「ただいま戻りました」
マンションに帰ろうとするが、どうにも手塚と離れたくないと、帰るのを躊躇っていたリョーマを手塚は自宅に連れて来た。
きっと自分の母親もリョーマに逢いたいだろうし、自分もこのまま離れたくなかった。
「…国光、どうしたの?」
玄関のドアが開き、息子の帰宅の声が聞こえるが、一向に入ってこないのを不思議に思い、キッチンから出迎えに出るとそこには見覚えのある子供が立っていた。
「…もしかして…」
記憶の扉を開き、その少年が10年前の少年の顔と一致すると、彩菜は歓喜の声を上げていた。
「本当にあのリョーマ君なの?ねぇ、おばさんの事は覚えている?」
「うん、彩菜さん」
「嬉しいわ…お帰りなさい、リョーマ君」
名前を呼ぶ声の懐かしさのあまり正面からリョーマを抱き締めて、帰国ではなく帰宅の挨拶をした。
「ただいま、やっと帰って来たよ」
リョーマが帰って来た事で、夕食はリョーマが好きなメニューばかりがテーブルに並んでいた。
長い海外生活で幼い頃食べた彩菜の料理の味は、各国で食べた最上級の料理よりも美味しかった。
素朴な味わいなのに本当に美味しくて、何度も食べたいと思っていた。
「美味しい」
食べる度に絶賛する声がリョーマから上がる。
「喜んでくれて、とても嬉しいわ」
その懐かしの料理が目の前にずらりと並んでいて、リョーマは嬉しくて全ての料理を残さず食べてしまった事が、彩菜を更に喜ばせる原因になっていた。
「リョーマ君のマンションは広いの?」
食事が済んでから、暫くは手塚の家族と会話をしていたが、明日も学校があるのでリョーマはマンションへ戻る事にした。
玄関で見送る際、彩菜はリョーマに訊ねた。
「えーと、4LDKだったかな?」
靴を履きながらリョーマは考える。
「リョーマ君1人なのに?」
「学校に近いとこって、そこしか無かったから」
マンションもピンキリだが、リョーマの購入したマンションは簡単に買える金額では無い。
「…リョーマ、俺が泊まっても平気か?」
「別に部屋はあるから、いいよ」
黙って聞いていた手塚が突然泊まりたいと言い出すが、リョーマは深い意味を考えずに、肯定の返事を返す。
「うふふ、国光はリョーマ君が心配なのよ」
「心配って?」
きょとんとした顔で手塚を見ても、手塚の表情は何も変わっていない。
「リョーマ君はね、と〜っても可愛いから色々と心配なのよ。国光は」
ね?と息子に意味深な発言をする。
「どういうコトなの?」
「訳は後で話す…」
それだけ言うと、手塚は荷物を取りにさっさと部屋に行ってしまった。
「ふーん、よくわかんないけど、まぁ、いいか」
断るなんて出来ない。
一緒にいられるのなら大歓迎だ。
長い年月の間、記憶の中の相手とは夢の中でしか会えなかった。
触れようと手を伸ばしても、それは決して叶わない願いだった。
時が過ぎても色褪せない綺麗な思い出は、何時までも子供のままの自分達。
『今はどうなっているんだろう?』
『もしかして忘れているかもしれない』
と、思い出す度に不安になる日々は、長い時を経て漸く今日で終幕を迎えた。
大好きだったあの手が昔と変わらない同じ温かさで自分に触ってくれたのが良い証拠だ。
「待たせたな」
階段を降りる音が聞こえ、大きなバッグを抱えた手塚が玄関に現れたので、リョーマは過去の映像を消した。
「彩菜さん、お休みなさい」
「お休みなさい、また明日も来てね」
一緒に食事しましょう、と誘われれば、リョーマは嬉しそうに頷き、手塚邸を後にした。
「ね、繋ご?」
差し出された手を迷う事無く手塚は握る。
リョーマのマンションまで2人は手を繋ぎ歩いた。
「ここか…」
「うん。あっ、こっちだよ」
リョーマが住んでいるマンションは、学校から徒歩へ数分の場所にある、この付近でもかなり高額のマンションだった。
オートロックのマンションは網膜で住人を判別するシステムになっている。
壁に取り付けられた機械の前にリョーマが立つと、識別の機械音がし、強化ガラスの扉が開いた。
2人が中に入ると扉は即座に閉まる。
案内されるがままエレベーターに乗り、リョーマの住んでいる部屋に向かった。
「ここが俺の家。さ、どうぞ」
カードキーでドアのロックを外してドアを開ければ玄関の電気が点き、手塚を中へ招き入れる。
「オートになっているのか?」
ドアを閉めれば、廊下の電気が点く。
「やっぱりこの方が便利でしょ?あっスリッパ無いからそのままね」
言われた通り靴を脱いでリビングまで歩いた。
「…眺めが良いな」
歩いている時は気にしなかった星空。
リビングの窓のカーテンを開いて外を眺めれば、都会の空は星が見えないと言われているが、ここからなら満天の夜空がいつでも眺められるみたいだ。
リョーマの購入した部屋は最上階の角部屋。
広いベランダは本格的なガーデニングや大勢でのバーベキューが出来るほどだった。
