恋愛事件簿

その1




この事件の始まりは、一体いつだったんだろう?


―――関係者、菊丸英二。


「おチビちゃん?」

全国大会に向けての大切な部活の真っ最中だというのに、まるで覇気の無い顔を見せているのは、青春学園中等部男子テニス部のルーキーである越前リョーマ。
常にフェロモンを撒き散らし、男女問わず人の目を惹き付けて離さない、何とも魅力的な人物。
そんなリョーマが、ぼんやりと空を眺めている。
でも、ヤル気が無い様には見えない。
何やら物思いにふけている。
簡単に言えば、そんな感じ。
小さな身体に秘められたパワーは、試合を重ねる度に段々とその力を表に出してきた。
本来のテニスセンスの良さに加え、その身に潜むポテンシャルはどの位のものなのかは乾のデータを持ってでも測定不能。
その上、技術を吸収する能力もかなりの高さで、人の技を受ければ、そこそこ同じように相手の技を使えてしまう。

だからと言って、日頃の練習を怠ったり、手を抜いたりしない。
テニスにおいては決して妥協をしないのがリョーマのモットーだ。
上級生だろうが、何だろうが、自分の前に現れた相手には格下であろうとも、ありったけの技術を用いて立ち向かう。
絶対に容赦はしない、自分の為に、そして相手の為にも。

「おーい、おっチビちゃ〜ん」
不思議に思ったのは同じコートで練習をしていた菊丸英二で、「練習中にフキンシンだな〜」と、トコトコ近寄って呼び掛けたのだ。
近寄った時点で、菊丸もリョーマと同じ様に練習を中断してしまうのに。

気付かない所は菊丸らしい部分だった。
「…え?あ、何スか?」
話し掛ければ、『たった今、気が付きました』みたいな顔をして、呼び掛けた相手を見ている。
キョトンとしたあどけない無意識の表情は、年齢に見合った幼い顔。
至ってクールに見せ掛けているこの少年も、素になれば本当に可愛い顔をしている。
普段着であれば少女に見間違えられる事もあると、出所がはっきりしない噂で聞いたが、きっと噂ではなくて本当なのだろう。
「何を考えてるんだにゃ?」
一瞬の幼い表情にドキリと胸が高鳴るが、ここは一つ頑張って自分を抑えた。
深呼吸を一度してから、覗き込む様にリョーマの顔を見れば、大きなアーモンド型の瞳は琥珀にも似た色で輝いていた。
キラキラと光を反射して自分を見つめる瞳に、またもや胸がドキリと高鳴った。

「別に何も…」
ふいっ、と見つめる視線から顔を逸らした。
菊丸の瞳もリョーマ同様に大きくて、その上邪気が全く無い、極めて純粋そのもの。何もかもが映し出されそうな気がして仕方無い。
このまま見つめられると、この心の中まで見透かされそうになる。
決して知られてはいけない想いが…。
「嘘!」
大きな声とともに、びしっと人差し指を鼻先に突き付けられ、リョーマは思わず後退る。
「…嘘って言われても」
例え先輩からでも、『何を考えていたのか内容を教えなさい』と言われても、『はい、実はこんな事を考えました』と、答えると思ったらかなり大間違い。
特にプライベートとなれば、絶対に言いたくない。
「だって、何かすっごく遠い目をしてた」
「遠い…目?」
「そ、すんごい切な〜い目」
両手を握り締めた上、ぎゅっと身を縮める。
子供のお遊戯の様なその動きは、大袈裟なボディーランゲージ。どうやら菊丸なりに、切ない感情を身体で表現しているらしい。
「切ないって女じゃないんだし」
リョーマは乾いた笑いを菊丸に向けた。
羨ましいほど大きく成長した割りに、思考能力はいつまでも子供のままの先輩だ。
言動も食べ物の趣味も、そこら辺の小さな子供と何ら変わりが無い。

