「あら、お帰りなさい。国光」
「お帰り」
手塚が家に戻ると、リョーマはリビングで彩菜の手伝いをしていた。
テーブルの上に新聞紙を広げて、その上でえんどう豆の房から豆を取り出していた。
「…起きていたのか…」
「もう大丈夫だよ」
房から豆を取り出すと、目の前のボウルへ入れていく。
とりあえず、ベッドから起き上がれるほど回復しているのには安堵する。
「あら、もうこんな時間になっていたのね。そろそろお昼にしましょう。越前君お手伝いありがとうね」
彩菜が時計を見れば、もう正午をとっくに過ぎていた。
新聞紙を丸め、豆が入ったボウルを持つと、彩菜は立ち上がり昼食の用意をする為にキッチンへ行ってしまった。
「…俺、手を洗ってくるよ」
くんくん、と手の匂いを嗅いだリョーマは、その青臭さに顔をしかめた。
「リョーマ、本当に身体は平気なのか」
「うん、もうほとんど大丈夫」
テーブルに両手をついて立ち上がったリョーマは、心配そうに訊ねる手塚に笑顔を見せると、洗面台へと歩いていった。
いつもとおりに歩く姿に漸く心から安心する。
「―――それでね、越前君が手伝うって言ってくれたの」
昼は三人しかいないので簡単なものにした。
鯵のひらきに切干大根と人参と椎茸の煮物、ワカメときゅうりの酢の物、白菜の漬物、そして豆腐の澄まし汁。
あっさりした味ばかりの昼食だった。
夏を迎えた今は、あっさりした味付けが好まれる。
食事を済ませると、その場でトークが始まった。
「だって、暇だったし」
ゆっくり休んだおかげで、日常生活を過ごす分には困らなくなった。
十時を過ぎた頃、流石に起き上がろうとして、身体の具合を確かめながら立ち上がれば、腰に鈍い痛みはあるが、それほど苦にはならなくなっていた。
着替えに、と出されていた手塚の服はかなり大きく、半袖なのにリョーマが着ると七部丈のようだった。
下は制服を穿いて、顔を洗ってから階段を降りた。
そこで、リビングにいた彩菜と話をして、お手伝いに発展していた。
「さぁ、二人は向こうで休んでいて頂戴。越前君、後で水羊羹を出すわね」
さっさとダイニングから二人を追い出すと、彩菜は一人で片付け始めた。
場所をリビングに移動して、ソファーに座る。
何をするでもなく、黙って座っていた。
「部活、どうだった」
そんな不自然な沈黙に耐え切れずにリョーマは口を開く。
「いつもと変わらないが、お前がいないと正直言ってつまらないな」
「ふーん、それで……あの、不二先輩は?…」
戸惑いがちに声にしたのは不二の名前。
部活に参加したのなら絶対に顔を合わせる相手。
不二はリョーマを辱めた後でも平然と参加していた。
「あぁ、話は着いた。あいつもそのうち目が覚めるだろう」
「そうなんだ。それならいいや」
緊張していたのか、リョーマは大きく息を吐いて背中をソファーに預けた。
「リョーマ…俺は見てしまったんだ」
膝の上に肘を置き、両手を顎の下で絡める。
「何を?」
「お前と不二の…」
「…な、なんで?どうして?」
みなまで言わなくても、手塚の様子を見ればわかる。
手塚が言いたいのは不二に強姦された場面だ。
「…昨日、不二が俺にそのデータが入っているDVDのディスクを渡しに来たんだ」
「ディスクって、まさか不二先輩、隠し撮り?」
手塚の言葉で可能な限りの考えを口にすると、手塚は何も言わずに頷いた。
「俺にはDVDを見る為の機器が無いからと言えば、プレイヤーまで渡された。しかも必ず一人で見ろと付け加えてな」
用意周到な行動は手塚に興味を持たせる為の布石。
だが、見る前にリョーマから告白され、不二の思い通りにはならなかった。
「…見ちゃったんだ。俺が不二先輩に……」
「あぁ…」
ろくな抵抗も出来ず、なすがままに抱かれた姿を。
両手を拘束されて、バタつく足を押さえられて、いいように扱われた…あの場面を。
まさか不二が撮影していたなんて、夢にも思わなかったリョーマは、頭をハンマーで殴られたように目の前が白くなり、出している声が震える。
「……くっ…」
耐え切れずにその場から逃げ出そうと腰を上げたが、手塚は反射的にその腕を掴み、元の位置に戻した。
「リョーマ…」
逃げないように腕を押さえる。
顔を合わせないように、横を向くリョーマに手塚は不二にも話した自分の想いを告げる。
「不二の行為は許されるものではないが、お前の為にも俺は忘れる。もう二度とこの話もしない。不二は二度とお前に手を出さないと誓った」
「………」
震える唇をきつく噛みしめながら手塚の決心を聞いていたリョーマは、ゆっくりと顔を手塚に見せる。
「お前も直ぐには無理かもしれないが、出来るだけ忘れるように努めてくれ」
薄い膜が張っているリョーマの瞳。
悲しみの涙だけは流させたくない。
「うん…それに、国光が忘れされてくれるんでしょ」
「あぁ、そうだ。俺が全てを忘れさせてやる」
揺ぎ無い手塚の決心に、リョーマは耐えていた涙を零した。
悲しみでは無くなった涙を。
「まぁ、どうしたの越前君?国光、あなた…」
直後、水羊羹と麦茶を持った彩菜に、リョーマを泣かせたと勘違いをされて、手塚は怒られてしまった。
もちろん誤解はすぐに解けたが、自分の息子よりもリョーマを心配するのはどうなのかと、リョーマは深い溜息を吐いていた。
「明日の部活は休みだから、ゆっくりしていろ」
長々と居座るのも何だからと、リョーマは夕食前に帰ろうとしたが、彩菜に引き止められ、結局は夕食までご馳走になってしまった。
夕焼けが沈みかけている空は全てを朱色に染め、歩いている二人の顔も同じ色になっていた。
「そんなに心配しなくていいよ。今日サボった分は明日で取り戻すから」
身体の軋みは随分と楽になり、支えられなくても真っ直ぐ歩けるようになった。
「だが、無理はするなよ」
時折ふらつく身体を支え、手塚は心配そうに呟く。
「…そんなに不安なら一緒にする?俺の家ならコートあるよ」
「それはいい考えだな。明日はそうしよう」
離れて心配するくらいなら、一緒にいれば身体の様子を見られる。
手塚はリョーマの提案に一つ返事で答えた。
「え、マジで?……それもたまにはいいか…」
冗談のつもりが本気に取られてしまい、リョーマは焦るが、一人よりも相手がいた方が練習になる。
それに手塚なら、何よりも良い相手だ。
「では、明日な…」
リョーマを家の前まで送ると、手塚は優しく微笑む。
「…あ……その、ありがとう」
小さく礼を言うリョーマの頭をくしゃくしゃと撫でると、手塚は自宅へ戻って行った。
次の日も朝から手塚はリョーマの傍にいた。
しかし練習は少しだけで、ほとんどの時間は部屋で二人きりでいた。
手塚と過ごす時間によって、ひび割れていたリョーマの心を癒していく。
そっと触れ合う唇の温かさ。
力強く抱き締められる腕と胸の温かさ。
手塚の何もかもがリョーマの心を癒していた。
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