次の日から変わらないといけない関係があった。
それは誰も知らない関係だと思っていた。
冬の部活の内容は、体力作りの為に走り込みを行うのが普通であるが、テニス部は普段通りにボールの打ち込みを行っていた。
次第に風が強くなるこの季節は、これまでの季節に比べて動きが鈍くなってしまうのは仕方の無い事。
しかしそれではいけないと、テニス部では冬の間は今まで以上に練習が厳しくなる。
「おい、越前」
「何スか?海堂先…副部長」
「…いい、言い直すな…」
今のテニス部は桃城が部長で、海堂が副部長なのだ。
分かっているが、ついつい今までの呼び慣れた呼び方をしてしまう。
「別に先輩でいい…」
「ういっス」
海堂とリョーマが話しをしているのを遠くから眺める人物がいた。
学生服姿で隠れるように見詰めている。
その視線に気付く者は誰もいない。
「お前、顔色が悪いぞ」
「…そ、そうっスか?」
「…悩み事でもあるのか?…」
「……別に…」
海堂は意外と人の感情に敏感だ。
どちらかと言うと、人に無関心かと思わせる素振りを見せていた海堂だったが、3年生がいなくなった今では、その態度をかなり友好的にさせている。
上級生や副部長という責任感からなのか、はたまた桃城に対抗意識を燃やしているのか、それは誰にもわからない海堂だけの決意であった。
そんな心情の変化も合って、海堂はリョーマの顔色の悪さを心配してやって来たのだ。
その理由は、リョーマにはわかっている。
しかし…言えるはずなど無い。
「…越…」
「やっほーい。海堂〜、おっチビ〜」
黙ってしまったリョーマの名前を呼ぼうとした時、丁度フェンスの外から2人を呼ぶ声が聞こえた。
その声の持ち主はリョーマを独特な呼び方をする。
それだけで誰なのかが判明した。
「菊丸先輩」
「…先輩」
「頑張ってるかにゃ〜」
ぶんぶんと大きく手を振り、自分の存在を猛烈にアピールしていた。
その声に気が付いた桃城が足早に近付いて来た。
「英二先輩じゃないですか」
「桃、この姿だけどコートに入ってもいい?」
「もちろんっすよ」
「お邪魔しマース」
桃城が承諾すると、菊丸はコートに入って来た。
別に引退したからといって、二度とコートに足を踏み入れてはいけない訳では無い。
自分だけが学生服なのが、ちょっと悪いと感じたのだろう。
他の部員達はそれぞれ菊丸に挨拶をしている。
それには、軽く手を上げて対応していた。
「後で不二も来るからな」
「練習見てくれるんすか?」
珍しく3年生が現れて、1年生と2年生しかいないコート内はザワザワとしていた。
顧問である竜崎はまだコートに来ていないので、自分達だけで練習を行っていたのだ。
「その通り〜、カワイイ後輩の面倒を見てやろうって先輩の優し〜い心遣いだよん」
「それ言わない方がいいんじゃ…」
桃城に言われ「あっ、そうか」と笑う菊丸に、リョーマもつられて笑ってしまった。
楽しげな笑い声がコート内に響く。
「…桃、ちょっとイイ?」
「何すか?」
菊丸は少しだけ桃城とその場を離れた。
「おチビ、最近元気ない?」
数日前から部活中のリョーマの様子が、普段の雰囲気とどこか違っていると感じていた。
ほとんどは校舎から覗いているだけなのだが、それでもリョーマの様子はわかる。
顔色が悪いのは目に見えている部分の変化。
だが、菊丸が感じていたのは内部の変化。
人の感情に聡い菊丸だからこそ気付いた違和感。
「そうなんすよね」
桃城もリョーマの様子には気付いていたが、何も言わないし、聞いて答えないので、自分にもわからないと答えるしかなかった。
「あっ、不二」
桃城とリョーマの様子をこっそり窺っていたその後方に、不二の姿が確認された。
まだフェンスの外だったが、菊丸の声に部員達が一斉に外を見た。
「不二先輩」
「こんにちは」
現れたもう1人の3年生に対して、部員達は敬意を込めた挨拶をしている。
「頑張ってるようだね」
不二がコートに入った瞬間、その場の雰囲気がガラリと変化した。…と言うか緊張している。
菊丸とは違い、その存在はかなり強大だ。
「何かさ、不二の方が緊迫感あるんだけど」
「…人徳って事?」
さらりと言うが、表現的は間違っていない。
不二は手塚に次ぐ実力の持ち主だった。
抜群のラケットセンスは手塚に勝るとも劣らない。
そんな人物が練習を見てくれるとなれば緊張もする。
「ふーんだ、いいもんにゃ」
「英二先輩にだってイイ所ありますよ」
「桃…“にだって”ってナニ?」
慌ててフォローに回った桃城だったが、どうやら焼け石に水だった。
「あっと、そうじゃなくって」
ジロリと不貞腐れた顔になって見ている菊丸と、自分の失言に慌てて言い訳をする桃城。
まるで漫才だ。
「2人とも、もういいじゃない。英二もそろそろ着替えたら?」
クスクスと2人を見て失笑を浮かべる。
見ていて楽しいが、今は部活の時間だ。
せっかく来たのに何もしないで帰る訳にはいかない。
「ほら、海堂も見ていないで。もうそろそろ練習を始めないと駄目だよ」
「…はっ、すんません。…おい、練習だ」
ぺこりとお辞儀をして、浮き足立っている部員達に向かって一言だけ言う。
それだけで部員達はバタバタと慌てて走り練習を再開する。
「ん、越前もだよ」
「…あっ……ッス…」
どこか遠くを見る目で、桃城と菊丸のじゃれつきを眺めていたが、不二の言葉に我に返った。
そしてリョーマも練習に参加しようと、足を一歩踏み出した瞬間、ぐらりと身体が傾き、地面に吸い込まれるように倒れ込んで行った。
「おチビ!」
「…っ、越前!大丈夫」
菊丸の瞬時の判断により、リョーマの身体は地面と激突せずに済んだ。
「大丈夫っすか?」
一緒にいた桃城も心配そうに顔を覗き込んでいる。
菊丸の腕に抱えられているリョーマの顔は、誰が見ても蒼ざめていた。
「…越前?」
不二が頬を軽く叩いてみても反応は全く無く、完全に意識を失っていた。
「どうしたんだ?」
「倒れたみたいだけど…」
わらわらと近寄ってくる部員達は、突然の出来事に対応できず、ただこの状態を周りからじっと見守っているだけ。
「英二、とりあえず部室に運ぼう」
「そ…そうだにゃ」
菊丸はそのままリョーマを抱え上げて、コートから出て行った。
「…おチビ…」
いつもとは違う蒼白い顔。
小さくて細い、成長途中の身体。
意識が無い身体は普通なら重く感じるのだが、リョーマは不思議と重いとは感じなかった。
聞いている体重よりも軽いとさえ感じる。
だらりと垂れた片腕は、菊丸の動きによって左右に頼り無く揺れているだけだった。
「桃城と海堂はそのまま練習を続けていて、僕達が越前を見ているから」
菊丸が連れて行ったのを確認し、下手に騒ぎを起こさないよう桃城達に練習を続けさせる。
「…はい」
「わかりました。全員、練習開始だ!」
不二も桃城と海堂に告げると、少し急ぎ足で部室へと足を向けた。
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