2. 『妨害や障害は排除しよう』
「本気なの?」
昼休みの部室の中で、俄かに信じきれない声を出しているのは不二だった。
「あぁ、俺は本気だ」
「えっと、エイプリルフール?」
「今は6月だ」
「それくらい僕だってわかってるよ。それにしても君がリョーマ君とねぇ。やっぱり、何かの冗談でしょ?」
「嘘ではないし、冗談でもない。俺は真実しか口に出さない」
冗談の通じない相手に不二は苦笑いを浮かべた。
クラスメイトである菊丸と昼食中だった不二は、珍しく手塚から呼び出され、まだ食べていた菊丸を教室に残して手塚の後をついていった。
呼び出した張本人は、前だけを見て歩いている。
まるで不二の存在など眼中に無いくらいに。
普段の表情に輪を掛けたような無表情からは、その胸中にあるだろう感情を読み取る事は難しく、不二は手塚の背中を見ながらここまでやって来た。
そしてこの狭い部室の中で衝撃的な告白を受けていた。
部室に辿り着くまでの道は、天気が良かったので誰かとすれ違ったり、外で食事をしている者達の楽しそうな声が耳に届いていたが、離れたここまでは届かない。
この中にいるのは自分と手塚の2人だけ。
これが男女の告白シーンであれば、シチュエーション的には有り得るだろうが、手塚からの告白は違った。
その告白とは、誰よりも人の感情に鋭い不二ですら予想もしていなかったものであった。
まさか…。
「俺と越前は付き合っている」
おまけに、
「無論、友人などでは無く、大切な恋人としてだ」
…だなんて、想像できなかった。
「…それで、僕に何をして欲しいの?」
ここまでの経緯を不二は短時間の間に全て思い出していた。
手塚からの呼び出しならかなりの事だが、内容が内容なだけに不二は手塚の様子を窺いながら話す。
何を言うのか、何をして欲しいのか…。
「…越前には手を出すな、それだけだ」
しばしの沈黙の後、いつものように腕を組んで立っている手塚は、キッパリと言っていた。
「リョーマ君には手を出さないで欲しい?へぇ、独占力は人一倍強いみたいだね、手塚って」
くす、と嫌味を含めて小さく笑う。
一般般人なら震え上がりそうな手塚の強い口調でも、不二は軽く笑って応じる。
不二はその表情や言葉遣いからもわかるとおり、性格はとても優しく穏やかで、滅多に激情を表に出さない。
頭ごなしに向かう者にとっては一番やり難い相手。
だがしかし、手塚も長年の付き合いで不二の扱い方はお手の物だった。
「当たり前だろう、お前達は…いや、お前や菊丸は特に常日頃から越前に付きまとっているからな。今までは何とか目を瞑っていられたが、これからは今まで通りにはいかない」
手塚にとって不二や菊丸などといったリョーマを気に入っている者達は、自分の恋人に付きまとう邪魔者でしかない。
しかも男女問わず人気のあるリョーマは、テニス部は勿論の事、その他大勢からも注目されているだけあって、いつ、どこで、何か起こるかわからない。
何よりも身近な所から攻めていかないと、足元を掬われる可能性があると手塚は考えて、リョーマにつきまとう要注意人物の筆頭である不二から牽制を始めた。
「それで自分の恋人になったから、悪い虫がつかないようにまずは僕達から圧力を掛け始めたってワケ?」
「言ったはずだ、俺は本気だ、とな」
同級生の中の誰よりも冷静沈着で、ちょっとやそっとではその感情を見せない手塚の瞳は、肉食獣が持つ獰猛な光を湛えていた。
「…そう」
不二の顔から笑顔が消える。
恋愛だろうがなんだろうが、今まで何に対しても興味の無い者が、少しでもそれを意識し、そして目覚めてしまうと、周囲が見えないほどはまってしまう。
手塚はそのパターンに忠実にはまっている。
「手塚って今まで恋愛した事ないんでしょう?」
「あぁ、無いな。そのような感情に振り回されている場合では無かったし、何よりも俺は恋愛などに興味が無かった」
鋭いところを突かれても、淡々と答える。
手塚にとってこれが初めての恋なのは紛れも無い真実。
だが、何を言われようが、リョーマだけは離さない。
今はまだ斑のある原石だが、丹念に磨けば眩い輝きをもつ至上の宝石になるだろう。
誰もがその虜になるほどに。
「それじゃ、リョーマ君には興味が沸いたんだ?」
手塚の本気を確かめるように、不二は追求する。
もしかしたらそれは恋愛の感情とは違うかもしれない。
手塚はリョーマへの興味を、恋愛と思い込んでいるだけかもしれない。
不二はその可能性に賭けてみた。
