「……ん…う…」
「おチビ?」
「…あれ?俺……菊…丸…先輩?」
ぼんやりとする意識の中で、リョーマは目の前の人物を認識しようとしている。
ここがどこなのか?
どうして目の前にこの人がいるのか?
謎ばかりが増える。
どうやらまだそこまで認識する意識は無いようだ。
「大丈夫?」
「ん…俺…どうして?」
しかも今の自分の状態を全く理解していない。
「倒れた事、覚えてる?」
「…俺が?」
「どうやら覚えていないようだね」
「……不二先輩?」
ぼんやりとした意識は随分覚醒して来たので、頭の回転をフルに活動させて自分の状態を確認しようと必死になった。
この場所が男子テニス部の部室である事は瞬時に理解が出来た。
しかしそれからは少しばかり恐縮する。
「……すみません。菊丸先輩」
何とリョーマの頭は菊丸の足の上。いわゆる膝枕状態になっている。
「ん?だってベンチの上だと頭が痛いっしょ?」
「…でも」
「あ〜、まだ駄目だよ」
起き上がろうとしたが、菊丸にそのまま押さえられて再び膝枕へ逆戻り。
「軽い貧血みたいだね、まだ顔色が良くない」
そっと額に手を乗せて、乱れた前髪を整える。
その仕種は誰かを思わせるほどの優しい動き。
「不二、おチビ起きたからもういいよ」
「それじゃ、僕は行くね」
リョーマが意識を取り戻したのなら、コートの連中に知らせなくてはいけない。
その役目は不二が負った。
バタンと扉を閉めてしまえば部室はリョーマと菊丸の2人きり。
静かになった室内には、時計の針の音だけが大きく響いていた。
「…あの、足…」
「うん?痛くないよ」
寒くないように身体にはジャージが掛けられている。
色はグリーン。
この色は3年生のカラーだ。
これは菊丸が練習時に着ようと持って来た物。
頭は痛くならないように膝枕。
身体は冷えないようにジャージ。
優し過ぎる菊丸の行動に戸惑うばかり。
どうしても幸せだったあの頃を思い出してしまう。
「おチビ…」
顔を横に向けていたリョーマは、呼ばれた事により上を向き菊丸と顔を合わせる。
上を向くリョーマと、下を覗き込む菊丸。
「何ですか?」
「……手塚と何かあった?」
「…え?……ど…して?」
一瞬だけ目の前が真っ白になった。
誰にも言っていない。
言える訳が無い。
誰も知らない2人だけの秘密なのに、どうしてこの人は知っているのか?
不安と恐怖に、知らず知らずのうちに身体が固くなる。
この状況では逃げ出す事も不可能だ。
「…大丈夫、俺だけだよ。知ってるの」
「菊丸先輩?」
ぽんぽんと軽く肩を叩くと、不安を払拭させる為に、どうして自分が知っているのかをリョーマに教える。
「あれは8月の祭りの日…」
お祭りには、多くの人々が集まる為に出店も多い。
普段は物寂しい神社も、この時ばかりは明るく華やかなものになる。
最後の締めには打ち上げ花火がある為に、カップルや家族連れが多い。
楽しいと思わせる何かがあるのだ、祭りには。
菊丸達テニス部レギュラー陣は、皆で一緒に行こうと数日前から計画を立てていた。
「俺と大石と不二と乾と桃と…」
「タカさんは?」
「あ、ゴメン。その日は店が忙しいから…」
自宅が寿司屋の河村は、祭りなどのイベント時は忙しい。
だから手伝いをしなければいけない。
「残念だにゃ〜。あっ、手塚はどう?」
去年は河村を除いた今の3年生全員で祭りに行った。
だから自然に手塚も誘う。
「すまないがその日は用がある」
「あっそ」
あっさり断られた。
「海堂は…」
「…すんません」
こちらは何となく断られると思っていた。
「おっチビ〜」
「…興味ナイっス」
一番連れて行きたい相手に断られたショックはかなり大きい。
小さい頃からアメリカ育ちの為に、日本の祭りなんて初めての経験だろうと踏んでいた。
だからこそ、是非とも浴衣でも着せて連れて行きたかったのだ。
きっとカワイイに違いない。
いいや、カワイイに決まってる。
絶対にカワイイ。
「えー、本当に?」
「人ゴミは嫌いっス」
それから何度も誘ったが、結局リョーマは首を縦に振らなかった。
「家に押し掛けたら断れないだろう」
ニシシと笑いながら、菊丸はリョーマの自宅へ向かっていた。
浴衣じゃなくてもいいから、一緒に行けたらいい。
もし「行かない」と言われたら最後は泣き落としだ。
そこまでの覚悟を決めていた。
「あれ?手塚…おチビ?」
曲がり角の向こうに、見慣れた人物が二人いた。
2人は何か話をしているようで、自分には全く気付いていない。
悪いと思ったが、身体を隠して話を聞いていた。
「それじゃ、後でね」
「あぁ、暗くなるから気をつけろよ」
「…子供じゃないよ」
「心配なんだ」
2人の会話から祭りに一緒に行くのがわかった。
あれだけ断った理由が手塚と知った瞬間、ムカムカと怒りが込み上げて来た。
「…2人だけで行くつもりなんだ」
どうやら自分達の誘いを断って、2人きりで行こうとしていたのだ。
「リョーマ…」
「…ん」
手塚は『越前』ではなく、『リョーマ』と名前で呼んでいる。
信じられない、とこっそりと覗いてみると、2人は熱い口付けの真っ最中だった。
「…う、嘘…、手塚とおチビが?」
見た事も無い手塚の優しげな笑みと、恥じらいながらも受け入れるリョーマ。
この2人は付き合っている、それもかなり深い仲だと、そう理解した。
当然、間違っていないだろう。
それだけの親密さを感じたのだから。
感じたと言うより、その現場を見たのだから。
少しだけ悔しい、俺だって本当は…。
菊丸は気付かれないように、その場を後にした。
「見てたんスか?」
「うん、ゴメン…」
素直に謝る菊丸は、「本当に誰にも言ってないよ」と何度もリョーマに言う。
暑い夏の日…楽しかった思い出。
少し汗ばんだ肌に汗が伝い落ちるその瞬間。
思い出すのは手塚との事だけ。
それ以外は何も思い出せない。
「で?何かあったの」
「……別れた……嫌われた」
知っているのなら隠しても仕方ない、とリョーマは口を開いた。あの日言われた、あの言葉を。
「へ?」
しかし、その言葉を菊丸は聞き逃し、間抜けな返事を返してしまった。
「ううん、遊びだったんだって。俺みたいな子供相手に本気になる訳ないって」
「何だよ、それ…」
無表情で感情のこもらないあのセリフ。
自分で言うと悲しさが倍増する。
「そんな事を、手塚が?」
文武両道、冷静沈着、方正品行、なんて言葉が瞬時に思い付くあの手塚国光が?
