「おはよう、手塚」
次の日、朝練に現れた手塚に挨拶をするのは既に着替えを済ませていた大石。
中等部の頃は鍵当番として誰よりも早く練習に来ていたが、今でもその頃の習慣が残っていて、ついつい早く来てしまう。
不二からは『一種の職業病だね』なんてからかわれた経験があるが、早く来るのは決して悪い事ではないのだから変わらずにしている。
「あぁ、おはよう」
昨日の事があったからと言って、手塚の態度は前と何も変わっていない。
大石に返事をしてテキパキと支度を始めている。
「て、手塚、あの、昨日の…中等部の…」
「大石、越前リョーマだ」
ぼそぼそと言い難そうに口に出す大石に、手塚は一つ溜息を吐く。
「あぁ、その越前だが…」
「何だ?」
着替えが終わり、手塚は大石と向き合う。
「いや、その、あの…本当にその越前と付き合うのか?」
「本当も何も無いぞ、全て昨日話した通りだ。それに今から付き合う訳では無い」
自分達は定められた運命に従っているだけ。
子供の頃から出会うべくして出会ったのだから。
「しかしな…」
いまいち歯切れの悪い応対を繰り返すのは、心配性な大石の悪い癖だ。
直そうにも身に付いてしまった癖はそう簡単には直せないものだ。
「大石、俺にとって部活も勉強も何もかもが今までと何一つ変わらない。ただ、俺には大切な存在が漸く手に届く距離に居るだけだ」
「…まぁ、それはそうだけど、でも…」
手塚の台詞は理解出来るし、他人のプライベートにまで口を出すつもりは無かったが、それでもやはり納得が出来ないのが、大石はまだ続けようとしていた。
「…大石…まだ何かあるのか」
「…その、何だ…」
カリスマ的存在の手塚に恋人が出来たとなれば、今まで通りには行かなくなるだろう。
遠くで見守っていただけの者達が、手塚やリョーマに対して何を仕出かすのかが不安なのだ。
手塚は身近に居る分、何かと手助けが出来るだろうが、リョーマは違う。
リョーマはここにはいないのだ。
大石も出会ったばかりの少年に惹かれてしまったのは紛れも無い事実で、真剣に心配していた。
「そんなに大袈裟に心配しなくても大丈夫だよ。おはよう大石、手塚」
次に入って来た不二の開口一番の台詞は、まるで今までの会話を全て聞いていた様だった。
いや、きっと気配を消して、扉の外で話しを聞いていたに違いない。
「不二か、おはよう」
「不二、今のはどういう意味だ?」
意味深な言葉を吐いておきながら、さっさと着替え始めた不二に、挨拶もそこそこの手塚は眉をしかめながら訊ねてみた。
「簡単に言えば、暗黙の了解だよ」
それでも不二の言葉は意味がわからない。
手っ取り早く内容を話せ、と手塚の視線が訴える。
「不二、それは一体何なんだ?」
手塚の様子に慌てて大石が不二に訊ねる。
「えっと、『手塚ほどの人物に特定の相手がいないはずが無い。きっとこんなありふれた学校には見合う相手がいなかっただけで、本当は違う学校にいるんだ。だから自分達では到底敵う相手ではない』ってそんな噂が実しやかに流れているんだよ」
「そんな噂、一体誰が…」
困った顔をした大石と、何だか嫌な予感に包まれた手塚は、同時に不二の顔を見た。
「…まさか」
「もしかして」
同時に呟いた2人。
「…ん?僕の顔に何か付いてる?」
楽しそうに笑っている不二の表情を見れば、誰がそんな噂を流したのかが一瞬で判明してしまった。
「…いや」
「そろそろ、先輩や他の部員達も来る頃だな」
わかっていても口には出せない。
「そうだね」
部室の時計を見ればそろそろ他の部員達がやって来る頃で、数分もすればぞろぞろと入って来るに違いない。