「…女も男も関係ないよ」
「菊丸先輩?」
「おチビがそんな顔してるの、ヤなんだよ」
先程までとは打って変わった、結構シビアな表情に少しだけ低めの声。
「…どういう意味っスか」
リョーマは乾いた笑いをピタリと止めた。
菊丸の少し苛立った声と、伏目がちな瞳。
何だかペットが落ち込んだ時に似ている。
犬が主人に叱られた様にシューンとしているが、そんなのはほんの瞬き程度の時間だった。
「おチビには似合わない!だよん」
犬の様に見えても、性格はどちらかと言えば猫だ。
構って欲しい時は甘えた声でゴロゴロと喉を鳴らして近寄って来ても、自分が満足できれば直ぐにどこかに行ってしまう。
いつまでも何かに拘るタイプではない。
猫の性格その通りにすぐに普段通りになると、人懐っこい笑顔に変わった。
まるで『見間違いか?』と、思わせるほどに菊丸には相応しく無い顔。
でも見間違いで無いのは確かだ。
菊丸ほどでは無いが、動体視力の良いこの両目でしっかりと見たのだから。

「…似合わない…って」
酷い言い方をする人だなと、ちょっとだけ怒った顔をしてみても相手には効果が無い。
「だってさ、本当に似合わないんだにゃ」
反対にニカッと笑顔になるから、これは無駄だとリアルに実感してしまう。
それもこの男の愛嬌だと思うからこそ許しているが、本来のリョーマならば、きっとツイストサーブの一発でも即座にお見舞いしているだろう。
「おチビならもっと、ほら、えーと、何だっけな…」
こんなに喉元まで出掛かっている言葉があるのに、どうしてか出て来ない。
もどかしいったらありゃしない。

「何なんっスか?」
「ちょっと待って、日本語って難しいんだよね…」
「先輩、日本人でしょ?」
「日本人だからって日本語バリバリってんじゃ、にゃいんだよね〜」
「…ふーん、そうなんだ…」
菊丸は『うーん』と、唸りながら腕を組み、ついでに首を捻って暫くの間考えていた。
「あっ、そうそう、見下すくらいじゃなくっちゃ」
漸くその言葉を思い付いたのか、右手の人差し指をピンと立てて声に出した。
満面の笑みで言うから、リョーマは思い切りガクリと肩を落とすしか無かった。
「……先輩は俺に見下されたいの?」
帰国子女のリョーマでも分かっている言葉の意味。
その意味をしっかり理解して言っているのなら、国語の成績はかなり低そうだ。
「うんにゃ、それは遠慮しておきます」
呆れた声でリョーマが尋ねれば、プルプルと首を大きく横に振って、菊丸ははっきり断った。
どうやら『見下す』の意味は、しっかり理解しているらしい。
「遠慮しなくてもいいっスよ、菊丸先輩」
部活中に良く見せる不敵な笑みを向ければ、いつものリョーマが漸く現れた。誰に対しても生意気で勝気で負けず嫌い。これが越前リョーマだ。
「いいえ、心から御遠慮申し上げマス。おチビに見下されるなんて上級生として情けないもんにゃ」
丁寧な言葉と、上級生としての立場を含めて返事をすると、やっと普段通りになったリョーマにニヤリと口元を吊り上げた。
「だったら言わないで欲しいね。菊丸先輩はさ、いっつも一言多いんだよね」
「まぁまぁ、ご愛嬌と言うコトで」
「ふーん…ま、いいけどさ」
「じゃ、これで終わりにゃ」
2人は顔を合わせると、プッと吹き出して笑った。

誰だってシリアス気分になりたい時があるものだ。
リョーマにもきっと菊丸にも有る筈の感情。
似合わないと言いたくなるのは、それはきっと暗い感情を垣間見る瞬間を少しでも見たくないから。
沈んだ表情なんて見たくない。
リョーマには絶対に似合わない。
自分だけじゃない、きっと誰もがそう思う。
出来るなら笑っていて欲しい。
性格上、無理だと分かっていても。
そう願ってしまう。