しかもリモコン1つでそこはサンルームになる機能が付いていて、雨だろうが嵐だろうか、外の風景をいつでも楽しめる。
「うん、ここなら覗かれる心配が無いしね」
このマンションはこの付近で一番の高さを誇る。
リビングの窓から外を眺めている手塚の横に立ち、ここを購入した理由の1つを話した。
「覗かれる?」
「向こうにいた時は良くあったんだ。ま、相手はわかんなかったけどね」
慣れているのかリョーマは全く気にしていないが、手塚は見えない相手に強い怒りを覚えていた。
「リョーマ…少しは警戒しろ」
覗かれるのは女性特有の被害では無い。
今は男相手にだって覗きは普通にある。
相手が男でも女でも、全く関係ない。
「だって…」
「今までのはどうする事も出来ないが、これからは違うんだぞ、いいか?」
特にリョーマほどの顔や身体付きなら、覗きだけでは済まなくなる。
もっとエスカレートした事だって起きるかもしれない。
愛しい相手を心配してしまうのは、これからを共にする恋人として当たり前。
「いいかって、何が?」
母子揃って意味が良くわからない事を言い出すので、反対に訊いてしまう。
こうした奥ゆかしさは日本人の善い所かも知れないが、はっきり言ってくれないとわからないコトだって、沢山ある。
「日本も安全な国ではないんだぞ。男だろうと女だろうと、襲われるのだからな。特にお前の様な誰からも好かれる奴は危険だ」
「襲われるって…まさか男でもレイプされちゃったりするの?」
「そうだ」
言葉を濁さないリョーマだからこそ、手塚もはっきりと答える。
「国光の周りでもいるの?」
「あぁ…」
淡々と言われ、背筋に冷たいものが走る。
「じゃ、国光は?」
「俺は?」
ぎゅっと強く腕を掴まれ、下から覗くように見ているリョーマの瞳は不安で一杯だった。
「…国光も襲われたりしたの?」
「有るわけ無いだろう…」
手塚の身長はリョーマよりも頭一つ分高い。
体格だって筋肉質では無いが、男らしく鍛えられた肉体をしていた。
テニスだけでなく、運動全般が出来るそんな男を襲うなんてかなり厳しい。
「だって、国光も皆から好かれているんでしょ?」
「好かれているのかはわからないが…」
「テニス部の奴らはいつも言ってるよ?『手塚先輩にみたいになりたい』って」
「それは…テニスに対してだろう?」
よしよしと頭を撫でても、リョーマの不安は少しも払拭されず、腕を掴む力は全く弱まっていない。
「違うよ、皆、憧れの先輩って言ってる…」
憧れイコール好き、とリョーマは考えている。
憧れがいつか恋愛対象に発展するなんて、当たり前の考えだ。
「…俺はお前しか見えていない。まぁ、憧れが恋に発展する事もあるだろうが、俺には無理だ。俺の目にはお前しか映らない」
低めのテノールで囁き掛け、頭を撫でていた手を頬に滑らせ顎に掛け、顔を上に向かせて視線を合わせる。
「国光?」
「幼い頃のお前は男とは思えないほど愛らしくて、見惚れるほどの微笑みを向けてくれた。それがこれほどまでに美しく育っていたとは想像も付かなかった。これではお前から一時たりとも目が離せられないな」
「…国光」
男に対しての褒め言葉としては、これは適切では無いのかもしれない。
だが、長い間恋焦がれていた相手からの言葉なので、リョーマは顔を朱に染めて照れまくっていた。
恥ずかしさのあまり掴んでいた腕を放して少し離れようとしたが、手塚がそれを許さずに反対に腕を掴まれてしまった。
「え、くにみつ?」
「…リョーマ、キスをしても良いか?」
漸く手に触れられた温もり。
もっと触れたいと思うのは、長い間離れていた2人には自然な感情。
「…うん」
突然言われて少し驚くが、嬉しそうにこくりと頷くと、リョーマの両頬に手塚の手が添えられた。
高貴さや精悍さを漂わせる顔が近付いて来て、リョーマが恭しく瞳を閉じると、温かい感触が唇にふわりと降りて来た。
暫く触れるだけの口付けを交わし、お互いに腕を伸ばして抱き締め合う。
「…俺、これがファーストキスなんだよ」
初めて感じた唇の感触は、感動すら覚えた。
「そうか、俺もだ」
リョーマが照れながら言うと、手塚も言う。
「本当に?」
「本当だ」
「…何か嬉しいかも」
ほとんどアメリカで育って来たリョーマは、挨拶程度のキスだって、この日の為に逃げまくっていた。
この唇に触れてもいいのは、手塚国光唯一人だと自分に言い聞かせて。
「リョーマは“かも”なのか?俺はお前の唇に一番に触れられて嬉しい、とても幸せだ」
「国光…ほんとに?」
「本当に、だ」
誰にも触れさせずに今まで守って来たのでも、お互いに対して操立てをしていた訳では無い。
リョーマは幼い頃の約束を信じていながらも、信じられない部分もあった。
所詮は子供の戯言だ。
大きくなって色々な知識が頭に入れば、少なからず疑い始める。
約束通り、逢いに行ってもいいのか?
