片翼の天使達

−その4 頑なな態度の訳−



「おチビって本当に可愛い〜」

ハートマークをポンポン出しながら、菊丸はリョーマを絶賛する。

「本当だね」

「手塚には勿体無いくらいだ」

不二に加え、乾も菊丸の意見に賛成する。

「そうなんだよにゃ〜」

「…うるさい」

朝の眩しい光の中、興味津々で近寄ってくる部活の仲間達を、またしてもたった一言で黙らせた手塚は深く重い溜息を吐いた。

「いやいや、越前は本当に凄い奴だよ。転入の為のテストの結果は全教科で合格点を上回っていた。特に英語や数学などと言った理数系は満点だ。それに体力テストでも、パワー系を除く運動能力系の全てにおいて全国レベルだったぞ」

ノートをペラリと捲ると、乾は自慢気に話し出す。

「うわ〜、おチビってホントにスゴイ!」

ちら、と覗いたノートにはリョーマのデータがきっしりと詰っていた。
青春学園は幼稚舎から大学部までの一貫校だから、転入試験はかなり厳しいと噂されている。
それをパーフェクトに近い成績で通るなど、尋常では有り得ない。

「乾ってば、いつ調べたんだい?」

「それは秘密だな」

何時の間にか、リョーマに『おチビちゃん』と、あだ名を付けていた菊丸は、ぽや〜んとした目付きで練習に励むリョーマを眺めていた。
手塚とリョーマの関係は、あの日テニス部内には即行で伝わってしまったので、対としてこれから付き合っていく事を公にした。

『洗礼』を受けた直後に、今度は『対』の存在。

テニス部内には、手塚以外に対を必要とする者はいなかったから、かなりの衝撃になっていた。

「『対』って、結構似たもの同士だけど…」

手塚とリョーマを交互に見る。

「似てないな」

「全くだね」

「手塚と越前は、似てないよな…」

「ほ〜んと、全然似てない!」

全員一致の回答。
見た目も性格も全く異なっている。
手塚は生まれ育った環境から、品格の良さ、道徳観念の強さなど、性格的にはかなりの真面目タイプ。
それに比べてリョーマは、自分に興味の無い事に関しては全くの無関心で、少し社会性に欠けているのを、部活を通じて知った。
だからといって、手塚がリョーマを教育する事など出来ない。
生活環境による個人の性格を、他人の手で変える事など容易ではないのは良く分かっている。

「お前達…いい加減に練習に入れ。それとも何か、今日は朝も夕方も終わるまでグラウンドを走りたいのか?」

「うわっ、それは勘弁」

顔の前に両手で大きくバッテンマークを作る。

「僕達も練習に入ろうか」

手塚の我慢の度合いが限界値に達したようで、不二達は慌てて練習に入った。



この日も何事も無く過ぎていく1日。
1日の授業が全て終わり、夕方の部活も時間に遅れる者は誰もおらず、乾が作った練習メニューをそれぞれが進めていた。

「洗礼の日だけど、君達の都合は姉さんに話しておいたから」

『対』を探す為の『洗礼』は受けた。
その後、こうして無事に『対』を手に入れた事は、大聖母である由美子には既に連絡済みだ。
続いて神に認めて貰うための『洗礼』である“天使の祝福”を得なくてはならない。

「分かった…越前には後で俺から伝えておく」

「…君って、リョーマ君の事を名字で呼んでいるの?対なのに?」

不二ですらリョーマの事を名前で呼んでいるのに、手塚はいつでも名字で呼んでいる事に少し疑問を感じていた。
対といえば、夫婦同然の関係に近い。
だからこそ繋がりの深い対になればなるほど、2人の関係は他に対が羨むほどになる。

