コミュニケーション(言語)と法―まとめに代えて

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1 再び、「コミュニケーション」と「法」について

 ゼミの初回に、「コミュケーションと法」のほか、「レギュレーションと法」「文化と法」というテーマ設定は、フランスの民法学者J・カルボニエに負うと述べた。いまここでは、日本の民法学者穂積重遠に依りつつ、「コミュニケーションと法」というテーマ設定について再説してみたい。
 穂積重遠の『判例百話』(日本評論社、1932)の巻頭には、50頁ほどの「法学入門」が収録されているが、その中に「法律の用語文章」という一節があり、明治7年1月18日太政官布告第5号という法令が紹介されている。次のようなものである。〔資料参照〕
 この法令は形式・内容の両面で興味深い。まず、内容についてであるが、この法令は海上交通に関するものである点に注目してほしい。次に、形式については一目瞭然であるが、左右にふりがながあり、右側は読み方を、左側は意味を示している。さらに「付言」では、暗記方法まで懇切に示されている。
 「コミュニケーション」の語源は、ラテン語のcommunicatioであるが、この言葉はcommerceあるいはrelationsという意味を持っていたという。そもそもcommerceには、bussinessという意味とintercourseという意味がある。つまり、物や人が行き来すること、より広く人と人が関係を持つことを指すわけである。カタカナの「コミュニケーション」は人と人との通信を指すことが多いが、通信は商業や旅行の際の手段にほかならない。このことは、ギリシャ神話のヘルメス(マーキュリー)が、神々の使者(通信手段)であるとともに、商業・発明・旅行の神であることからも理解される。
 海上交通(広く交通)は取引のための手段である。したがって、海上交通の法は、「コミュニケーションの法」にほかならない。交通ルールは、交通というコミュニケーションを成り立たせる重要なルールであるが、交通手段によって取引される(行き来する)のは、「人」「物」そして「情報」である。
 繰り返しになるが、ここで確認しておきたいのは、(広義の)コミュニケーションとは、(社会を成り立たせる)人・物・情報の交換のすべてを指すのに対して、(狭義の)コミュニケーションとは、そのうちの情報の交換を指すということである。そう考えるならば、(広義の)「コミュニケーションの法」=「交換の法」には多くの法が含まれることになる。むしろ、「コミュニケーションと法」というのは、「交換」という観点から法に迫ろうという「スタンス」であると解した方がよい。
さて、「情報」という観点に立った場合、「法」自体が情報であることもまた確かである。それゆえ、「法のコミュニケーション」が必要になることもある。(暗黙裡にであれ)人々に全く知られていない法は法とは言えないだろうから、コミュニケーションは法の重要な属性であるとも言える。フランス民法1条や法の適用に関する通則法1条が、法律の公布・施行について定めるのは、極めて重要かつ象徴的なことである。
 しかし、ここには一つの隠れた前提が潜んでいる。かつて慣習法の支配した時代には、人工的に伝えられなくても法の知識は自然に獲得された。ところが、法律(制定法)の時代には、このようなことは期待できない。だからこそ法の公布(publication=公示)が必要になるのである。そして「法の不知は恕せず」という法格言があるように、制定法の人工性はそれが適用される人々との関係である種の摩擦を引き起こす(あえて言えば、抑圧的な作用を及ぼす)。ここに「コミュニケーションとしての法」の難しさがある。
 近代日本においては、この問題はさらに増幅される。新法の多くは西洋伝来のものであったからである。太政官布告の定める海上交通のルールはその典型的な例であろう。そうであるがゆえだろうか、この太政官布告は、法の知識の重要性(あるいは普及の困難性)につき鋭敏な感覚を見せる。
 コミュニケーションのためのルールは人々に十分に知られていなければならない。そのためには、ルールのコミュニケーションにも十分に意を用いなければならない。太政官布告の例は、「コミュニケーションと法」という問題群(プロブレマティク)のありようを集約的に示すものとなっていると言えるだろう。

