あれから数日が過ぎたが、これといって変わらない毎日を過ごしていた。
…ただ、夢を見ているだけで。
始めの頃と違い夢を見ても嫌悪感を抱かない様になってしまった。
それどころか。
現実世界の相手にも触れたいと願う様になっていた。
生身の身体に触れて、その感触を確かめたい。
夢のように出来たら、と。
出来るはずも無いのに。
わかっている、わかっているのに。
…望んでいる自分がここにいる。
「俺はどうかしてしまったのだろうか?」
手の平に残っている生温かい白く濁った体液を、やや乱暴にティッシュで拭うとゴミ箱に投げ捨てた。
いわゆる自慰行為をすませた後だ。
暗い部屋の中でベッドの端に腰掛けて頭を抱える。
「こんな事を…」
夢の中だけの感覚を、今ではこうして現実の感覚にすり替えている。
想像するしかない少年の艶めいた声や、組み敷かれた姿を想像しながら、己の欲望を扱く瞬間は快感に溺れるだけだ。
但し、終わってみれば空しさだけが残る。
一時の満足は身体だけのもの、心は全く満たされない。
その空しさを埋めるために、同じ行為を繰り返す。
「越前…」
不図、思い出す姿に欲情してしまう。
もう夢だけでは物足りなくなっていた。
このままでは、きっとおかしくなる。
獣になる前に何とかしなくては。
形振り構ってなんかいられない。
ワラにもすがる思いで、もう一度不二を呼び出した。
昼休みに部室で会う事を朝練中に約束し、お互い食事をすませた後にやって来た。
ここに大石がいれば、あの時の様子を思い出しそうなシチュエーションの出来上がりだが、今回ばかりは大石ではパニックに陥ってしまうだろう。
悪いとは思ったが、大石には秘密にしておいた。
「君は越前が好きなんだよ」
「俺が?」
自分の元へ来る事を知っていたかの様に、不二は簡単に答えを出してきた。
『好き』
しかもその想いは、家族や友人に対する想いではなく、恋愛の『好き』なのだ。
「そう、でも君自身がそれを認めていない」
「…越前は」
「男で自分も男だから?」
「当たり前だろう。自然の節理から外れている」
本来恋愛とは男と女の間で行う。
恋愛から更に愛が芽生え、将来を共に生きていく。
先へ進めば、子供が生まれ、またその子供が自分達と同じ様に恋愛をしていくのだ。
こうして世の中が上手く回っている。
「バカバカしい、そんなの大人のキレイ事だよ。あぁ、そうか、君は恋愛を知らないんだね」
不二は手塚の台詞にせせら笑うと、目を見開いた。
鋭い瞳に映る手塚の顔は、かなり驚いていた。
「今、僕は恋をしているよ」
「お前は経験が豊富そうだからな」
告白されている場面なら何回も見た。
見た目は『守ってあげたい』タイプな不二だが、実際には『守ってあげる』タイプだと知っている女子から、手紙や得手の場所への呼び出しを何回もされていた。
「ふふ、でも付き合った経験は少ないよ。だって告白されても、自分が好きな相手と付き合いたいじゃない。それなのに相手の想いだけで付き合うなんて、僕には出来ないね」
「…そういうものなのか?」
手塚には不二の『付き合う』、『付き合わない』の理由が理解出来ないが、きっとこれは様々ある理由のうちの一つなのだろう。
両想いなら全く問題無い。
それならば容易に理解できる。
「手塚には経験無いよね」
「…悪かったな」
外れていないから言い返す事も出来ない。
「でもね、今僕が好きな相手は…男だよ」
「な、本当なのか?」
最後はやや小声であったが、2人しかいないこの室内では、小声でも手塚の耳にはしっかり届いていた。
「君は僕にも言う?節理から外れているって」
「…いや、恋愛自体は本人の勝手だからな」
目の前の男は、多くの女子生徒から言い寄られているのに、本人の気持ちは女子ではなく男子に向いている。
この事実を不二に想いを寄せている女子達が聞いたら、一体どうなるのか?
悲鳴やら奇声を上げてしまうのは目に見えている。
それ以前に、人を陥れる事なんて自分には出来ないが。
「君の台詞はさっきと矛盾してるね」
「…俺には良くわからないんだ」
同性に想いを寄せる人物が身近にいるなんて思わなかったから、その場しのぎに言ってみただけかもしれない。
恋愛は男女間で行うのが自然の節理だと、言ってはみたが、実際のところはわからない。
同性に興味を抱く感情。
それが何時の間にか興味だけでは終わらなくなる。
興味から恋愛に発展だってするかもしれない。
人の感情なんて計り知れない。
「僕はね、彼を見ているだけで幸せなんだよ」
「不二…それは…」
「誰なのかはナイショだよ。あぁ、僕を監視したとしても君と違って絶対にわからないから」
誰なんだ?と続けそうな手塚の台詞を遮って『訊かれても絶対に答えない』と、スッパリ断ち切った。
想いを寄せている相手を思い浮かべているのか、不二は試合に勝った時よりも幸せそうな表情を浮かべていた。
「こんな気持ち…君にも味わって欲しいんだ」
人を好きになる気持ち。
好きな相手を想うだけで心が暖かくなり、どんなに落ち込んでいても、幸せな気分になれる。
こんな感情を知らずに生きているなんて可哀想だ。
「…お前はそれでいいのか?見ているだけで本当に満足できるのか?」
「僕?告白してもいいんだけど、どうやら彼には好きな相手がいるみたいでね。片想いで終わるのなら僕はこの想いをずっと胸にしまっておくよ」
自分の理論は先ほど話した通り。
相手もこちらを想っていてくれれば、話しはスムーズに進むが、この想いはただの片想い。
下手に相手に伝わって、今の関係が壊れてしまっては意味が無い。
「だから、君も自分に正直になって」
「……俺は…あいつを…」
「自覚しないと何にも始まらないよ?」
自分の心に嘘を吐いても、身体は正直だ。
だから夢を見るのか?
欲望のはけ口を求めるのなら、夢に出てくるのが彼である必要性は全く無い。
なのに出てくるのは常に越前リョーマ、ただ1人。
これが、何を示しているのか?
何を意味しているのか?
(あぁ、そうか…俺は…)
唐突に、暗闇の中に一筋の光が差し込んで来た。
靄の掛かった道が急に開けた。
「…そうだな、俺は俺自身の事など全て知っているつもりでいたが、間違いだったのかもな」
自然の節理などと言い、世間体ばかりを気にして自分の気持ちになど全く気が付かなかった。
「だったかも、じゃなくてそうなんだよ」
軽くツッコミを入れながら不二は笑った。
夢に悩まされていた日々が嘘のように、清々しい気持ちで部室を出た。
「不二、本当に済まなかった」
教室へ向かう階段の踊り場で、手塚は不二に礼を言う。
「お礼なんていいんだよ。それよりも、君は何をするのかわかっている?」
これ以上は相談に乗れない。
ここから先は手塚が1人で行わなければならない。
「あぁ、わかっている。大丈夫だ」
「ふふ、今の君、すごく良い顔してるよ」
手塚よりも先の段にいた不二は、優雅な笑みをその顔に浮かべて階段を上がって行く。
「…お前のおかげだ」
背中に向けて礼を告げると、不二は後ろを振り返った。
何かを決断した男の表情は、最強の男と呼ばれるに相応しい顔になっていた。