片翼の天使達

−その5 真の洗礼−



「そうなんだ…リョーマ君がそこまで…」

「不二、お前はどう思う?」

「僕の立場から言う事じゃないけど…」

リョーマはあの日以来、漸く自分の中でも納得したのか特に何も言わなくなったが、どうしてあそこまで拘る必要があるのかが、手塚には謎でしかなかった。

「洗礼を受ける前から力を使えた事と何か関連しているのかもしれないね。…姉さんも何だか妙に意識しているし」

リョーマは先天的な力の持ち主だ。
不二や手塚とは違った形で、幼い頃からアイオーン正教に深く関わっていた。

「お前だけでは無く由美子さんもなのか?俺もあの拘り方は普通では無いと考えたんだ」

もしかしたら、力を使う事をアメリカの正教関係者から強いられていたのかもしれない。
全世界に頒布しているアイオーン正教の中には、あまり良い活動をしていない国もあるようで、由美子も出来る限りは様々な国に出掛け、正教の様子を確かめている。

「何はともかく、早く洗礼を受けた方がいいね。姉さんから日時を決めてもらったから」

「そうなのか?」

「そうだよ。僕ってば、これを話しに来たのに…」

ざわざわとしている廊下から少し離れた場所に、手塚と不二は立っていた。
大事な話があるから、と教室から連れ出したのは不二の方だったのに、いつしか手塚に話しに夢中になっていた。

「それでいつなんだ?」

「3日後の土曜日だね。時間は午前6時」

「早いな…」

1人で洗礼を受けた日は、たしか午後2時だった。

「その時間が一番いいんだってさ」

「わかった。越前には俺から話す」

「頼んだよ」

話が終わると2人は教室に戻る。
やはり
洗礼は気になるが、授業になれば気にしないように努めていた。



「大聖母って不二先輩のお姉さんなんだよね」

小さな欠伸を繰り返すリョーマは、少し寝惚け眼で手塚に話し掛けた。

「知っていたのか?」

夜明けの時間は過ぎていたが、周りはまだ薄暗い。
並んで歩く2人の足音が大きく響いている。

「だって俺、小さい時からアメリカのアイオーン正教にいたんだよ。知らない訳ないでしょ?」

周囲に人の姿は少なく、声を潜めながら話していた。

「それもそうだな」

「そうだよ」

リョーマの歩幅に合わせて歩く手塚がリョーマの肩を抱けば、自然に2人の距離は縮まった。

「ここから入るんだ」

「へぇ〜、何だか厳かだね」

2人が大きな扉の前で立ち止まると、見計らったかのように中から開けられた。
中に入ると、あの日と同じようにパイプオルガンの澄んだ音色が流れている。
朝という絶妙なエッセンスも加わり、空気の澄み具合はあの日よりも何倍にもなっていた。

「おはよう。手塚、リョーマ君」

2人のシスターを引き連れて不二がやって来た。
こちらもあの日と全く変わらずの白装束姿。

「あぁ、おはよう、不二」

「…おはようございマス」

「意外と早かったね」

「遅れるよりいいだろう」

「いい心掛けだね…リョーマ君、どうかしたの?」

何だか視線で穴が開きそうなくらい、リョーマは不二を見ていた。

「…似合うっスね。その服」

お世辞でもなく、本当に似合っていると思う。
顔は中性的で体格もそれほど筋肉質でもなければ骨張ってもおらず、どこを見ても無駄な脂肪が無い不二は、こういった性別を感じさせない服装がとても似合っている。

むしろ、綺麗だとさえ思える。

「そう?ありがとう」

「不二先輩だから似合うんだよな。へー、これすごく柔らかいね…」

純白の絹で出来た服の端を掴むと、触り心地を確かめる。
サラリとしていながらも、柔らかくてしっとりとした手触りで、何時までも触っていたくなる。

「良かったらリョーマ君も着てみる?」

「うーん、俺には似合わないだろうからやめとく」

「不二、そろそろ案内してくれないか?」

知らない間に2人の世界を作り上げていた不二とリョーマの会話を止めさせる。

「もしかして僕に妬いているの、手塚ってば」

「そうなの?」

「…それは…」

くすりと笑う不二と首を傾げながら訊ねてくる2人に、手塚は横を向くしかなかった。

「ふふ、冗談だよ。さぁ、行こうか」

本気で冗談のつもりだったらしく、不二はそんな手塚の肩をポンと叩くと、
ヒラリと裾をなびかせて洗礼の間へと案内を始めた。
黙ってしまえばパイプオルガンと足音が響くだけの静かな空間だった。



