「最近、機嫌が良いわね」
長い間続いていた悪夢から解放された手塚は、夢を見る前よりも充実した毎日を過ごしていた。
「そうですか?」
母親に話し掛けられ、持っていた箸を置いた。
家族と共に朝食を摂るのが手塚家の朝。
丁度真向かいで食事を食べていた彩菜が、機嫌良く食事を食べている息子の様子に首を傾げていた。
つい数日前までは意気消沈としていた顔が、今はすっきりした顔になっている。
そう感じるのは家族の中でも彩菜だけだったが。
「何かあったのかしら?」
「いえ、特には…」
「そう?それならいいのよ」
会話が途切れると、手塚は食事を再開した。
たとえ家族でもプライバシーがある。
彩菜はこれ以上訊き出す事はしない。
「お茶を淹れるわね」
「ありがとうございます」
顔色が悪い時は食事の進み具合も平行して遅くなっていて、言葉にはしないがかなり心配をしていた。
このしっかりしすぎた息子は、弱音を家族の前に出す事をかなり嫌っていて、これまで何でも自分で解決していたのを知っている。
今回も同じように自分自身の手で解決したのだろう。
彩菜は無表情でも機嫌良く食事を摂っている息子を見て、とても満足な顔でお茶を飲んでいた。
あの日から1週間後、まず手塚は大石に夢が解決したと告げた。
但し、リョーマとの関係は黙っておいた。
まだ世間では認められにくい関係を自分から口にするのにはかなり勇気が要る行動で、手塚は「まだ言うべきではない」と黙していた。
それから1週間後に、不二にリョーマと交際する旨を告げる決意をした。
またしても昼休みの部室で。
「越前と付き合う事になった」
部室に入り扉を閉めた途端、手塚は口を開きリョーマとの関係を簡潔に伝えた。
「そう、そうなんだ…おめでとう、手塚」
「…不二、お前は知っていたのか?」
絶える事の無い笑みを浮かべてはいるが、どこか微妙なイントネーションに、手塚は深呼吸を一つして不二に訊ねた。
「何を?」
「越前も俺と同じような夢を見ていると…」
手塚は不二へ事の経過を話すと共に、疑問だった全てを聞き出すつもりでいた。
1週間もの間、手塚は不二の様子を探っていた。
本人から『監視してもわからない』と念を押されていたが、その通り見た目では何もわからなかった。
…わからなかったが、何となくわかってしまった。
きっと自分の考えは間違っていない、と思う反面、間違っていて欲しいと願う思いもある。
「…相談されたからね」
「では、お前が好きな相手とは…」
これが一番重要な疑問だった。
訊きたくないのが本音だが、このまま訊かないと何も始まらない気がしていた。
「君と同じ、越前リョーマだよ」
何となく予想はしていた。
あの日の何とも説明し難い表情の理由は、自分が想いを寄せる相手に別の人物も同じ想いを寄せていた事への、嫉妬にも似たような感情からだったのだ。
恋愛に障害は付き物だが、身近な存在が障害になるほど厄介な事は無い。
今までの関係が拗れてしまう可能性があり色々と難しい。
「でも越前は君が好きだったからね。諦めるしか無かったよ」
「不二…」
不二の片想いの相手は自分の両想いの相手。
「これが夢だったら良かったのに、現実って本当に厳しいよね」
不二はベンチに座り、まるで手塚ではなく自分に言い聞かせるように語り始めた。
「それとも夢に悩まされるほど、好きじゃ無かったのかもしれないね」
君達みたいに、と締めくくると颯爽とベンチから立ち上がり扉に向かって歩く。
「本当にそうなのか、不二!」
「……僕はね、君の背中を押してあげる気なんて全然無かったんだよ。でも越前の…あの子の幸せを考えるのなら、君が動かないと駄目なんだ。僕じゃ駄目なんだ…」
背中を向けたまま独り言のように話す。
不二は手塚よりも前にリョーマから相談されていた。
『だって不二先輩だったら色々と経験ありそーだし…それに、優しいから…』
これが不二を相談相手に選んだ理由。
これまでリョーマへの想いからしてきた全ての行動が、全く意味の無かったものに変わってしまった。
『こんな相談の為に優しくしていたつもりじゃない!』
叫びそうになった自分を抑えたのは、先輩としての意地だったのかもしれない。
たとえそれを口にしたところで自分達の関係は何も変わらないからかもしれない。
それとも、諦めにも似た感情からかもしれない。
誰にも心は縛れない。
感情はその人の自由だ。
リョーマが手塚を想うのも自由なのだ。
不二はリョーマの為に出来る限りを尽くそうと、この時決意した。
これが自分に出来るリョーマへの恋の証。
「…伝えなくてもいいのか?」