「興味とは異なるが、まぁ、そんなところだ。越前を見ていると楽しくなるな」
すっ、とその瞳の光が柔らかくなる。
「…手塚、君って……」
手塚の変化に気付いた不二が口を開くより早く、部室の扉が誰かの手によって開けられようとしていた。
誰も来ないと決め付けていたので鍵は閉めていない。
回して押せば簡単に開く。
ドアノブが回り、重い金属音を立てながら開いていく扉を、2人は黙って見つめる。
ここに行く事は誰にも伝えていない。
誰が現れるのかなんて、2人には想像が出来なかった。
扉が完全に開き、眩しい日差しと共に登場したのは…。
「…部長と不二先輩、こんな所で何してんスか?」
リョーマだった。
話題の中心人物の登場に、手塚と不二の会話は途切れた。
「ちょっと部活の話をしていたんだけど、リョーマ君はどうしたの?何か忘れ物でもした?」
手塚よりも先に不二がリョーマに話し掛ける。
「…えーっと…」
不二の問い掛けに、リョーマの視線が右往左往する。
「もしかして…リョーマ君…」
不二はその視線の行方を追った。
部室内をあちらこちらと見た後、自分の後方に立っている手塚を捕らえるまでの軌道を。
手塚を捕らえた瞬間、切なげに揺れたリョーマの眼差しは、正しく『恋』をしている者だけが持つものだった。
「目的は手塚、だったりして?」
「…っ!」
ビクッ、とリョーマの肩が跳ねた。
不二の勘は大当たりで、その上、手塚の想いも本物である事が判明してしまった。
「もしかして、手塚に会いにここに来たの?」
「…屋上にいたら2人の姿が見えたんで…気になって、それでここに…」
図星だったのか、リョーマは手塚から視線を外した。
「やっぱりそうなんだね」
きっとリョーマは無意識に近い形でここまで追い掛けて来たに違いない。
そうでなければ、今更ながらに焦って言い訳なんかしない。
「…話は聞いてないっスよ」
中で何が行われているのかは気になっていたが、扉の中に入るのは悩み、暫くの間は外でうろうろしていた。
『もしも告白だったりしたらどうしよう?』
この扉を開けて中で何が起きていても、平常心だけは保とうと決心をして扉のノブを掴んだのだ。
「話ってね、君の事だったんだけどね」
リョーマの考えていた事など、この中では全く執り行われておらず、はっきり言ってしまえばその反対だった。
「俺の話?どんな話をしてたんスか」
「手塚がね、リョーマ君と付き合っているから僕達にはリョーマ君に手を出すなってね」
「…部長が?」
きょとん、とした顔でリョーマが手塚を見つめると、不二の後ろに立っている手塚の顔に朱が差す。
「まさか、手塚とリョーマ君がねぇ。ちょっと信じられなかったけど本当なんだね」
「…本当っスよ。俺は部長と付き合ってますから」
手塚と同じく、リョーマもキッパリ言う。
「はっきり言うんだね」
「不二先輩には誤魔化しなんて利かないでしょ」
「敵わないなぁ」
あはは、と乾いた笑いをしてみても、手塚もリョーマも真剣そのものだった。
こうなってしまっては、不二の考える『興味イコール恋愛』の式は成り立たなくなる。
興味本位という考えは即行デリートする。
そして自分はどうする事が一番得策なのかを、この短時間で黙想する。
「…うん、やっぱりこれしか無いな。僕は君達を応援させてもらうよ」
後ろにいた手塚をにこやかに振り返り、不二はこの障害の多い恋愛を見守ると断言した。
不二としても、リョーマに対しての想いは手塚に負けないものではあったが、手塚よりも本気では無かった。
自分と手塚の想いの強さの違いを知り、リョーマから手を引いた。
「不二…」
「それでね、リョーマ君」
手塚から視線をリョーマに移動させる。
「何スか」
「手塚はね、君が人気者だからとっても心配なんだって。もしかしたら誰かに盗られちゃうんじゃないのか、って思っちゃうくらいにね」
「そんな事、不二先輩と話してたんスか?」
ちら、と見上げた先にいた手塚は無言のまま頷いた。
「ね、でも大丈夫だよね」
「大丈夫っスよ」
「ほらね」
その答えに満足そうに穏やかな笑みを見せた不二は、リョーマの横を通り、開いたままになっていた扉を出た。
扉が閉まると同時に明るい光は遮られ、室内には不二に代わりリョーマが残った。
◇
「俺はあんただけだよ」
「越前…」
不二の問い掛けに本人では無く手塚に答えたリョーマは、手塚の元へ歩み寄る。
「あんたが俺をこの世界に連れ出したんだからね。責任は取ってもらうんだから」
