―――加害者、手塚国光
「…それで、何か教えたのか?」
部室内で部誌を記入しているのは、もちろん部長である手塚の仕事。
だが、普通ではない状態にいる。
実はその膝の上には小さな恋人の身体があるのだ。
「ううん、何にも教えてない。言いたくないし」
ちょこんと向き合って大人しく座っているのは、恋人の座にいるリョーマ。
頭一つ分は違う体格の差は、普段なら苛立つほどなのに、こんな時はとても嬉しい。
膝の上に座っているので、丁度目線が同じになる。
手塚の秀麗な顔の中で、眼鏡の奥に隠れた普段は鋭く涼しげな瞳が、この時ばかりは柔らかく暖かい瞳になってリョーマを優しく見つめている。
「そうか…」
リョーマからは見えないが、手塚はかなり満足そうにしていた。
2人は至極自然に付き合い始めた。
どういう経緯で何時からなのかわからないが、それが当たり前のように2人は一緒にいた。
校内では先輩と後輩の関係を築いていて、2人の関係に気付く者は、唯1人を除いて誰もいない。
有り得ないかもしれないが、至極普通に普通の恋愛を実際にしているのだ。
それは正に、男女の恋愛の様に。
いや、男女の恋愛以上に真剣に付き合っている。
結局、部活に遅れて登場した手塚は、大石からの申し送りで菊丸とリョーマの様子を聞いていた。
「また英二がさ、越前にちょっかいを出しててな…本当に困ったもんだよな」
「また菊丸なのか…」
呆れ返った声で大石が言うのを聞いた途端、菊丸にはグラウンドを延々と走らせたくなったが、自分の感情のみでグラウンドを走らせるのは、ただの職権乱用に当たる。
それに走らせるのなら、一緒にいたリョーマにも同じ様にしないといけない。
部長たる者、少々の事で己の感情を乱してはいけない。
冷静でいなくてはいけない。
ふつふつと湧き上がる嫉妬の感情に、つい口に出しそうになってしまった言い慣れたセリフを、懸命にゴクリと喉の奥に飲み込んだ。
残った部活の時間は、大石から聞いた2人のじゃれ合い風景が頭に浮かぶのを消す様に、どの部員よりも懸命に練習に励んでいたのだ。
「菊丸先輩は何か知ってるのかな?」
「…あれでなかなか鋭い所があるからな」
「ふーん…」
質問に対する返事には到底聞こえなかったが、特に気にしない。
知られたのならそれでいいし、知らないのならそれでいい。
遊びで付き合っているつもりは更々無いのだから。
「…書き終えたぞ」
左手のペンを机に置き部誌を閉じると、待っていたリョーマの背中をゆるりと撫でる。
こんな手塚がいるなんて誰も知らない。
手塚も所詮は人の子だったという事だ。
好きな相手と2人きりになれば、甘い雰囲気になる。
「ん、お疲れ様」
リョーマはとっておきの笑顔で微笑むと、チュッと軽い音を立てて手塚の右の頬にキスを落とした。
ふわりと頬に降りてくる柔らかな唇の感触は、とても心地が良い。
マシュマロの様な弾力と真綿の様な柔らかさで、優しい感触を与えてくれる。
部活中に憎まれ口を叩く唇と、同じ部位とは到底思えない。
「越前、ここにはしてくれないのか?」
と、指で己の唇を指せば、頬をほんのりと桜色に染めて少しだけ照れている恋人の姿。
愛らしい姿をこれほど間近で見られるのは幸せの骨頂だ。言葉では言い難いほどに充実した時間。
僅かではあるがこの時間は本当に満足している。
言葉に出来ないほどの気持ち。
(これが“好きだ”という事なんだろうな)
自分の気持ちを素直に認めたおかげで、こうしてリョーマとイイ関係になれたのだから。
だから時々は、こうして困らせたくなる。
だから時々は、こうして我が儘を言いたくなる。
手塚の中にあるリョーマに対する想いは、こうしてもっと深くなる。
「…部長…」
戸惑うような声には、断りの意味は含まれていない。
テニスにおいては、中学生ながら熟年者の域に身を置いていても、恋愛に対しては初心者なのだ。
キス一つでも自ら進んで行うのには勇気がいる。
「駄目なのか?」
決して『ヤダ』と応えないのは手塚にもわかっているが、リョーマの口から聞いてみたくなる。
「…いいよ、でも…目は閉じていてよね」
「了解した…」
恥ずかしいのか、とても小さい声であったが、手塚の耳にはしっかりと届いていた。
ゆっくりと自分を映す瞳が閉じていく。
少し色素が薄い瞳を見られなくなるのは少々残念だが、近付く瞬間を正面から見られるのは、やっぱりどこか照れくさい。
完全に閉じられたのを確認すると、両の頬を己の両手で包み込む。
僅かな緊張で唇が乾いてくると、無意識に舌で潤いを与えてしまう。
艶かしいほどの舌の動き。
手塚がリョーマのこの動きを見れば、絶対に情欲に煽られてしまうだろう。
「ぶちょー…」
小さな唇が手塚の唇に重なり、ゆっくりと離れた。
触れるだけの幼稚なキス。
今のリョーマには精一杯のキスだった。
「越前…」