「それじゃ、久しぶりに準備でもしようかな」
中等部とは違い、高等部では下級生だけに準備を任せたりしない。
実力がものをいう世界では上級生も下級生も無い。
早く準備をして、さっさと練習を始めてしまえばいいだけだ。
「俺も手伝おう」
「何?珍しいね」
ボールが入ったカゴを持とうとした不二より先に手塚がカゴを取った。
「…俺だって準備はするさ」
そうは言うが、手塚が準備を手伝うなんて機会は滅多にやって来ないのが現実だ。
手塚は他の部員達から一目も二目を置かれている人物。
最早、ここでは神の様な存在に等しい。
そんな人物に雑用なんてさせられないと、他の部員達がこぞって準備を始めるのが日常だ。
だが、今日に限って、まだ誰も来ていない。
「大石はそこのストップウオッチを持って来てよ」
「あぁ、わかったよ」
普段通りにやって来た部員達は手塚に準備をさせてしまった罪悪感に苛まれ、今朝の練習は、どこか異様な雰囲気の中で始められた。
「あれ?あそこにいるのって越前君じゃない?」
ドリンクを飲んでいた不二の視界に入って来た人物に見覚えがあった不二は横にいた菊丸に訊ねていた。
「どれどれ?あっ本当だにゃ、おチビだ。あれ、私服着てるけど、今日って部活休みなのかにゃ?」
誰よりも視力の良い菊丸の目には、はっきりとリョーマの姿が映った。
「…リョーマ?」
そのやり取りに眉間に皺を寄せて反応を示す男がここには1人いた。
授業後の部活を終えた高等部メンバーは、激しい練習で消耗したエネルギーを補充する為に、学校近くのバーガーショップへ入った。
ここのバーガーショップはチェーン店とは違って本格的な味を追求している店なので、とても人気が高い。
それなりの原材料を使用している割りに値段はそれほど高くないので、学校帰りの学生も気軽に立ち寄れる。
メンバーは普段から買い食い仲間の菊丸と桃城に、不二と大石と乾。
その中には珍しく手塚も含まれていた。
もちろん反応を示したのはこの手塚である。
「おや?誰かと一緒みたいだね」
「あー、女の人だよ…って、ちょっと待てよ、手塚」
店内から外を見る方向で座っていた不二と菊丸が見つけたリョーマは、見たことも無い女の人と歩いていた。
その姿を直視した手塚は、いてもたってもいられずに、涼しい風だけを店内に残して走り去って行った。
「うわ〜、はっやーい」
遠くを眺める様なジェスチャーで、菊丸は手塚の姿を見ていた。
「流石に越前の事となると動きが早いな」
とりあえず、ノートにメモを取る。
「あんなに慌てた手塚先輩を見た事なんて無いのに」
「て、手塚…」
あまりにも素早い行動に誰も対応出来なかった。
「さて、我らが最強の男はどうするのかな?」
どこか楽しそうに手塚を視線で追う不二が、笑顔でポツリと呟いた。
「リョーマ!」
店外へ出た手塚は、迷う事無くリョーマの元へ駆け寄り名前を呼ぶ。
周囲の人々がチラチラと見てきたが、手塚は全く気にしない。
「あれ、国光?こんな所でどうしたの?」
背後から名前を呼ばれ、振り返った先にいた最愛の恋人はかなりの顰め面だった。
数日前に漸く積年の願いが叶って出会ってから、初めて見た表情にリョーマは少し眉を寄せる。
「それより、その…女性は?」
自分に訊ねられた事に答えるよりも、リョーマにこの状態を説明して欲しい。
「あっ、そっか、紹介してなかったね」
大好きな声に名前を呼ばれ振り返った時は、その表情にかなり驚かされた。
どうやら大きな勘違いから、嫉妬の感情の為に顰め顔をしている恋人にリョーマは小さく笑いを浮かべると、視線を横に向けた。
