次の日もリョーマの身体のダメージは取れていなかった。
「今日はここでゆっくりしていてくれ」
リョーマは手塚が部活に行く時間まで目が覚めなかった。
心底疲れているのを悟り、あえて起こさないようにいていたが、目が覚めて自分がいないのを知るよりも、伝えておこうとぎりぎりの時間になって漸く起こした。
身体を動かすだけでも顔をしかめるので、今日の部活は休ませておいた。
「でも…」
「母には頼んでおいたから何も心配は要らない」
困惑しているリョーマの頬を両手で包み、安心させるように口付けをする。
唇を擦り合わせた後、軽く下唇を噛んでやるとリョーマは身体を震わせた。
「…今日の部活って」
「午前中だけだからな、終わったらすぐに戻る」
熱くなりそうな身体を抑えて最後にもう一度だけ深く口付けると、手塚はバッグを担いで部屋から出て行った。
当然のように手塚は平然と部活を進めていた。
時折、不二が何か言いたげな眼差しを向けてくるが、それすらも無視していた。
ここで不穏な態度を不二に見せれば、相手の思うつぼなので、あえて凛とした態度を見せていた。
「…手塚、おチビは?」
こっそりと手塚に近寄り、ここにいないリョーマの様子を訊ねたのは菊丸だった。
お気に入りの後輩が塞ぎこんでいたのを見かねて、何か相談に乗れないかと屋上に行ったあの日。
どうやらその原因が不二にあると直感した菊丸は、不二にバレないようにやって来た。
「今日は体調が優れないので休むと連絡があったが、特に問題は無い。大丈夫だ」
「そっか、良かったにゃ」
「何故そこまで気に掛かるのだ?それに何故俺に訊く?」
「だってさ、おチビが暗〜い顔してるのって似合わないし、最近手塚とおチビの仲が良さそうに見えたから。何があったのかなんてどうでもいいけど、悪い事じゃないっしょ?」
明らかに安心した顔を見せる菊丸に、リョーマが自分以外の人間からも大切にされている事を知った。
大石に呼ばれた菊丸がコートに入って行く。
他のメンバーもリョーマがいない事で、どことなくいつもと違う雰囲気になっていたが、手塚の手腕により普段通りの練習が出来た。
だが、手塚にはやらなければならない大事な用件がある。
今日はその為に部活を早めに切り上げた。
「この後だが、少しいいか?」
顧問の竜崎との打ち合わせの後、手塚は着替え途中の不二に鋭い視線を投げた。
「…いいよ」
不二も手塚に負けないくらいの視線を向ける。
この二人の短い会話に周囲が水を打ったように静かになる。
「じゃ、俺達は先に帰るな」
「あんまし遅くなるなよ〜」
何があったのか知らないが、巻き込まれないように我先にと帰って行き、最後に残った菊丸と大石を見送った手塚と不二は、扉が閉められた途端、部室内で軽く睨み合う。
「…先にこれを返す」
「見たの?」
手塚は不二に借りていたディスクとプレイヤーを渡す。
「あぁ、見させてもらった」
見たくも無かった映像だが、これでリョーマに起きた一部始終がわかり、リョーマの中に色濃く残る辛い記憶を手塚も共有した。
「それで、ご感想は?」
手に持っていても邪魔なだけなので、それらをバッグにしまい、不二は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「特に無いな…」
「へぇ、なかなか寛大な心をお持ちで…」
「ふざけた事を言うな」
手塚は不二の襟元を掴み、ぐい、と上げる。
その瞳には先ほどまで無かった『怒り』の感情が窺える。
「…君でも感情的になるんだね」
息苦しさを感じる中でも、不二は冷静を保つ。
「俺も知らなかったな、俺自身の中にこれほどまでの感情がるとはな」
投げるようにその手を放せば、急激な力の変化に不二の身体が少しだけよろける。
「これで満足したのか、不二」
「…何を?」
よろけた身体を戻し、不二は乱れたシャツを直す。
「お前は俺に復讐をしたいと言っていたな。それは叶ったのかと訊いたんだ?」
不二の目的は手塚の大切にしているのを壊す。
手塚の大切なもの。