2 サブ・テーマの分類

「コミュニケーションと法」というテーマの下で、具体的に取り上げたサブテーマは、順に、仝生豎悄↓▲魯薀好瓮鵐函Δい犬瓠↓B昭圈集団、ぅャラクター、ナ験愃酩福↓宗教、Ш絞漫↓┗洞僧蓮↓ジャーナリズム、認知、動物の11であった。いずれも(狭義の)コミュニケーションに関するものであったが、「社会を構成する」(faire société)という観点に立つ着目するならば、後述するようにゼミの議論は、(広義の)コミュニケーションにも及んだと言える。
 11のサブ・テーマはいくつかの観点から分類可能であるが、ここでは次の3つに分けてみたい。これは私が、サブ・テーマが決まった段階で想定した分類である。
 第1のグループは、仝生豎悄↓認知、ナ験愃酩福↓ジャーナリズムである。今回のゼミのテーマは、正確には「コミュニケーション(言語)と法」であったが、第1グループのサブ・テーマ群においては、「言語」に関する問題が扱われたと言うことができる。「法」もまた言語による営みであるため、法に対するまなざし(法学)と言語に対するまなざし(言語学)は共通点を持たざるを得ない。文学についても同様のことが言える。他方、言語のあり方は人間の認知メカニズムと密接に関係しており、その関係に関する知見は、法学にも及びうる。ジャーナリズムの扱い方はやや難しいが、認知への影響という観点を挙げておく。あるいは、ジャーナリズムを批評と置き換えるならば、「文学」や「法学」との大きな接点が現れることになる。もっとも、ゼミの実際の議論では、は(さらにイ癲縫泪ぅ離螢謄との関係に関心が集まった。そうだとすると、むしろ第3グループとの親和性が高いとも言える。
第2のグループは、ぅャラクター、宗教、動物である。これらは、「言語」の外でのコミュニケーションの可能性にかかわるものとして一括することができる。ところが実際の議論においては、い蓮近代・ポスト近代という視点を媒介にして、イ抜悗錣襪海箸砲覆辰拭また、Δ砲弔い討蓮当然のことながら、議論は「法」「道徳」との関係に及んだ。このサブ・テーマは、来年度のテーマである「レギュレーション(教育)と法」へと繋がるものであったと位置づけたい。では、「動物」の概念に興味が集まった。その意味では、と連続性のある議論になったように思う。もっとも、きΝに何らの共通性も見出されなかったというわけではない。ゼミの議論においては、これらのサブ・テーマを通じて、はからずも「近代」というものの特色が議論の対象になったように思われるからである。
 第3のグループは、B昭圈集団、┗洞僧蓮↓▲魯薀好瓮鵐函Δい犬瓠↓Ш絞である。コミュニケーションの前提として、他者・集団をどのようなものとして捉えるか、コミュニケーションに際して、相手方への影響力をどのように考えるか。一方でこうした総論的な議論をしつつ、他方、ハラスメント・いじめや差別といったコミュニケーションの病理というべき現象を取り上げる。これが素朴な図式である。実際には、ここでもマジョリティ・マイノリティ問題が論じられ、あわせて、認知枠組の変化という問題もかなり強く意識されていたように思われる。

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1(法との関係に関する)コメント兇砲弔、何が論じられたか