その約束を覚えているのか?自分の様に今でも好きでいるのか?
悪い方は色々と考えて来た。
このまま逢わずに暮らしていけば、何時かは忘れてしまうかもしれない。
いや、もしかしたら忘れているかもしれない。
とっくに可愛い女の子か男の子と付き合って、キスだってそれ以上だって経験済みになっているかもしれない。
長い年月離れていれば、ネガティブになってしまうのは仕方無いのかもしれない。
何が起きても思い出だけに縋るしかないのだから。
それなのに、いざ出会ってみれば、お互いに今まで誰とも付き合っていないし、キスだって遊びでも挨拶でもしていない。
無論、その先なんて有るはずも無かった。
「…俺も国光と同じで嬉しいし、幸せだよ…だからもう一回してくれる?」
「悪いが一度では済まないぞ?それでもいいのか?」
ちょこんと首を傾げて訊いていたリョーマに、手塚は自分の理性の箍が外れそうになる。
「いいよ、イッパイして…国光ならいい」
リョーマが瞳を閉じればセカンドキスを交わす。
今度は触れるだけでは終わらなかった。
角度を変えて何度も触れ合い、息をする為に薄く開いたリョーマの下唇に軽く噛み付き、舌を滑り込ませた。
「…んんっ?」
急に口腔に入って来た舌は、歯列や上顎をなぞり、リョーマの舌を引きずり出し、絡めた。
次第に深くなる口付けから逃げようとしても、手塚の手によって頭を抑えられていて無理だった。
「…はぁ…」
何度も交わすディープなキスに、リョーマの膝は耐え切れずにガクガクと震え、手塚にもたれるようにキスに応えていた。
長い口付けを終えると、リョーマの身体は芯を無くした様に、くたりと手塚の胸に倒れ込む。
これが初めてのキスなんて嘘みたいな濃厚さに、どこで覚えてきたのかが不安になる。
「…ねぇ、どこで覚えたの?こんなキス」
「どこでなんて俺には無いぞ。お前を感じたくて無意識にしてしまったんだが、何か不安を与えてしまったか?」
「ちょっとね…」
「済まないな、俺自身も驚いているくらいだからな」
自分でも驚くほどのテクニックだった。
身体中がリョーマを求めて勝手に動く。
「…国光…」
自分を支える事の出来ないリョーマの身体を抱え、室内のソファーに座る。
「お前だけを想っていた」
顔中にキスを降らせ、何度も想いを伝える。
「俺も国光だけだよ」
「リョーマ」
「ずっと夢見てた…だから、うれしい」
ふわりと微笑む姿に手塚も口の端を上げる。
「俺もこうしてお前に触れたかった」
頬を撫でる指先が熱く感じる。
「国光…」
募る想いは月日を重ねる毎に膨らむ一方で、1日はとても長く感じるのに、1年なんてあっという間だった。
あと何年我慢すればいいのか?
あと何時間我慢すればいいのだろうか?
1分でも1秒でも早く逢いたい。
逢った時は何から話そう?
