4 都市・建築

報告者:川本、舟田

課題図書

①隈研吾=清野由美『新・都市論TOKYO』(集英社新書、2008)
②多木浩二『都市の政治学』(岩波新書新赤版、1994)
③西川祐子『住まいと家族をめぐる物語――男の家、女の家、性別のない部屋』(集英社新書、2004)
④青木仁『快適都市空間をつくる』(中公新書、2000)
⑤オギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観――そして造景の時代』(講談社現代新書、1990)

課題図書の紹介

①隈研吾=清野由美『新・都市論TOKYO』(集英社新書、2008) 序:★★★ 破:★★★ 急:★★
 本書は、成熟期を迎えた東京に相応しい再開発を探りながら、実際に都市再開発に携わる建築家と、都市開発等を取材するジャーナリストの二人の著者が東京の現在、そして未来を考察するものである。
 序章において規制型都市計画の行き詰まりと、日本の都市を取り巻く困難を示し、第1回から第5回ではそれぞれ汐留・丸の内・六本木ヒルズ・代官山・町田を歩いて序章で示した問題点を実際に見て回る。そして、最後に発展著しい北京の街を歩き、翻って東京の歩むべき道を考える。ここでは、日本ではクライアントのリスク管理重視の姿勢から建築家がクライアントより劣位にならざるを得ないという状況と、北京ではこのクライアント側の「リスク」という視点がまだあまりないために建築家個人の創造性が発揮できるという状況の対比が興味深い。筆者が建築家であるゆえ、「都市論」というには視点は建築に偏重しているが、問題視するほどではないだろう。
 再開発の巨大化とリスク回避の姿勢、そしてグローバリズムが世界中で画一化した都市を生み出している、という指摘は丁寧な説明で納得できる。こうした現実に対して著者は、都市とは本来混在性を持つものであると主張し、そこに存在する人間のリアリティを求める。このリアリティを喪失しないために、土地の歴史や文化(人間の活動の現れと表現しうる)の活用を再開発において必要とすると著者は考えていると言えよう。だが、リアリティある都市が形成されている北京は結局成長期の開発であって、リアリティある成熟期の都市開発に対する答えは得られていないに等しい。加えて、日本の現状を嘆き海外に活路を求めていく建築家の姿からは、皮肉の裏に敗北感すら感じられる。だからこそ、「都市は迷子になって絶望しないとわからない」という言葉に繋がるのだろう。対談形式だからか、理論的に説明がなされるわけではなく、論を追う意味での読みにくさもあるが、都市開発に携わる人間だからこそ強く感じる絶望を具体例を通じて示してくれる興味深い本である。  

②多木浩二『都市の政治学』(岩波新書新赤版、1994) 序:★★★ 破:★★ 急:★
 本書は、都市の変容を通して現在の世界や人間について考察するものである。都市は人間の集合体が住まい、様々な力が働く場である。この集合体が技術・メディアの発展で巨大化するのに伴い、都市に働く人間が制御できない力が巨大化するも、対する人間の力は各地において同化していく。この結果、世界中の都市は均質化していく。ここで筆者が重視するのは、均質化が普通の人間の生活文化で起こっていることである。都市の均質化を指摘する点では①と同じだが、本当に指摘しているのは人間生活の均質化であるという点が特徴的である。約20年前に書かれた本だが、その議論は全く古びていない。

③西川祐子『住まいと家族をめぐる物語――男の家、女の家、性別のない部屋』(集英社新書、2004) 序:★★ 破:★★ 急:★★
 本書は、住まいを通じて日本の近代家族史と今後の展望を考察している。住まいはその中身たる家族のあり方によって変化する、ということがよく理解できる。家族のあり方はジェンダーと密接に関連している。すなわちジェンダーによる住まいの規定と読みかえるとき、①②で示された文化と建築の関連性をここでも見出すことができよう。加えて、グローバルな展望をも視野に入れている点も重なる。一方、相違点は、農村や、地方都市にも目を向けて論じていることが挙げられる。特に、地方都市の大都市との差異を指摘する点において、大都市に終始しがちな議論に一定の注意喚起をなしうる。

④青木仁『快適都市空間をつくる』(中公新書、2000) 序:★★★ 破:★★★ 急:★★
 なぜ日本の生活空間は魅力に乏しいのか。東京の生活空間を再点検してみると、「環境阻害物」の氾濫によって生活空間が猥雑で貧相になっていることがわかる。日本人全体が経済を優先し、生活スタイルをデザインできなくなってしまったことや、「低度利用主義」に基づく建築規制等がその原因である。過度の規制をかけている縦割り行政の変革を進め、生活者の視点に立って庶民のための生活空間をデザインすれば、快適な生活空間を創造することができる、と論じられている。

⑤オギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観――そして造景の時代』(講談社現代新書、1990) 序:★ 破:★★ 急:★
 観察主体の視点が絶えず移動する日本の風景と、近代的な主体が「環境」を客観視することにより成立した西欧の景観。これらを野生空間、田園、都市について比較検討する。さらに、ポストモダン(造景の時代)には、西欧のポスト二元論と東アジアの非二元論の総合により、環境に向けた自身の視線を客体化することで風景を管理できるようになる、と論じられている。