「関係ないだろう。それに学校生活の中では規律を守るのが普通だろうが…」

自分達は3年生と1年生。
しかも部活の先輩と後輩という間柄。
対だからと馴れ合うのは、己の学校生活を乱す恐れがある。

「何だか、つまらないなぁ」

あまりにも手塚らしくて、失笑を浮かべてしまう。

「何がだ」

正論を話したにも関わらず笑われたからか、眉を顰める。

「君がリョーマ君にメロメロになってるのは、皆が知っているのに君だけがそんな事言うなんて…」

いつも誰に対しても同じ態度でいる手塚が、リョーマと一緒にいる時だけ全く違う態度になるのは、誰の目からしても明らかだった。
それなのに、規律とか言うから、何だか矛盾していて笑える。
名前で呼んだとしても、誰も何も言わないのに、変な所で生真面目だから困る。

「不二、お前はグラウンドを走るか?」

「僕はリョーマ君と打ち合う方が良いな」

照れ隠しで放った言葉も不二は微かに笑うだけ。
そのまま不二はコートに入って行った。

「あの、手塚部長…」

「越前…どうかしたのか?」

誰もが練習をしている中で、リョーマがこそこそと近寄って来た。
何があったのか、それとも何かあるのか。
どことなく何かを考え込んでいるような表情。

「…ちょっと部室に行って来てもいいっスか?」

「あぁ、構わないが」

ペコリと頭を下げて、幾分か急ぎ足で歩く。

「越前、どうかしたのか?」

大石の脇を抜けてコートを出て行ったリョーマに、どこかいつもと違う何かを感じ取ったのか、手塚にこっそり耳打ちする。

「…少し様子を見てくる。すまないが…」

「後の事は任せておいてくれ」

ポン、と大石に肩を叩かれて、手塚はリョーマの後を追うようにコートから出て行った。
心配そうに見つめる大石と、何だか楽しそうに見ている菊丸達の姿がコートの中にあった。

「リョーマ!大丈夫か?」

部室に入った手塚は、窓際に置かれているベンチに頭を乗せるようにしてぐったりしているリョーマを見つけ、慌てて抱きかかえる。
名字ではなく、名前で呼んだ事にも気が付かないくらい慌てていた。

「…ン…あ、部長?…」

きつく閉じていた瞼をゆっくり上げると、安心したかのように手塚の表情が柔らかくなる。

「どうした?」

いつも血色の良い色をしている顔が、どことなく青褪めている。

「…ちょっとだけ、このままで…」

「あぁ、わかった…」

ぎゅっと腕にしがみ掴まれ、手塚はリョーマを抱えたままベンチに座り込んだ。
開けていた瞼がまたしても閉じられてしまい、表情が苦悶に歪んでいる。

「…越前」

こんなに苦しそうにしているのに、何も出来ないこの状態が歯痒い。

「一体、何があったんだ?」

さっきまで普通に練習をしていただけで、何一つ変わった様子は見られなかった。

「俺達は対なのに、何故お前だけが…」

強く抱き締めて、この苦しみから早く解放されるのを天使に願う。
コートの中からボールの音や、誰かの掛け声が絶え間なく聞こえて来るが、今は練習よりもこちらの方が大切だった。


「…部長…苦し…」

「目が覚めたのか?」

「…うん。だから…ちょっと力を緩めてください」

意識が戻ったのは良いのだけれど、こんなにも強く抱き締められていては身動きが出来ない。

「すまない」

思ったよりも両腕に力がこもっていて、少しだけ力を抜いてみた。

「…ふう、もう大丈夫っス」

ニコ、と笑い掛ける。
手塚が心配そうに顔を覗き込んでみれば、青褪めていた顔色が元の血色の良い顔色に戻っていた。

「何があった?」

まずは一安心だが、どうしてこのような状態に陥ったのかを確かめなくてはならない。

「…部長に……何?」

部長に、と話したところで、リョーマの唇に手塚の指が置かれた。

「今は部長でなくても良い」

手塚も表情を緩めた。
校内では名前ではなく、名字で呼び合おうと決めたのは手塚なのに「こんな時だけズルイ」と思いながら話を続ける。

「…国光に会ってから、予知夢を見る時間が夜の睡眠中だけじゃ無くなって来たんだ。さっきも急にきちゃったから、ちょっと練習をサボらせて頂きました」

ゴメンなさい、と素直に謝る。

「では、あれは予知夢の前兆なのか?」

渋い顔をして訊ねる。

「そうなるっスね。まぁ、今見たのは全然カンケイない夢だったから、良かったけど」

予知夢にも種類がある。
政治経済に関する夢や、自然現象に関する夢。
様々な夢のなかで、危険度の高い夢はアイオーン正教に連絡をしているが、今見た夢は些細な事過ぎて、連絡する必要性が全く無い。
出来ればこんな予知夢は見ないようにしたいが、なかなか制御出来ずにいた。

