。
2点目は少年法や刑法厳罰化に関する議論と、教育(生活指導面)の関係である。道徳教育に関する議論(①p.170)少年犯罪に関する再犯率の議論(④p.115)にも触れられているが、社会マナー的なものの教育を学校が担って来ている、担っていくべきとする考え方が存在する。今年話題になった、ソーシャルメディアで問題投稿をした高校生・大学生をめぐっての社会的な論調、死刑廃止・存続議論等とも合わせて、学校(・家庭)が担って来ている生活指導の役割を社会がどのような形で負担するのか、検討の余地があるように感じた。(根本)

教育は、人間を規律する役割を担い、国家の統治に欠かすことのできない存在であると同時に、人々の人生を豊かにし、人間が人間らしく生きていくための基礎をつくりあげてもいる。日本では、人々は教育を受ける権利を与えられ、教育を受けさせる義務を果たさなければならないことになっている。教育は人々を縛ると同時に自由にもする存在である。また逆に教育は、人々のライフスタイル、社会の変化、国家の要請、さらには個を重んじるのか集団を重んじるのかといった時代の風潮や伝統にも左右され、時と場所によってまったく違うものになりうる。教育が世界を作りあげていく一方でその世界によって教育が規定されていく鶏と卵のような関係があることがわかる。したがって、「教育を変える」「良い教育を目指す」とは言っても、複雑な問題を孕んでおりアプローチするには困難を伴う。
 とりわけ公教育は、法によって規律されたもので、あまねく人々が一定レベルの教育水準に達することを目的に行われるわけだが、実際どこまでの教育が必要であるのか。だれがどこまで負担すべきなのか。公私の役割分担については意見が分かれるところである。さらに、①④からは、法や制度の改革、たとえばカリキュラムや学習指導要領の変革ばかりに執着することへの疑問も浮かび上がってくる。中身を変えることよりもパイを大きくすることを唱える者もいる。法が教育においていかなる役割を果たすべきなのか、どこまで介入すべきか、議論の余地があるだろう。(奥村)

ディスカッションの概要

始めに、議論の土台を共有するために、参加者の出身学校の属性 、その教育の特徴、学校以外での教育機会を上げてもらった。出席者の中では私立6−国・公立9と私立がやや少ない結果となった。特徴としては私立学校出身者からは校風、校則、独特の授業(言語・宗教・歴史・文化)、一方公立高校出身者からは多様な生徒層、部活、大学受験への意識が上がった。特に宗教教育について上げた方が複数名いたことは興味深かった。また、学校以外の教育機会については家庭教育、塾(公文式 )、習い事(ピアノ、スポーツ、英会話教室)が上げられた。
続いて公教育の必要性について意見交換を行った。「公教育の定義」について見解が分かれる、という指摘を受け、(金銭アクセスについては無視し、)「学習指導要領」のように教育内容を縛ることの必要性についての議論として意見を出していただいた。統一の単位は議論が分かれる(道州制、国家単位、国境をまたぎ世界的な文脈)ものの統一は必要とする意見が多かったが、「転校等の子ども視点で考えると必要」「公的コミュニケーション(仕事)のために必要」「進路選択の可塑性を残すために必要」「国としての一体感を出すために必要」といった理由については意見が分かれ、また「小中までは統一にすべき」「歴史認識は、敢えて統一にしないことで外国と比較する視点を早くに身につけられるのでは」といった、内容・程度面についても意見が及んだ。
最後に、公教育改革の意義、公教育改革で視点を向けるべきポイントについて意見交換を行った。改革の意義については「土曜休みは生活パターンに変化を及ぼした」「技術家庭は影響があったのではないか」という意見があった一方、「それ以外に関して、学習指導要領の変更が大きく自分に影響したとは思わない」という意見や、「自分の総合学習を考えると先生に依る所が大きかった」と、学校ごとに改革の効果は異なる、という指摘もあった。公教育改革については、カリキュラム改革を行う際には教員の裁量についての考察が不可欠、という意見が出た。
最後に大村先生より「国民としての教育」「人間としての教育」「職業人としての教育」の3種類の教育が考察されていたこと、社会教育制度への意識と三権への市民参加の関連(大正時代の普通選挙、現在の裁判員裁判)、教育制度改革の実施例(大正7年の学制改革では大学成績の点数表記を止め、4段階評価とした)、仏・米の教育観 をご紹介いただく形でコメントをいただき、終了した。
個人的には、最初に時間を使いすぎてしまったこと、また「公教育」の定義を曖昧にしたまま議論を始めようとしたことが反省点でしたが、色々意見をいただき方向性が見えて来た部分がありました。また、公教育の必要性に関する議論では『文明としての教育』に沿った意見が複数見られて興味深かったです。意見を広げることがメインになってしまったが、他テーマ等を通じて内容を深められたらと考えています。ご協力、ありがとうございました。(根本)

はじめに、参加者の個人的経験に基づき私立・公立(国立)学校の特色や学校以外での教育について意見交換がなされた。学校によって特色はさまざまであり、一概に公教育・私教育と二分できるものではないという印象を受けた。続いて、すべて市場に任せた民間教育のみの世界になってもよいかいう議題から、経済的側面は除外して(全員が教育を受けられるという前提のもとで)教育の内容が一律であるべきか、という問題について意見交換がなされ、特に、我々が共通して持っているべきもの・教わるべきものが何であるのか、という点について活発に意見が出た。共通のコミュニケーション、国民意識などいろいろな意見出たが、最後の大村先生のお言葉にもあったとおり、人間としての教育、国民としての教育、職業人・生活者としての教育といった、教育をどの側面から見るかによる違いが顕著に表れており興味深かった。
 最後に、これまで我々が児童・生徒として経験してきたもの(ゆとり教育、総合的な学習の時間、週休二日制…etc.)も含め、学校教育制度改革が我々に与えた影響やその是非について議論がなされた。制度やカリキュラムが変わったことによる良い影響・悪い影響が個人的経験に基づいていくつか挙げられるとともに、制度を変えることそれ自体やその方法を疑問視する声もあった。
教育・学校という我々に非常に身近なテーマであったこともあり、活発に意見が出た。議論全体を通したまとまりには欠け、帰結点が見出されることはもちろんなかったものの、議論していく中で次々と新しい論点が生まれていった点では有意義であり気づきも多かった。教育について考える上での視点が多岐にわたることや、我々が生きている社会と教育、我々自身と教育とが相互に密接なかかわりを持っていることを参加者全員が身をもって実感できたのではないか。今回の議論をもとに各々がさらに考えを深めていけたらと思う。(奥村)