コメントⅠ

著者の立場及び内容の視点に関して比較検討する。①では建築家・ジャーナリストである著者が、都市開発や再開発を手掛ける側の視点及び都市を利用する者の視点から論じている。④では都市基盤整備公団再開発部居住環境整備部長である著者が、都市空間を利用する者の立場及び都市空間を創造する者の視点から論じている。①④では実務家の著者が都市計画に直接関わるものの視点から論じている。一方、②の著者は思想家・批評家、③はジェンダー論の学者、⑤は地理学者である。②③⑤では研究者である著者が、いわば外部の視点に立って客観的に観察・考察を行っている。
 議論の範囲について比較検討する。空間的範囲に関しては、③住まいと家族、④生活空間・街並み、①東京の街、②都市という人間の集合体、⑤風景、という順に大きくなっている。時間的範囲に関しては、現在に主眼を置いている①④、明治期~現在を時系列に沿って論じている③、国民国家の成立~現在を論じる②、古代ローマ~現代の風景を論じて⑤、という順に長くなっている。その結果、比較的狭い範囲について論じる①③④は具体的な都市利用者、家族、生活者といった視点を重視し具体的な問題提起・解決策の提示を行っている。論じる範囲が広い②⑤は大まかに都市や風景というものをとらえ、抽象的に論じられているように思われる。

 

コメントⅡ

都市は人間が生きる空間である。このことは、①~⑤全てにおいても共通の理解である。この生活空間において、人間は快適に暮らすことを望む。そして、この空間のデザインをするものが建築であると位置付けられよう。必ずしも都市と建築は結び付けられるものではないが、建築物はそこで人が活動するために作られるものであり、また建築物相互の配置その他で人間の行動も規定されるものであるから、都市=人間の生活空間にとって重要な役割を担うことは否めない。
 それでは快適な都市空間をつくるために法は何ができるか。④では建築基準法その他、現行法制度の不備が強く批判されている。ここでは人間生活に視点を置いた法制度への転換によって快適な都市空間形成がなされうる、ということが主張されている。
 一方で、②では都市は人間の文化の表象と捉えられている(文化が知覚の図式をつくるという⑤との類似性にも着目されたい)。文化=人間の所産には建築も法制度も等しく包含される。このことからすれば、④の主張とは反対に建築が法制度を主導して都市を創造するという図式の可能性が存在することも指摘できよう(寧ろ、法は後追いと言われることのほうが多く散見される)。結局、望ましい都市空間を形成するために法に期待されることは、文化の根本たる人々の思想・思考の変化に敏感に反応し、それに見合った制度を整備することで建築その他の人間活動をリードすることなのだろう。法律の特性上迅速に進められない制度整備とのジレンマの解決や、法制度をつくる立場になる者の広い視野が求められることなど、課題は少なくない。

ディスカッションの概要

はじめに、「都市」という言葉のイメージを共有した。人間の生きる空間であると同時に商業が行われる場である。交通が大事である。田舎・ムラとの対比でとらえる。設計された1つのシステムである。といったイメージが提示された。
 次に、「東京」という都市の問題点について指摘してもらった。自転車で走りにくい。隣人の顔を知らず不安。秩序がない。一方で、秩序づけられると規律されかえってよくない。といった意見が示された。また、東京には渋谷・新宿・池袋といった「中心」がたくさんある。それらの都市にはチェーン店ばかりで個性がない。とはいうものの渋谷と新宿の違いが個性ではないか。渋谷の新宿も池袋も同じに感じる。渋谷などの一つの「中心」で事足りてしまうため「中心」同士が分断されているように感じる。分断の原因は地下鉄ではないか、といった意見が提示された。ここでは、「都市」のイメージの議論と比較して相反するものが多かった。
 都市と並ぶテーマである「建築」という観点から見た都市についての議論に移った。建築はそこに集まる人間を「規制」する、具体的には、六本木のような明確なコンセプトを持つ建築は集まる人間を明確化するのではないか。商業という観点から見たときに、周囲の建築物との差別化を図ろうとするため奇抜になりがちであるが、その一方で周囲と調和したら埋もれてしまう、そこにおいては、埋もれるに見合うブランドがその街にあればいいのではないか。街に訪れ、街を使う人の視点から、コンセプトがはっきりしていると良い街といえるのではないか。しかし、スカイツリーのようなコンセプトがはっきりした建築物は、一回きりになってしまわないか。外部から見て、街全体として秩序があることも重要ではないか。といった議論が交わされた。
 東京には渋谷のようなゴチャゴチャした街や、丸の内といったキレイな街、広尾などの落ちつている街があり、どの街に行くか選ぶことでうまく使いこなせる。今や下北沢・渋谷といった元気な街では疲れてしまう、どの街が合うかはライフステージによって変わっていく。等の意見が示された。
 法と都市・建築の関連についての議論に移った。法には安全性といった最低限のことがらしか求めない。規制より権利に注目したほうがいいのではないか。法を学んでいると「自由」を制約する規制には抵抗感がある。行政が街づくりや、建築家が街づくりにかかわることができる制度作りを推進していくべきである。建築の自由と公共の福祉をいかに調和させるかが問題である。といった機論がなされた。
 最後に教授から、住宅地の環境維持のためにとりうる方法などが示された。また、ライフステージにおける感じ方の変化への着目への指摘も改めてなされた。
 「都市」という漠然とした言葉のイメージから、最後は法との関係に議論が進んだ点はよかったが、法との関連性の議論に残った時間が少なくなってしまった。また、漠然としたテーマをゼミ内で共有することを心がけられたのはよかったが、全体として繋がりのある議論にはなかなか導けなかったことも反省点として挙げられる。