「どんな夢なんだ」

「えーと、場所は特定できないけど、どこかの牧場で飼われている馬が逃げ出す夢。将来はサラブレッドになる馬なんだけど、牧場の生活から厩舎になるのが嫌で逃げ出すんだ。何だか変な夢でしょ?」

話を聞いてみて本当におかしな夢だと感じたが、こうした夢を見る度にあのような状態に陥るという事を初めて知った。

「どうかした?」

渋い顔をする手塚にリョーマは至って普通に訊ねる。

「予知夢を見る度にあれほど辛苦するのか」

「しんく?」

意味が分からず首を横に傾げた。

「苦しい思いをするのか?」

違う意味合いに取られそうなので、リョーマに解るように言い直す。

「へぇ、そういう意味なんだ。さすが国光だね」

「それで、どうなんだ」

「…そうだよ。いつも苦しくなる…」

「いつも?」

「真の洗礼を受けるまではこのままだよ」

それは幼い頃からの習慣になっていて、今ではそれほど苦にはならない。
寝ている間にうなされるだけだから、リョーマ自身は朝まで気が付かない。
起きた時に予知夢の内容が頭に浮かび上がり、その内容をアイオーン正教に伝えるだけ。

「何故、言わなかった」

「別にそんなに長い時間じゃないし。それに真の洗礼を受けたら戻れないよ?」

「俺は戻りたくない。お前と共に生き、お前と共に死を迎えるその日まで、俺はリョーマ…お前だけだ」

リョーマの思いを感じ取り、手塚はまたしても強く抱き締めた。

「まだ迷っていたのか?」

「俺は…国光に幸せになって欲しいから」

「お前がそう願うのなら、俺と共に生きてくれ。俺にとってはお前が傍にいる事が幸せだ」

「…国光」

「洗礼を早く受けよう。二度とそんな考えをしないようにな」

手塚の表情が柔らかくなり、2人の顔は自然に近付いた。
触れ合うのは互いの唇。

――― 初めてのキス。

「今の俺のファーストキスだよ…」

「俺もだ」

皮膚の表面に軽く触れただけの挨拶程度の幼稚なキス。

「もし…俺達が対同士でなくても、きっと俺は国光を好きになるよ」

これは本当の気持ち。
対だから好きになった訳ではない。

「リョーマ」

「でもね、国光は俺を好きにはならない」

「何故、そう言い切れるんだ」

「国光はね、俺が対だから俺を必要としてくれているだけだよ。俺は…あの時も話したけど、本当に対の存在が必要ないんだよ」

「リョーマの言うとおり、出会う前は対の存在なんて疎ましいだけだと感じていた。しかし洗礼を受けてから変わった。早く逢いたいと願うようになったんだ。そして出会ってから更に変わった」

リョーマは出会った時から、否定的な言動を何度もしていた。
対と認め合ってからも度々。
その都度、手塚は自分の想いを伝える。
一旦は落ち着くが、数日が経つとまた始まる。
まるで呪文のように…。