「あの子が幸せになってくれれば僕も幸せだから。それにあの子は僕の想いを知らないんだよ?君が好きなのに何も言えないじゃない」
今でもはっきりと覚えている。
『あの…少し時間、いいですか』
夕方の部活の時に、神妙な面持ちで不二に話し掛けてきたリョーマ。
『うん、いいよ』
人の良い先輩面をして何度も相談相手になっていたけれど、心の中は悔しさで一杯だった。
何度もこの胸の想いを伝えたかった
でも…出来なかった。
伝えてしまえば、自分を裏切る事になる。
「僕は今でもあの子が好きだよ。だから想う事だけは許して欲しいんだ」
同じ相手に恋をして、その恋を成就した手塚と対照的に恋に破れた不二。
こちらに振り向く可能性はゼロに等しいが、この胸に生まれた想いは正真正銘、本物だ。
出来るのなら消したくない。
「あぁ、想うのは自由だ」
「ありがとう」
どこか寂しげな表情で微笑む。
「いや、全てお前のおかげだ。礼を言うのはこちらだ。本当にありがとう…」
不二の気持ちを察し、手塚は礼を口にした。
「どう致しまして、じゃ僕は先に戻るね」
軽く笑うと低い金属音を立てて扉から出て行った。
次第に遠ざかる足音を聞きながら、手塚はベンチに腰掛けて色々と考えていた。
「恋愛とは難しいものだな」
頭を抱えて、ぼんやり物思いに耽る。
初めて芽生えた感情に、自分はどこか浮かれていたのかもしれない。
お互いだけの感情だけなら何も問題が無い恋愛に、誰かが侵入してくる事だって有る。
自分の場合は侵入ではなく、自覚する以前から他人が介入していた。
簡単に言えば、自分の方が後から割り込んで来たのに、さっさと掻っ攫ってしまったのだ。
「そんなに難しいものなの?」
眉間に皺を寄せていると、頭上から声が降って来た。
「越前?」
その声に頭を上げれば、今では大切な恋人になったリョーマが立っていた。
「どうした」
一体、何時の間に入って来たのか、なんて事はこの際後回しで、とりあえず物思いに耽るのを止めると、手塚はリョーマにしか見せない笑みを作る。
「あ、部長と不二先輩が歩いていくのが見えたから…」
『迷惑だった?』と訊かれて『迷惑だ』なんて答えられるはずなど無い。
むしろ、こうして休み時間に会えて嬉しい。
3年生と1年生が校内で会う機会はかなり少ない。
「いや、立っていないで座らないか?」
「…ん」
ちょこんと手塚の横に座った。
2人きりになれば、部活中や校内で見かける姿とは異なった姿を見せる。
ぶっきらぼうな言葉遣いも、やる気の無さそうな態度も全てが消え去る。
手塚だけに見せる、歳相応の姿。
「ごめん…」
突然リョーマが謝る。
「何を謝るんだ?」
「…追いかけて来て…」
2人が歩く姿を見て、リョーマは知らず知らずのうちに追い掛けてしまっていた。
「不安にさせたか?」
手塚の肩に頭を預ける事で無言の返事をした。
リョーマもこれが初めて恋だった。
自分の知らないところで、好きな相手が別の人と歩くだけでも心が乱れる。
同じテニス部の仲間ですら嫉妬する。
何を話すのかが気になって仕方がない。
意識しないでいようとしても、過剰反応してしまう。
「そうか…すまなかったな」
「ん…別にいいよ」
手塚は不二の想いをリョーマに伝える気は無い。
それに不二がそれを望まないだろう。
「…越前」
小さな肩を抱き寄せ、手塚がリョーマの髪に軽く口付ければ、ピクッと小さく反応して身体を離す。
「…部長ってば、ドキドキするから止めてよね」
自分の一挙一動に敏感に反応してくれる。
甘えてくる仕種が嬉しい。
他人とのちょっとした態度の違いに優越感を感じる。
「越前…そろそろ『部長』を卒業しないか?」
その優越感をもっと感じたい。
告白をしてからたった1週間しか過ぎていないのに、貪欲に求めてしまう。
「どーいうコト?」
意味がわからないのか、リョーマは首を捻るだけ。
「俺達は付き合っている」
分からないのならゆっくり説明しようと、手塚は言い聞かす様にリョーマの目を見ながら話す。
「うん」
コクンと首を縦に振る。
「世間一般でいう恋人だろう?」
「…そうだね」
“恋人”の台詞にほんのりと頬を染める。
「だから、呼び方を替えてくれないか?」
「…それって、もしかして…」
連想ゲームを思わせる話し方に、リョーマは手塚の言いたい事が次第にわかってきた。
「あぁ、2人きりの時くらい名前で呼んで欲しい」
「やっぱり…下の、だよね?」
「そうだ、リョーマ…」
突然名前で呼ばれて、リョーマは思わずビクンと大きく反応をした。
「何か、すっごくドキドキした…」
「そうか?」
胸の辺りを押さえて、リョーマは横を向く。