手塚はリョーマに比べ、それほどネガティブ思考にはなっていなかった。
必ず自分に逢いに来てくれると信じていた。
あれもこれも話そうと考えていたのに、逢ってしまえば言葉より先に身体が動いてしまった。
これほどまでに求めていたのだ。
「リョーマ…」
「ちょ、ちょっと待って、今日はここまでにしよ?」
口付けを再開しようとした手塚の唇を、リョーマは慌てて自らの手で塞ぐ。
「何故だ?」
むっとしてその手を外し、訳を訊く。
「だって何か勿体無くて…これからは毎日会えるんだから、今まで離れていた分を少しずつ取り戻したいんだ」
一気にされたら勿体無いから、ゆっくりと時間を掛けて欲しい。
その方が幸せを長く味わえる。
「お前は本当に…」
口付けの替わりにリョーマの身体を抱き締める。
愛しくて堪らない。
「お前の事がこれまで以上に好きになった。どうしてくれるんだ?」
「どうもしないよ。俺も好きになってるんだから」
少し照れながら伝えれば、見上げた先にある眼鏡の奥の瞳は、優しさだけを湛えていた。
昔と何も変わらない。
ただ一つ変わった事は…。
「…ねぇ、視力悪いの?」
幼い頃の手塚は眼鏡を掛けていなかった。
「あぁ、小学5年生辺りからか…」
そういえば話していなかったなと、手塚は眼鏡を掛け始めた頃を思い出す。
「眼鏡外したら、俺の顔とか見えなくなるの?」
「いや、これくらいの距離なら平気だ」
不安そうな瞳で話すリョーマに優しく微笑み掛けると、抱き締めていた両手を放し、フレームに手を掛け眼鏡を外すとリョーマの顔を覗く。
眼鏡によって手塚の真面目さや冷静さを全面に出していたが、外した素顔は眉目秀麗で、更に男らしさを浮き彫りにさせる。
「…カッコイイ…」
突如、目の前に現れた素顔に思った事呟いてしまった。
高校生のくせにモデル並みに身長は高い。
それに見合う顔も持っている。
声だって耳元で囁かれたら一瞬にして腰が砕けそうだ。
勉学の成績はかなり優秀だと聞いているし、テニスの腕前もかなりだと。
こんなに完璧な人が自分を好きだなんて何だかくすぐったい。
「リョーマ?」
エヘヘと笑うリョーマを不審に思い呼び掛ける。
「国光って本当にカッコイイね…ちょっと眼鏡の跡が情けないけどさ」
笑ったまま手を伸ばしてその跡に触れる。
ちょっとだけ窪んだ肌。
「でも、そのくらいがいいよ」
「どういう意味だ?」
自分の顔に触れるリョーマの掌に軽く口付ければ、驚いた様に手塚の顔から手を離す。
「俺は国光のカッコイイとこも、カッコ悪いとこも知ってるんだもんね」
指に触れた唇の感触も自分だけが知っていればいい。
誰も知らなくていい。
「そうか?ならば俺にも見せてくれ」
「何が見たいの?」
「お前の良い所も悪い所も、何もかも全てだ」
「何もかも…まぁ、カッコ悪いとこは昔の俺」
「昔の?」
「うん、転んで泣いて国光にしがみ付いてただけの俺」
思い出すと少しブルーになる。
「知らない土地で独りになれば当たり前だろう?それにあの頃のお前はまだ四歳だったんだぞ」
幼い子供が始めての土地でたったの独りきり。
不安になり痛い思いをすれば、泣きたくなくても自然に涙が出てくるものだ。
「でもさ、えっと虚勢を張るって言うのかな?あの頃の俺って子供ながらに強がってたんだよね、俺は独りでも大丈夫だよって、本当は寂しくて仕方無かったのにさ」
「…リョーマ」
自嘲する様に笑うリョーマの頬へ手を伸ばす。
「でも、良い所はこれからかな?」
頬に添えられた掌に自分がされた様に軽く口付けるが、手塚は手を離さない。
「これからか」
「そっ、これから国光が見付けて」
手塚の手の上に、一回り小さなリョーマの手がそっと重ねられた。
「そうだな、俺が全て見付けてやる」
そう言うと、残った片手をリョーマの腰にまわし、もう一度身体を引き寄せる。
「約束だよ」
「約束する」
手塚の返答にリョーマは重ねていた手を外し、両手で抱き付いた。
「…絶対だよ」
「絶対にだ」
コツンと額を合わせて、2人は同時に笑った。
「あのさ、寝るトコなんだけど、ベッドが俺のしか無いから一緒でいい?」
手塚は持ち主より先にバスルームを借りて汗を流し、再びリビングへ戻れば、リョーマが困った顔をしてソファーの背凭れ越しに話し掛けて来た。
「あぁ、俺は構わないぞ」
「良かった。どうせ誰も来ないから余計な物はいらないって思って、ゲスト用って何にも買ってないんだよね」
「だからか…」
手塚は玄関を入った瞬間からこの場所に何か物寂しさを感じていた。
1人で住むには広すぎる空間に、必要最低限な家具と家電製品。
もう少し『何か』があればいいのに、その『何か』が思い付かない。
「国光もここに住んでくれるといいのにな…」
「リョーマ?」
「ううん、何でもない、俺も風呂に入るね。あっと、テレビでも何でも好きにしていいからね」
どことなく照れたような顔で立ち上がり、反対に手塚をソファーに座らせてからバスルームへ向かった。
「…ここでリョーマと暮らす、か。俺の理性が持てばいいのだがな…」
深い溜息を吐くと、煩悩を消す為にテレビのスイッチを入れた。
こうして10年振りに再会した2人は、昔話や現状を話しながら一夜を共にした。
もちろん手塚は己の理性との戦いだったのは言うまでも無い。
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