「お前が愛しいと、お前の全てが欲しいと、心が…身体が叫んでいるんだ」

これまでのリョーマの言動を整理していくと、対のシステムを嫌悪して、何とかして相手をその呪縛から解き放そうと必死になっているのがわかる。

「俺はリョーマが対で無くても、リョーマだけを愛する。絶対にな」

「……俺は男だよ?国光は手塚家の跡取りでしょ?俺は国光の赤ちゃん産めないよ?」

「…何を心配しているのかと思えば…」

このまま手塚とリョーマが対として共に生きていく事になれば、手塚家はもう終りだ。

「それだけじゃ無いけど…」

折角これまで続いてきた手塚の名前を、国光の代で断絶しなければならなくなってしまう。

「この事は父も母も了解している」

「…ウソ、だって…」

「これは運命だからな」

家族にはまだ本人を紹介していないが、話だけはしておいた。
生まれた時に『対』の存在を必要とする息子には、家族は対と出会うまでの関係のようなもの。
対と出会ったら、家族ではなく対を大切にするようにと、両親から言われ続けていた。

「だから…対なんて、イヤなんだ」

血の繋がりを絶対とはしない、対の存在。

「お前はどうしてそこまで拘る?」

「国光は平気なの?」

「あぁ、お前さえいてくれれば俺はどうなろうが構わない。両親も祖父も初めから跡取りの事は考えないようにしている」

「……え?」

大きな瞳を更に大きく見開いた。

「対の存在は絶対だ。逆らう真似はしない」

不二家がアイオーン正教と深い関わりを持っていたから、手塚もその影響を受けていた。

「…天使は俺達に何を望んでいるんだよ」

どこか苛立ちを含んだ声。
恋愛から生まれる次の世代。
そんな自然のサイクルを無視したシステムにリョーマは怒りさえ覚えてしまう。

「天使は対を創った事で、家族では当たり前のように存在している感情を、他人に対しても同じくらい、いや、それ以上に抱くようにしているのではないだろうか?まあ、それだけでは無いだろうが」

リョーマの苛立ちを慰めるように、手塚は自分の考えを伝えた。

「当たり前の感情…」

血の繋がりから生まれる愛は、当たり前の感情。
では、全くの他人に対しても同じように愛せるのか?
天使は試しているのかもしれない。
その試練に耐えた者達だけが、不思議な力を授かる事が出来る。

「俺はお前を愛したい。だからお前も俺だけを愛してくれ」

「…国光だけを?」

「あぁ、俺だけをな」

誰もが愛されたい、愛したいと望んでいる。
家族に向ける愛情や、親しい人に向ける友情といった感情は、時を共有していた中で生まれる当たり前の感情に過ぎない。

「俺も国光だけだよ…でも…」

「お前が見てきた対達も悩んでいたのか?」

「えっ?」

「どうなんだ」

「…ううん。幸せそうにしてたし、喧嘩もしてた。いろんな人がいて、違ったタイプだった」

対の関係はそれぞれ個性があり、同じような対はどこにもいない。
これは前にも話した通りだ。

「お前は考え過ぎだ。それにどれほど悩んでも何も出来ないのだぞ」

「…わかってる。わかってるよ、それくらい」

たった1人でこの対のシステムに異論を唱えたとしても、誰も見向きもしない。
ただ『異端者』と、白い目で見られるだけだ。

「お前は自分と俺の事だけを考えていればいい」

「国光の事だけを…」

「そうだ。その瞳で俺だけを見て、その肌で俺だけを感じて、その頭で俺の事だけを考えてくれ」

そっと頬に手を伸ばす。

「……我が儘だね」

「…俺は早く真の洗礼を受けたい。そうすればお前は二度と悩まなくて良くなる」

「いいの?本当に戻れなくなるよ?」

今は最後の砦。
今ならまだ間に合う。
扉はまだ開いている状態だ。

「お前と出会う前には戻りたくない」

リョーマが何を言っても、手塚の心が揺さぶられたりしない。
既に心は決まっている。

「もう…戻れないんだからね」

「あぁ、この命が尽きるまで、俺はリョーマだけだ」

今の言葉で扉は完全に閉まってしまった。
二度と戻れない。
最後の砦も粉々に砕かれた。

「国光が俺だけを愛してくれるのなら、俺も国光だけを死ぬまで愛するよ」

「約束する」

「うん、約束」

小指を絡ませて二度目のキスを交わすと、強く抱き合った。