「で、何の事考えていたんだにゃ?うーんと、夕食の献立とか?それとも俺の事とか?」
特に最後は絶対に有り得ないだろうが、おもいっきり強調してみた。
「…献立って、小学生じゃないんだし。それに俺が何を考えていても関係ないでしょ、菊丸先輩には」
菊丸を見るリョーマの顔は、先程よりも数倍呆れた表情で、ついでにかなり大きな溜息を吐いた。
誰が見ても、これは完全に馬鹿にされているとしか見えない。

そう見てもらっても構わないだろう。
「ガーン、やっぱ冷たい。おチビってば」
思った通りの反応に、しくしくと泣き真似をする。
「…やっぱり、は余計っスよ。ついでに泣き真似も本当に下手っスね」
そんなんじゃ同情なんて出来ないよ。
プイとそっぽを向くリョーマに、菊丸はそろりと両手を伸ばす。
「おチビ…」
頭から抱える様に自分の胸へと引き寄せた。
部活中であっても、他の部員達が見ている前でも全く関係なく行われる行為。
「…菊丸先輩、どうかしたんスか?」
日常茶飯事のこの行動が、今日だけは何だか違う。
慰めるような、癒すような、理解不可能なこの抱擁。
こんな暑い中、こんなふうに抱き締められたら汗が出てくるのに、どうしてなのか突き放せない。
いつもみたいにキツイ一言を言いたいけど、それも何故か全く出てこない。
どうしてなんだろう?
不思議だ…。
「ん〜、ちょっとね」
「変な先輩…」
リョーマも本当に珍しく、菊丸の腕の中で大人しくなっていた。
「…空か…」
抱き締めながら、さっきまでリョーマが見ていた空を見上げてみた。

夏の空は、青い絵の具で描いた様に、鮮やかで綺麗な色をしていた。


この空を見上げたリョーマの胸の中を占めていたものは、一体何だったんだろう?
何の事を考えていたのか?
誰の事を考えていたのか?
本当はそんなのどうでもいい。
澄んだ空に吸い込まれそうな身体を、ココに引き止めたかった。このテニスコートに。
出来る事なら、この自分の傍に。
いつもならこの時間は他の事ばかり考えている。
今日の夕食の献立や、大好きなテレビ番組。
お日様を浴びたふかふかの布団。
いつもなら楽しみなのに、それすらも考えたくない。
何がその小さな胸を占めているのか、気になる。
何の事?
それは、不二の事?
それとも、手塚の事?
何でこの2人の名前が出て来るのかって言えば、俺は知ってるんだよね。
不二はおチビが好きで、手塚もおチビが好き。
好きにはいろんな意味合いを含んでいて、不二の『好き』と手塚の『好き』は、どこか微妙に違っている。
不二の場合は、多分…まだ、本気じゃない。
あいつが本気だったら、おチビはきっと大人の階段を昇りまくっているハズ。
想像も出来ない様な、あ〜んなコトや、こ〜んなコトをしまくっているハズ。

牽制ついでに、醜いほどの執着心を見せまくるハズ。
でも不二もおチビもそんな素振りは全く無い。
今は至って普通の先輩と後輩の関係だ。
不二にしては慎重にタイミングを伺っているよな〜。
本気になれるその瞬間を。
で、手塚の場合は多分…いいや、きっと…本気だ。
あんなテニス馬鹿が、テニス以外に興味を持つなんてきっと信じられないと誰もが思うハズ。
手塚には初めての感情だろうな。
手塚を好きになる女子は多いから、学校内で告白されてる場面を偶然見たけど、その場で断ってた。
テニスに夢中で今は恋愛には全く興味が無いみたいなのに、おチビに対してだけは全然違う。
視線だけがいつも追い掛けている。
そんな手塚の視線を追ってる自分はどう?
それもかなり情けないよな〜。
手塚は獰猛な肉食動物のように、小さな獲物に狙いを定めて追い掛けているんだ。
あの眼鏡の奥の鋭い視線だけで。
でもさ、好きな相手に労いの言葉の一つも掛けられない小心者のくせにさ。
あれじゃ、いつまで経ってもおチビには気持ちは届かないんだよ。
…俺だって、おチビの事…結構好きなんだけどな。
わかんないんだろうな。わかってくれないんだろうな。ま、しょうがないか。
なんてったって、おチビだもんな。