「本当だよ…」
片手を目の上に押し当てて、何かを耐えていた。
小刻みに震える身体と唇から、リョーマが『泣いている』とわかる。
「泣くなよ、おチビ」
自分の膝の上で泣いているリョーマの頭を、やんわりと撫でる。
「な、おチビ。俺と付き合わない?」
「…菊丸…先輩?」
「あー、えと、変な意味じゃなくて」
突拍子もない言葉を言っている、とわかっているのに声に出してしまった。
ただ哀しそうに泣くリョーマの姿を、これ以上見ていたくない。
どうにかしてその涙を止めたかったのだ。
「あのさ、俺…おチビが好きだよ?でもさ、いけない感情だと思ってたんだ。やっぱり俺もおチビも男だろ?だから……」
菊丸の言いたい事は良くわかる。自分だってそうだったのだから。
でも…違った。
あの時は手塚もそれを受け入れてくれた。
嘘だと知った今でも、その時の光景が鮮明に甦る。
「でさ、辛い事とか哀しい事とかは早く忘れた方がいいと思う。だから俺と一緒に沢山遊ぼ?」
なんだか一所懸命になっている。
いつもの雰囲気とは違う。
本気の目、真剣な眼差しだった。
…あの人も良くこんな目をしていた。
「おチビ、手塚の事なんて忘れちゃえよ」
最後に少しだけきつく言う。
「…菊丸先輩が忘れさせてくれるんですか?」
いきなりの告白にリョーマの涙は止まっていた。
強気な眼差しと視線が合う。
これだ、これが越前リョーマなのだ。
「もちろんだよ」
「…先輩」
膝の上に乗せていた頭をゆっくりと離し、身体を起き上がらせて菊丸の隣に座る。
ふらつく身体は菊丸の腕によって支えられた。
「…今日は帰った方がいいよ?」
きっと今まで熟睡なんて出来なかったんだろう。
授業中でも部活の休憩時でも、直ぐに眠ってしまうほど、三度の飯より睡眠のリョーマが、眠れなくて貧血を起こしてしまうほど憔悴している。
きっと食事だってまともに摂っていないのだろう。
睡眠不足と軽い栄養失調。
これが倒れた原因だと思う。
「…でも」
「俺が送ってやるから…な?帰ろ」
「…うん」
「よし、じゃ着替えてて」
リョーマが頷くと、菊丸は急いで部室を飛び出して行った。
桃城にこのまま帰る事を伝えに行ったのだろう。
「…アリガト…」
リョーマは外に言ってしまった菊丸に礼を言うと、ベンチから立ち上がりジャージを脱いだ。
「ほい、おチビ」
学校から出ると、菊丸から何かを渡された。
それは、小さな箱。
「?お菓子…」
「そ、これ新発売なんだぞ」
見た事の無いパッケージには、『新登場』と書かれている。
人気のあるその菓子の新しい味を、早く食べたいと買った物だ。
「一緒に食べよ?」
リョーマに渡したその菓子の箱を、もう一度自分の手に戻し、ペリペリとフィルムを剥がしている。
「いいの?」
「何が?」
フィルムを剥がし終え、そのゴミを学生服のポケットに突っ込んだ。
「これ、自分が食べたいからじゃないんスか?」
カパっと箱を開けると、ミルク色に包まれたお菓子が現れた。
甘い香りが鼻の回りをふわりと漂う。
「ん〜、おチビと一緒に食べた方がいいじゃん」
別段気にする事も無く、その1つを口に入れた。
「うん、ウマイ。ほら、おチビも」
サクサクと良い音を立てながら次を口に入れた。
「あっ、うん」
箱から1つだけ取り出し、自分も口に入れる。
噛むと甘い味が口の中に広がる。
「…甘くて美味しいっス」
「だろ?」
疲れた時は甘い物が良い。
優しいミルク色のその菓子は、リョーマの身体に深く浸透する。
甘いホワイトチョコの中に、少しほろ苦いココア味のビスケット。
箱が空になるまで2人はその味を楽しんでいた。
「おチビ…」
「ん?何スか」
「あのさ…今日から先輩じゃなくて、名前の方で呼んでくれるかな〜?」
照れたようにポリポリと鼻の頭を掻いている。
「やっぱ…駄目?」
「…ううん、いいよ。えっと、英二?」
「わっ、照れるにゃ〜。じゃ、俺もリョーマって呼ぼ」
にや〜と照れ笑いを浮かべる口と赤くなった頬。
なんとも菊丸らしい仕種だった。
「今日からよろしく、リョーマ」
「こちらこそ…」
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