家族はもちろんの事、部活の顧問や友人からは何度も呼ばれている自分の名前なのに、どうしてこれほどまでに胸が弾むのだろう。
(ナンだろ?不思議…)
瞬間的に固まった身体が解けると、ふわふわした気持ちが胸を占める。
好きな人から名前を呼ばれるだけで、こんなにも良い気持ちになれるのなら呼んでもいいかもしれない。
自分と同じ気持ちになって欲しくて手塚の名前を呼ぼうとしたが、口を開いたっきり固まってしまう。
「リョーマ、どうした?」
動かなくなったリョーマに手塚は声を掛ける。
「あっ、えと…俺、部長の名前…知らないんだけど…」
語尾はかなり小さくて聞こえなかったが、言い難そうにしている姿に手塚はリョーマが何を言ったのかわかってしまった。
「…お前らしいな」
いきなり呼び方を変えようとしても、リョーマは手塚の名前を知らなかった。
「…ごめんなさい」
想い人の名前すら知らなかった自分に落ち込む。
部員全員の名前を言え、と訊かれても答えられないのはきっと自分だけではないはずだが、夢にまで見ていたこの人の名前を知らない自分が情けない。
「…多分、何回か聞いているんだよね…」
部活の部長だけでなくこの学校の生徒会長もしている彼だから、どこかで名前を聞いているに違いない。
名字だけなら部活中に何度も口にしているが、流石に下の名前までは口にする機会なんて全く無い。
何を言っても言い訳にしか聞こえなくとも、手塚は怒る素振りなど見せないで、リョーマを見つめている。
「今から覚えてくれればいいんだ」
そう、今からでいい。
初めから何でも出来る人間なんていない。
恋だって同じだ。
ゆっくりステップアップしていけばいい。
ゆっくり2人で。
「…じゃ、そうする」
「ならば覚えてくれ。俺の名前は国光だ」
「…くにみつ…ね…国光…何か照れくさいね」
初めて舌に乗せた想い人の名前。
「そうだな。だが、やはり嬉しいものだ」
眼鏡の奥の瞳が嬉しそうに細められる。
家族しか名前で呼ばない。
級友からは名字で呼ばれている。
そして今、家族以外から名前で呼ばれた。
「俺が名前で呼ぶのはリョーマだけだ」
誰に対しても礼儀として名字で呼んでいた。
どれだけ仲が良くても決して名前で呼ばないと自分に言い聞かせていた。
だが、そんな自分の決意が粉々に砕けた。
リョーマだけは違う、何よりも特別な存在だ。
「俺だけ?」
「あぁ、だが2人きりの時だけだからな。リョーマもそうして欲しい」
特別な関係になったからといって、お互いにお互いの生活がある。
分別をつけなくては、恋に溺れるだけだ。
それでは2人ともが駄目になる。
「モチロンだよ。やっぱり部活中に名前で呼ばれたら困るし…ぶ、部長?」
にこ、と微笑む顔があまりにも可愛くて、手塚はリョーマを抱き締めていた。
「違うだろう…」
「…えっと、国光…」
リョーマの口から名前が発せられると、手塚は更に強く抱き締めた。
同じ想いだと知ったあの日から、手塚は事あるごとにリョーマを抱き締める。
抱擁は手っ取り早く相手の存在を確かめられる手段の一つで、手塚はこうして夢ではない現実のリョーマの存在を確かめている。
温もりは安心感を与えてくれる。
波打つ鼓動はここに生きている証拠を与えてくれる。
「…好きだ…リョーマ」
自分の気持ちに気付いた今は、心の底からそう思う。
どこに惹かれたのか?と訊かれて、しっかりした答えを出せる自信はまだ無いが、この想いに偽りや嘘は無い。
「俺も国光が好きだよ」
だから言葉でも伝える。
どこか幼稚で、安っぽい言葉かもしれないけど、声に出さなくては伝わらない想いがある。
声に出すたった二文字の『好き』という想いは、身体でも心でも感じられ、身体だけ求めていた夢とはまるで異なる。
「リョーマ」
「…国光」
こうして見つめ合って名前を呼び合うだけで、心に暖かい何かが流れ込んでくる。
予鈴が聴こえるまで2人は抱き合っていた。
不二の想いを知った今、手塚はこの恋をしっかり育てていこうと決心していた。
きっとどこかで不二と同じように、リョーマに好意を持つ人がいるに違いない。
人の関心をどれだけ自分自身が惹き寄せているのかを知らないから、リョーマは異性はもちろんの事、同性から好意を持たれても、全く意識しない。
たとえ意識しても、誰にも渡すつもりは毛頭無い。
漸く手に入れた掛け替えの無い存在。
悪夢を終わらせてくれたこの相手を、誰にも奪われたくない。
頑なな手塚の想い。
しかしリョーマも同じような想いを持っている。
言葉では伝えなくても、きっといつか必ず伝わる。
その日はいつかやって来る。
悪い夢から覚めたように、必ず。