リョーマの視線につられて見たその先には、リョーマよりも背が高く、ストレートの長い髪を優雅になびかせた年上の女性の姿。
「紹介するね、国光。えっと、親父側の従姉妹の菜々子さん。今は短大に通ってるんだっけ?俺は菜々子姉って呼んでるけどさ」
「…従姉妹?」
「初めまして手塚さん。従姉妹の菜々子です。お噂はリョーマさんからお聞きしていますわ」
にっこりと微笑みながら挨拶をする女性を正面からしっかり見てみれば、リョーマに良く似た感じのする顔立ちをしていた。
知らない女性と歩いていた姿を見た時は、説明し難い感情に飲み込まれ、自分でも驚くほどの行動に出ていた。
しかしこうして落ち着いてじっくり見てみれば、なるほど姉と弟のように見られる。
きっとリョーマが男ではなく女だったら、こんな感じになるのだろう。
「国光?」
「あっ、すまない。初めまして手塚です」
じっと菜々子を見ている手塚に、リョーマが少し苛立った声を上げれば、手塚は慌てて菜々子に挨拶をする。
「…国光ってば…」
例え従姉妹であろうとも自分以外の人をこんなに見ているのは面白くない。
「うふふ、リョーマさんったら本当に手塚さんがお好きなんですね」
ジェラシーを前面に出しているリョーマに、菜々子は口元に手を当ててクスクスと笑う。
「当たり前だよ」
「そうでしたわね。この為にリョーマさんは日本に来たんですものね」
菜々子にも日本に来た理由を話してあるようだ。
一体どんな噂をしているのかが気になるところだ。
「そうだわ、せっかく手塚さんがいらっしゃるのなら、後は手塚さんに任せた方がいいわよね。私はここで帰りますわね」
「あっ、うん。ありがと」
「いいえ、また家に来て下さいね」
「うん、そうする」
2人にしかわからない会話をすると、菜々子は手塚に会釈して、その場から離れていってしまった。
「リョーマ…」
菜々子の姿が人混みに紛れてしまってから、手塚はリョーマに無言で説明を催促した。
「今日はね、部活が休みなんだよ。で、菜々子姉にこの辺を案内してもらっていたんだ。菜々子姉には全部話してあるから大丈夫だよ。日本に着てから学校とマンションの行き帰りくらいだからさ、この辺の事って全然知らないんだよね」
リョーマは手塚が気にしているだろうその内容を教えた。
「それなら…」
自分に頼ってくれれば良いのにと、少しばかり悔しい思いが心に浮かぶ。
「うん、国光に案内してもらえばいいんだけど、少しくらいは住んでるトコ知っておきたいんだ」
何も知らないのは、迷子になって泣いていた昔の自分を思い出すから。
少しでも学んでおけばあの頃の二の舞を踏まずに済む。
実はリョーマはあの事件がトラウマになっていた。
しかも行く国々で何度も迷子になりかけた経緯があるので、出来るだけ初めての場所は下調べをしてから動くようにしている。
「リョーマ、次の休みには俺が案内しよう」
「ありがと。で、国光は何でこんなトコにいるの?」
「あぁ、俺は…」
自分がどうしてここにいるのかを詳しく話すと、リョーマも「一緒に食べたい」と言うので(本当は連れて行きたくないのだが、強請る視線があまりにも可愛いので仕方なく)連れて行く事にした。
「へ〜、従姉妹のお姉さんだったんだ」
リョーマを連れて来てからの不二達の浮かれ様に手塚は苛立ちを隠しきれない。
まずは奥の席に座らせてその隣に陣取り、身体への接触を防いだが、目の前にいる不二や菊丸の言葉の接触までは防ぎきれなかった。
「そ、親父の方のね。家が近くだったから今日はちょっと寄ってみたんだ」
注文した出来立てのチーズバーガーが目の前に届くと、早速パクリと齧り付く。
「遠くだったけど綺麗な人だったね」