「別にいいんだけどね…」
聞こえないように小声で呟いたつもりが、リョーマにはハッキリと聞こえていて、不思議そうな顔で菊丸を見上げている。
どういう意味なんだ?と問い掛ける様に。
「…菊丸先輩?」
下から菊丸の顔を覗く様に見上げてみれば、何も無かったかの様な、通常の笑顔だった。
「おチビがあんまりにもカワイイから、心配!」
自分の気持ちを隠すように、極めて明るく振舞う。
ピッタリと隙間無く密着するように抱き締めた。
「一体、何なんスか?」
突如変貌したその様子は、全くワケがわからない。
ぎゅうぎゅうと、力任せに抱き締められれば、当たり前だけど息苦しい。
「もう、放して下さいよ」
「おチビってば、ホントに冷たいにゃ〜」
リョーマの頭に顎をぐりぐりと押し付けたり、頬をプニプニ摘んだりして、やりたい放題じゃれつく。
「だから、イイ加減にして下さい」
ココまで来ると、漸くリョーマも暴れ出した。
形振り構っていられないと、手足をバタつかせてどうにかして逃げようとするが、菊丸の抱擁から逃れられない。

「英二の奴、またやってるなぁ」
「ほんとっすね〜、いいんすか?止めなくても」
自分は止める気なんて全く無しの桃城武。
下手に間に入ったら最後、自分もそこから出られなくなるに決まっている。
「…どうしてこういう時に限って、先生も手塚もいないんだよ…」

嫌がるリョーマにじゃれつく菊丸を止める人間は、ここにはいない。
顧問である竜崎スミレは職員会議で遅れる上に、部長の手塚も不二すらも、珍しくコート内にいないのだ。

残るは副部長の大石秀一郎。
だが、大石が菊丸の行動を抑えた試しは未だかつて無い。
天真爛漫、自由奔放、菊丸英二ここにあり!
言いたい放題、やりたい放題の天然のお子様。
「仕方ないな…」
だからって部員達の目もある事だし、このまま放っておく訳にはいかず、大石はキリキリと痛む胃を押さえながら、2人に近付いて行く。
この一歩一歩がヤケに重い、重過ぎる。
例えるのなら、死刑台に向かう受刑者の気分だ。
…自分で考えておきながら、何て嫌な例えだ。

「そ、そろそろ、練習しないか?」
「あっ、おおいしー、聞いてよ〜。おチビってば酷いんだよ」
自分達に向かっての声に、カモが来たとばかりに菊丸は大石の腕を掴み、仲間に引きずり込もうとした。
「酷いのはどっちですか…」
「……英二、頼むから練習しよう、な?」
自分の腕を掴んでいる手をどうにかして引き離し、小さな子供に言い聞かせる様にしている姿は、悪くて口には出せないが、まさに『お母さん』そのものだった。
「だって、おチビってば」
宥めようとしても、全く勢いは止まらない。
それどころか、更にヒートアップしてしまった。
「…越前、どうにかしてくれ」
「大石副部長でも無理なら、俺なんて問題外っス」
ぎゃいぎゃいと1人で騒ぐ菊丸に、リョーマと大石は揃って大きな溜息を吐いた。

菊丸英二は知らない。

リョーマが既に誰かのモノになっているのを。

菊丸が関係者になるのは、まだまだ先の事。



04年3月に発行したオフ本の再録です。
持っている人はそれほどいないかも…。