見上げるリョーマの瞳は淀みなく澄み切っている。
「いいだろう。だが、覚悟はしておけよ。俺から逃げられると思うな」
「俺もあんたを逃がさないんだから、うわっ…」
そんな強気な態度を見せるリョーマの腕を手塚は掴み、力任せに自分の元へと引っ張った。
「ビックリした…何、怒ったの?」
つんのめりそうになりながら、手塚の胸の中に飛び込むと、突然の抱擁に驚いた声を上げた。
「…いや、抱き締めたくなっただけだ」
胸の中にすっぽりと納まってしまうサイズなのに、誰よりも大きな存在感。
こうしていると、何もよりも愛しさばかりが込み上げる。
目の前の黒髪に顔を寄せると、シトラス系の香りがふわりと漂ってきた。
整髪剤を使わないリョーマだからこれはシャンプーの香り。
自分が好む、爽やかな香りに手塚は目を細める。
「…でも、ちょっと安心した」
手塚に抱かれているリョーマのトーンが変わった。
完全な2人きりになった事から強気な口調は消える。
「何を、だ?」
「もしかして、不二先輩から告白でもされているのかと思ったんだ…」
リョーマがここに来た理由はこれだった。
朝でも夕方でも、部活中の手塚と不二は会話をしている。
同級生で、しかもレギュラーから一度も外された事の無い者同士だから、当たり前と考えるのは妥当な線。
部長である手塚との会話なんて、下級生から見れば『羨ましい』の一言に尽きる。
だが、リョーマはその不二の行動が、自分と同じ想いからしているのだと誤解していた。
誤解するには充分過ぎるほど、2人は近くいる。
同級生であり、このテニス部では1、2を争う2人だ。
ライバルの域を超えた付き合いをしていてもおかしくない。
そんな常識から逸脱した考えをしてしまうのは、自分と手塚が恋人関係にあるからだ。
そうでなければ、こんなくだらない思想は出て来ない。
「莫迦な事を…」
誤解されるような会話などしてはいないが、こうして不安に感じていてくれる事が嬉しくて、手塚は声に出してしまう。
「…っ…バカな事って思ってるのは俺だってわかってるよ。でも…あんたは冗談抜きでカッコいいし、俺が好きになるくらいだから他の人からだって…」
噛み付きそうな勢いでリョーマは胸の内を明かす。
「お前だって同じだ。お前の周囲には常に誰かがいて、俺は心配でならない」
慰めるようにそっと頭を撫でてやると、おもむろに顔を上げたリョーマは居所の無かった腕を手塚の首にまわした。
「俺はあんただけが好きだよ。だから何だか無性に心配になる時があるんだよ。だからさ、ちょっと安心させてよ。じゃないと俺…不安なんだよ…」
胸の中の思いを口にしてリョーマは瞳を閉じた。
「…俺もお前だけが好きだ」
リョーマの行動の意図に気付くと、手塚は両腕をリョーマの腰にまわして顔を近付けた。
「……ン…ふ…」
重ねるだけのキスはすぐに大人のキスに変わる。
唇を擦り合わせて柔らかさを確かめて、下唇を噛めば、リョーマは堪らず閉じていた唇を開く。
奥に引っ込んでいる舌を誘い出して絡めれば、お互いの唾液が混ざり合い、淫靡な音を響かせる。
「…リョーマ」
キスの合間に手塚は名前を呼ぶ。
名字では無く、彼だけの名前を…。
「…国光」
リョーマも同じように名前で呼ぶ。
こうする事で、今の自分の存在理由が何なのかを、自分自身に言い聞かせる為に。
『今の自分はたった1人の為にこの世界に存在している』
風の無い海のように、退屈でつまらない毎日。
美しく咲いていた花も色褪せてしまうほど、日々は無常にも過ぎていく。
そんな毎日はこの人物の出現で全てが塗り替えられた。
手塚も。
リョーマも。
セピア色に染まっていた日々は、カラフルな色付きの日々へと変貌していった。
見えない力に引き寄せられるように、2人は運命的な出会いを果たし、こうして掛け替えの無い存在にとなった。
「ふう……ね…不二先輩の次は誰に言うつもり?」
長いキスを終えた後、リョーマは甘い息を吐いた。
その直後、手塚に訊ねたのは、これからの事。
不二だけで終わらせるとは到底思えない。
真面目な彼の事、根こそぎに近いくらい徹底的に行うに決まっている。
「そうだな、次は…菊丸だな」
次回のターゲットを決定すると、手塚はリョーマを強く抱き締めて、再びキスに没頭した。
予鈴が鳴るまでの間、2人は抱き合いながら、熱いキスを交わしていた。
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