アイスティーを飲みながら不二は感想を述べる。
「うんうん、おチビに似た美人さんだったにゃ」
「年齢的に越前が似ているのではないのか?」
「そうだよな」
「うっ、別にいいじゃんかー、おチビはおチビなんだし」
「それもそうだね」
勝手に話しているメンバーを横目に、手塚はリョーマの美味しそうに食べている姿に満足していた。
「…ほら、付いているぞ。どうだ、美味いか?」
口の端の付いていたソースを指で拭う。
「あ、付いてた?ん、ここのなかなか美味いよ。ねぇ、ポテトも頼んでいい?」
「にゃに?おチビ、ポテト食う?俺も食うから一緒に頼んで来るにゃ」
リョーマの声を耳にした菊丸が素早く行動した。
「ポテトのMサイズを2つね」
フンフフーンと鼻息交じりでカウンターに行き、ポテトを注文する。
「ほい、ポテト揚げたてだよん。うっまそーでしょ?」
「ありがとーございます、えっと…菊丸先輩」
「にゃ、名前覚えててくれてたんだ〜」
暫くして戻って来た菊丸の手には、ポテトが2つ。
リョーマから名前を呼ばれた菊丸は、嬉しそうに目を細めて1つをリョーマの目の前に差し出した。
湯気が立っているポテトは、視覚的にとても美味そうに見える。
しなしなのポテトでも味だけは変わらないが、食感的にはかなり不味く感じる。
同じ金額を出すのなら何でも出来立てが一番だ。
「あっと、お金…」
「リョーマ、俺が出そう」
受け取ってからごそごそと財布を出そうとしたリョーマより早く、手塚が自分の財布からポテトの代金をきっちり出していた。
「どうした菊丸?」
小銭を菊丸に渡そうとしたが、菊丸は固まっていた。
「へっ?うんにゃ、サンキュ」
まさか手塚が出すとは思わなかった菊丸が、おずおずと手を出せば、その上にポテトに代金を置いた。
「流石、手塚だね」
「素早かったな…」
「やる時はやるんすね」
「…丸くなったな、手塚」
バーガーショップ自体に手塚が来る自体が珍しいのに、こうして人の為に財布の中身までを出すなんて、誰も想像出来なかった。
手の平に乗せられた小銭をじっと眺めた後、財布にしまいズボンのポケットに入れて元の場所に座ると、菊丸は自分のポテトを食べ始めた。
「ありがと、国光」
「いや、1本だけもらえないか?」
普段はポテトを食べない手塚も、リョーマが美味そうに食べている姿に、珍しく触発されていた。
「いいよ、はい」
口元にまで運べば、手塚は何事も無く口を開いてポテトを食べた。
「…ふむ、なかなかだな」
「でしょ…あれ、どうかした?」
2人は幼い頃も普通にしていた行為。
しかしここにいるメンバーは初めて見た光景。
普段の姿とのギャップで驚きを隠せない。
「え、あ、えへへ…」
菊丸は情けないほど大きく口を開けて驚いていた。
「ふーん…」
不二はニコニコ顔であるが、黒々としたオーラを背後に滲ませていた。
「なかなか良いデータが取れたな」
乾は何やらノートへ書き込んでいた。
「…手塚先輩、キャラ変わったっすね」
桃城はただ感心していた。
「それは有り得ないよ、手塚…」
大石はブンブンと頭を振っていた。
それぞれに今見た現象の感想を簡単に話した。
だからと言って2人は何も変わらない。
それよりもっと仲の良い所を見せ付けるだけになる。
「何か変なコトしたかな?」
「いや、何も…」
ペロリと指に付いた塩を舐めて、まだ残っていたチーズバーガーの残りを食べる。
2人にしてみては至って普通の行動だっただけあって、何事も無く自分のペースで食べ続けた。
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