「さぁ、入って」

目的の場に到着すれば、シスターはドアの両端に立ち、不二が扉を開ける。
今回は手塚とリョーマの2人だけが中に入り、不二は案内と扉の開閉だけの役割だった。

「初めまして、越前リョーマ君」

「…大聖母だよね」

「えぇ、こうしてお目に掛かれるなんて嬉しいわ。しかも私が洗礼の儀式をさせて頂けるなんて、光栄の極みですわ」

「由美子さん?」

大聖母である由美子と、由美子にとっては手塚の対の片割れのリョーマの会話は、どうにも立場が逆のような気がして、手塚は不思議そうな顔をしていた。

「ねぇ、国光君」

「はい」

「アイオーン正教の大聖母は、代々不二の名を持つ女子が受け継いでいるのはご存知よね」

にこやかに語り掛けるが、その声はどことなく緊張を含んでいた。
手塚にもその緊張が伝わってしまいそうなくらいだ。

「はい」

「でもね、稀にその名を受け継ぐ者よりも、はるかに力の強い者が誕生するのよ」

「それは…」

「私の力で見たリョーマ君は姿だけで、後は何も見えなかったの…私ではリョーマ君の過去も未来も見えないのよ」

見ようとしても見せてくれない。
あの時、由美子が手塚に対の存在を教えるだけに留まったのは、何も見えなかったから。
由美子が見たものは、リョーマが由美子の目を通して自分の存在を見せていただけに過ぎない。

「…リョーマ君が女の子だったら、私は大聖母の名をリョーマ君に譲らないといけないくらいよ」

不二の名なんてリョーマの前では何も役に立たない。

「そうなのか?」

「…みたいだね」

由美子はその力からリョーマの真の力を見抜いていたが、手塚はリョーマの本当の力を知らない。
予知夢を見ているのは知っている。
見る夢をコントロール出来るのも知っている。
小さな身体に秘められた力の全てを、手塚には打ち明けていなかった。
まだ手塚の知らない『力』がリョーマにはある。

「国光君、リョーマ君、先に洗礼を行いましょう。詳しいお話はそれからね」

「はい、わかりました」



リョーマには大聖母の由美子すら見えない、隠された『力』がある。
その為にリョーマは何度か手塚に『対』として生きる事を諦めさせようとしていた。
対のシステムなんてものは、本当はどうでもいい。
天使が何を望んでいても関係ない。
ただ好きになってしまった手塚を苦しませないようにしたいだけ。

自分の為に彼を犠牲にはしたくない。



「…リョーマ」

「どうして国光が泣いているの?」

真の洗礼を受けた瞬間に、手塚の中にリョーマの思いが流れ込んで来た。
強大な『力』に怯えて過ごして来たリョーマの気持ちが、手塚に涙を流させている。
誰に対しても弱いところは見せないように、いつでも強気で勝気で生きて来ただけだった。
手塚に出会ってからも、自分は1人で生きていけると断言した時も、本当は寂しさや苦しみと戦っていた。

「大丈夫だ。俺がお前を守る」

「…うん…」

抱き寄せた小さな身体を腕の中に閉じ込めて、天使の前で誓いのキスを交わした。
触れるだけでなく、舌を絡める本格的な大人のキス。
由美子は洗礼を終えた直後に室内からいなくなり、今は2人だけになっていた。

「俺の本当に力はね、世界を滅ぼす力なんだよ…」

「それを恐れていたのか…」

「国光の力は俺の力を抑える為のもの」

手塚の持つ力は“精霊を使役する”という、少し特殊な力。
洗礼時に見たのは、風の精霊であるシルフと水の精霊であるウンディーネの光。
今では残りの精霊、火の精霊のサラマンダーと土の精霊のノームの光も見えるようになっていた。

「国光だけが俺を止められる」

リョーマが力を暴走しそうになった時に、四大精霊の力を持ってリョーマの力を抑える。
他の対とかなり違った力。

「リョーマ…一つ訊いても良いか?」

疑問が一つ浮かんできた。
この疑問をリョーマに訊いても、己の想いが変わってしまう事は無いが、どうしても今訊いておかないといけないような気がしていた。

「いいよ」

ニコリと笑うリョーマは、手塚から質問されるのを承知していた。
全ての儀式を終えた今、2人の間で隠し事は厳禁であるが、リョーマが全てを話してくれるにはまだ時間が掛かるような気がしていた。
それでも訊ねてみる。

「…お前は一体…何者なんだ?」

真剣な眼差しと口振りで訊ねていても、リョーマの瞳に映る自分の顔はやけに強張っていた。

「俺は……天使だよ」

「天使?」

「そう、俺と国光は片翼の天使」

一瞬、あるはずが無い純白の翼が、何故がリョーマの背中に見えた…そんな気がした。

「…俺もなのか?」

「そうだよ。俺達は1人じゃ飛べない片翼の天使だから、支え合って生きていかないといけないんだ。これじゃダメかな?」

手塚の質問に答えているとは思えない答えだったが、答えたくないのなら、答えなくても良い。

「そうか、では俺達は共にいなくてはならないな」

「…うん」

本当の答えはいつか話してくれればいいだけだ。
自分達の時間はこれからなのだから。

「さぁ、出ようか」

「何か疲れたね」

「きっと、シスターがお茶を用意してくれている」

「お菓子もある?」

朝も早かったからか、ちょっと小腹が空いていたリョーマは、お茶だけでは満足できないと訴えている。

「あぁ、マドレーヌとかがあるはずだ」

以前の洗礼の時にも多くの菓子があったが、手塚はそれほど甘い物が得意ではないので食べていなかった。
恐らくは今回も同じように用意されているはずだ。

「ホント?やった」

嬉しそうに笑うリョーマの背を軽く抱きながら扉を開けた手塚は、自分達が出て来るのを待っていた由美子達をかなり待たせていたことに気付き、謝罪を込めて一礼をした。