 「コミュニケーション」と「法」との関係については、いくつかの話題が繰り返し論じられることになった。
第一に、全体の中心となったのは、法とは何かという点であった。いくつかの視点につき議論が交わされた。特に、法の自然性・人為性、あるいは客観性・主観性については何度も話題になった。具体的には、言語との関係で、法を「在るもの」ととらえるか「作るもの」としてとらえるかが( 法⊇ゞ気箸隆愀犬如∨,蝋舁性や客観性によって支えられているか(Α砲話題になった。また問題は、法の理解にあたって、通用性・実効性(実力・事実)を重視するのか、合理性(正義・当為)を重視するのか、という形でも現れた。抑圧や差別を内包せざるを得ない法という存在への疑問(А砲提示され、規範的な妥当性とは別に生じる法の事実的な影響力(─砲悗慮正擇なされた。
 他方で、法を変化・生成の相においてとらえる見方も、繰り返し述べられた。「発話と文法」を「判決と法規範」と対比する視点は、必ずしも十分に展開されなかったが( 法△修慮紂他者や社会への働きかけとの関連で、「構成的体制」と「日常実践」の相互性が指摘された()のに続き、判例法の生成を「データベース的」と理解してよいかという議論も展開された(ぁ法
 また、法や文学の抑圧性が繰り返し話題になったが(↓キА法同時に、法概念の発見機能(◆砲肪躇佞促されるとともに、法への期待、ジャーナリズムへの期待も表明された(Л)。
 法のコミュニケーション的な生成(「コミュニカティブナな法」)に対する希望は確かに抱かれている。しかし、本当に私たちはそれを信じることができるのだろうか、という疑念は完全には払拭されていない。
 第二に、時に、近代法が前提とすると解されるいくつかの観念が再検討に付された。一つは「主体」であり、もう一つは「家族」「セクシュアリティ」である。「主体」は存在しうるのか、という問いは今では紋切型のように見えるが、近代文学・ポストモダン文学(きァ砲鯆兇┐董影響力(А砲鬚瓩阿辰特の影響も受けない決定者・発明者はいるのだろうかという具体的な問題が議論されたのは、法的な観点からは意味があった。マジョリティとマイノリティ(キА法著作権(き─砲繰り返し話題になったのも、この点と関係があろう。なお、他律はなぜ悪いのか、という問題提起も興味深かった(─法「家族」に関しては、セクシュアリティを家庭内に囲い込んだ「家族」の抑圧性が語られるとともに(キА法他者との関係のあり方を構想する際のアナロジーの出発点として「家族」の創造性への言及もなされた()。
 第三に、法規範を支える司法制度や法学にかかわる議論もなされた。裁判現象の部分性や広義の司法関係職の重要性に関する指摘(◆法テクストの解釈に関する議論(ァ法∨,分類類推の意義への言及()などは、それぞれさらに深めることができる話題であった。
 他方、実定法学が、科学性の砦に自閉することなく実践性を維持しようとする場合に何が問題になるかという観点からは、ジャーナリズムに関するコメントが示唆に富んでいた()。システムの周辺に位置する立場の得失、世論の覚醒を促すのに世論に依拠するというパラドクス、これらはいずれも法学が抱えている問題でもある。ここでもコミュニケーションのあり方が問題になっている。

2(共通課題本から出発した)コメント気蓮必要だったか

 最後に、議論のしかたについて、一言しておく。このゼミでは、「コミュニケーションと法」の関係を(コメント兇亡陲鼎)直ちに議論するのではなく、共通課題本を中心としつつ参照本を考慮に入れて、それぞれのサブ・テーマをめぐる一般的な問題につき(コメント気亡陲鼎)議論をするという段階を設けた。
 このことについては賛否両論があるだろう。ただちにコメント兇某覆爐燭瓩砲蓮一定程度の背景知識と問題意識の共有が必要となる。コメント気蓮△海両魴錣魘畛的に獲得するために設けられた。コメント気忙間を費やさなければ、コメント兇砲弔い討茲衫ち入った議論ができた、という見方もあるであろう。場合によっては、それは当たっている。しかし、コメント気なければ、コメント兇亡悗垢覽掴世眄り立たなかったという場合もあったことだろう。
 なお、議論そのもの仕方は、全体として創発的であったと言ってよいように思う。ゼミの空間を支配していたのは、他の人との論争に勝とうというのではなく、相手の意見をよく聞いて、よい議論を創り出そうというエスプリであった。極端な意見や結論のはっきりしない意見も、議論の場を刺激するという役割をよく果たしたように思う。

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