閉じていた瞼を開くと、次第に遠ざかる熱。
数秒で離れた唇は手塚には物足りないもので、悩む事無く手塚はリョーマの後頭部に手を掛けた。
「え?な……ん……」
『何すんの?』と続けたい口は、手塚の唇によって塞がれていた。
「…ん……ぁ……」
リョーマのキスとは違って、手塚のキスはかなり濃い口付けだった。
初めは啄ばむような軽い触れ合いから、次第に深いもので変えていく。
リョーマが息継ぎの為に少しだけ開いた唇の隙間から舌を差し入れて、奥に逃げているリョーマのそれをちょいちょいと突付く。
その誘いにリョーマは躊躇いがちに差し出すと舌を絡め合う。
「…リョーマ…」
キスの合間に、ファーストネームを呼ぶ。
どうしても部活で慣れ親しんだ『越前』と『部長』で呼び合ってしまうが、特別な時間はこうして名前で呼ぶ。
2人で恋愛をしていると自覚出来るからだ。
「部長…」
手塚のキスに酔いしれてしまったのか、琥珀色に輝く瞳はたゆたう波の様に揺れていた。
涙とは違うその揺らめきに、手塚は軽く喉を鳴らす。
「リョーマ、今は『部長』じゃ無いだろう?」
「…………くにみつ…」
名前を言葉にするのには勇気がいる。
でも名前を呼べば、嬉しそうに目尻が下がる。
きっと、自分にしか見せない表情の一つだろう。
だったら嬉し過ぎる、だから呼んであげる。
だから…もっと見せて、俺にしか見せない表情を。
リョーマの中にも『求める』気持ちは確かにある。
まだ、教えてはいないけど。
「…そうだ、もっと呼んでくれ」
促す様に頭を撫でれば、リョーマは壊れた玩具の様にそれしか言えなくなってしまう。
「…国光……国光…好き…」
「俺もリョーマが好きだ」
「国光の手…好き」
「手だけか?」
「ううん、国光の声も好き」
「声も?」
「ううん、顔も好きだよ」
「顔も?」
「あとね、この目も口も…」
「俺もお前を創る全てが愛しいよ…」
何度も繰り返し行われる口付けと、想いを伝え合う告白の数々。
これが何度目になるのか分からないが、何度繰り返しても足りない。
もっと言わせたい、もっと聞かせたい。
と、自分勝手なこの気持ち。
もっと言いたい、もっと聞きたい。
と、相手を想うこの気持ち。
リョーマが手塚を好きなのか?
手塚がリョーマを好きなのか?
どちらも間違ってはいないが、当たってはいない。
リョーマも手塚も同じくらいにお互いが好き。
どう考えても性格が正反対のこの2人が、どういう経緯で付き合ったのか?
それは謎のまま。
解き明かそうとする者も今はいないけれど。
「それで、お前は何を考えていたんだ?」
何度もキスを交わし、互いの想いを伝え合うと、手塚は部活中のリョーマの様子を思い出していた。
自分では見ていないが、『切なそうにしていた』と、聞けば当たり前の様に気になるものだ。
「あの時、空がすごく青くて…」
真っ直ぐ見つめる視線の中に、自分の姿が映っているのを見る、その瞬間が好き。
普段の眼鏡の奥の瞳は決して感情を表に出さない。
誰にでも同じような態度なのに、唯一人に対しては全く違っていた。
一秒にも満たない時の中で、柔らかな光が瞳に灯る。
リョーマを視界に捕らえたその一瞬だけ。
今日は長い間、その視線がどこにも無かった。
不図、何気なく見上げれば一面の青、どこまでも続くスカイブルー。
空に浮かぶ海の様だ、とも思った。
その海に1人で漂っている。
「何だかそれだけで早く会いたくなった…」
菊丸が言った事はあながち嘘ではない。
何だか切なくて、とても寂しかった。
早く会いたいと心から本気で望んだ。
渇望していたのは、自分を見つめる厳しくも優しいその眼差し。
乾いた心を潤して欲しかった
「…国光」
きゅっと首に腕をまわして抱き締める。
サボっていたワケじゃない。
遠い遠い青い空が、2人の間にも距離があると思い知らされている様で。
「ちょっと、寂しかったんだ」
目元を薄っすらと朱色に染めているのは、さっきまでの青い空を思い出したから。
海の色にも似た、汚れのない綺麗なブルー。
「早く会いたかったんだ…」
傍にいないこの人が遠い存在に思えて、何故だかとても悲しくなったから。
「…早く俺を見て欲しかったんだ…」
耳元で囁く愛しい恋人の声は、手塚の耳に流水の如く流れ込んでいく。
耳から脳へ、そして身体の隅々にゆっくりと流れていく。
「リョーマ、もう一度キスをしてもいいか?」
嬉しい告白にはわかり易いように態度で示す。
触れ合う事でこの想いが伝われば良いと、手塚はリョーマの腰に両手をまわす。
「…うん、して…」
リョーマが瞳を閉じれば、手塚の唇は優しくリョーマの唇を塞いだ。
部室内で行われている、この『不純同性交遊』の光景に気付く者は、今のところ誰もいない。
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