それはテニスであったり、家族であったり、友人であったりするが、それよりも大切にしているものを見つけ出した。
それが復讐のターゲットに抜擢された『越前リョーマ』だった。
「一応は叶ったみたいだね…でも」
「でも?まだ何かあるのか」
「…僕の予想としては君達は別れると思ったんだけど、まだ付き合っているよね。どうして?」
予想としては、二人は絶望の中、別れを決めると思っていただけに、どうやらまだ関係は終わっていないのに気付く。
これでは面白くない。
「ふん、当たり前だ。俺があれほどの事で諦めると思っていたのか?見損なうな」
「どうして君はそれほどまでに…僕を苦しめるんだ」
思い描いた通りにいかず、不二は俯いて唇を噛み締める。
シナリオ通りに運んでいたのに、最後の最後で出演者の手によってシナリオが変えられた。
「苦しむ?お前の勝手な思い込みに越前を巻き込むな。俺が何も無しに今の俺があると思っているのか?」
「…君に僕の何がわかるっていうの、何も知らないクセに」
「知りたくもないな、今の俺がどれだけの努力の積み重ねの上にあるのかを知らないお前の事など」
叫ぶように吐き出す不二に、手塚は言葉のトーンを乱さないように応える。
手塚の言葉に不二は顔を上げる。
厳しさを含んだ眼差しは不二の姿を直視していた。
「俺はお前の行動を許しはしないが、もうこの事は今度一切口にはしない。もし再びお前が越前に手を出すような真似をすれば、今度は俺の手でお前に制裁を加える。俺がお前に言いたいのはそれだけだ」
強い口調で言われ、不二は思わず目を見張る。
これほどまでに感情を露わにする手塚を見るのは、これが初めてだった。
「…今回の事で僕は君の事が少し理解できたみたいだ。越前には二度と手を出さないから安心していいよ」
「その言葉に偽りは無いな」
「約束する。越前にもそう言っておいて」
疑っている手塚に、不二は証としてバッグにしまったディスクを取り出し、目の前で力任せに割った。
「このデータのマスターも消去するよ」
「そうか、わかった」
「越前には僕から謝るよ…」
「あぁ、そうしてくれ」
先に不二を帰らせて、手塚は部室の中に残った。
バッグの中から携帯を取り出して、アドレスから自宅の番号を選択する。
「…国光です。越前は?……はい、今から戻りますので」
リョーマが自宅に戻っていないのを確認し、手塚もバッグを抱えて部室を出ると鍵をしっかり掛けて歩き出す。
その途中、真っ青な空を見上げる。
「俺にはわからないな」
不二の心情など手塚には一生掛かっても理解できない。
才能があっても努力無しで来られる者などいやしないのに、自分よりも優れた者は何も無しで来ていると思い込んでいる。
誰もが通るべき道を通り、様々な障害を乗り越えて、ゴールを目指している。
時間なんてあっという間に過ぎていくので、気が付かないうちにゴールに辿り着いているかもしれない。
どこでゴールなのかは自分でもわかっていない。
才能は伸ばすもので、それを途中で止めれば宝の持ち腐れ。
手塚は持っていた才能を伸ばす為に、様々な努力を重ねてここまで来た。
ゴールは未だ見えていない。
まだまだ努力を重ねなければならないのだ。
「才能だけでここまで来れるのなら、誰も努力などしない」
不二にもわかってるのだろうが、それをどこかで認めていないから、自分が持っていないものを手にしている者に対して妬み、嫉妬する。
「憎しみなど醜いだけだ…わかるか、不二」
この晴れ渡った空のように、不二の心の中が晴れるといい。
そう願いながら、足を動かし始めた。
蝶を仕留めた蜘蛛は、自らに襲い掛かる敵に気付かない。
自分の張った巣の上は安全だと思い込む。敵はその巣を破壊して蜘蛛に襲い掛かる。
巣に残っていた蝶の羽は、破壊された蜘蛛の巣から自由の身となり、ひらひらと舞い落ちて行った。
―――最後に残ったのは風に揺れる蜘蛛の糸だけ…。
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