片翼の天使達

−その3 対となる者−



「手塚、洗礼を受けたんだって?」

「本当なのか?」
「へぇ、あの手塚が」
「手塚部長が?本当っすか?」

「…うるさい」

朝の眩しい光の中、興味津々で近寄ってくる部活の仲間達を、たった一言で黙らせた手塚は深く重い溜息を吐いた。

「なぁ、不二。本当なのかい?」

「本当だよ」

本人に訊ねてみても眉間にしわを寄せるだけで埒があかないから、こっそり不二に訊ねてみれば、求めていた答えを簡単にもらえた。
手塚達が通っている青春学園は幼稚舎から始まり、小等部、中等部、高等部、大学部と一貫した教育システムを持つ学校で有名だ。
モットーは『文武両道』。
その言葉とおり、ここは勉学だけでなく運動系の部活動にもかなり力を入れている。
校内に入る為には、個人別に発行されるIDカードが必要となり、カードを持たない者は、たとえ本人でもこの学園に足を踏み入れる事が出来ない。
厳しい校則は無いが、勉学を学びし者としての常識を疑う者には即刻退学を言い渡される。
手塚も不二もこの青春学園中等部の3年生で、部活は硬式テニス部に所属している。

「何だか不思議だよな。お前が洗礼を受けるなんて」

少しの前髪を残してキレイに刈られた髪、真面目な顔をして手塚に話し掛けるのは、その性格から副部長に任命された大石秀一郎。

「ホント〜、だって対がいなかったら、手塚は何時まで経っても半人前ってコトなんだろ?」

右の頬に絆創膏を張り、両側の髪をくるりと外側に跳ねさせていて、どこと無く憎めない人懐っこい顔をしているのは、軽業師と称される菊丸英二。

「手塚が半人前か、有り得ないな…」

厚めのレンズの黒縁眼鏡を掛けて、趣味であるデータ収集の為のノートを何時でも持っている、このテニス部の頭脳とも言われる乾貞治。

「そうだよね、手塚がこれで半人前だったら、俺達はどうなるんだろう?」

ラケットを握ると人格が豹変し、握る前は温厚で人情味に溢れ平和を好むが、握ったが最後、激情的になり誰に対しても好戦的になってしまうのは河村隆。
今紹介した4名に手塚と不二を加えた6名は、今のテニス部レギュラー達。
中学の硬式テニスでは団体戦を主に戦われる。
ダブルスが2組にシングルスが3名、レギュラーに選ばれるのは数多い部員の中で7人しかいない。
レギュラーを決めるのは、名物と言われる『校内ランキング戦』だ。
4ブロックに別れ、ブロック毎の総当たり戦で上位2名がレギュラーに選出される。
だから一度レギュラーに選ばれたからといって、次の試合でも必ずレギュラーとしてコートに立てるとは限らない。

「そうっすね…」

「…部長が洗礼…」

後の2人は二年生の桃城武と海堂薫。
この2人はお互いをライバル視していて、それが2人をここまで強くしていたのは間違いない。

「俺が洗礼を受けたのが、そんなにおかしいか?」

レギュラー達のからかいに、眉間のしわを更に深くした手塚は、鋭い眼差しで一喝する。

「うん。モチロン」

黙ってしまったレギュラー達の中で、ただ1人菊丸だけは、全く容赦なく本音を出す。
誰にも負けない無邪気で明るい性格は、トラブルメーカーになりがちだ。

「…もういい。俺が洗礼を受けたのは間違いの無い事実なのだからな。さぁ、練習を始めるぞ」

手塚はこのテニスの部長を務めている。
現段階では手塚に勝てる者はここにはいない。



「そうだ。1年に転校生が入ったみたいだね」

夕方の部活が終わり、レギュラー達とコート整備などを終えた1年生の1部は部室内で話をしていた。

「はい、今日からです」

不二の問い掛けに応えるのは、どうやらその転校生と同じクラスになった。
1年生の中では唯一、少しはテニスの経験がある堀尾だった。

「今日?何か微妙な時期だにゃ〜、で、どんな子?」

転入する時期は学期の境目が多いが、今はまだ1学期の途中、しかも4月の終わり。

「えっと、アメリカ帰りの男なんですけど、テニス部に入部するって言ってました」

「そうなんだ、だから手塚達がいないのか?」

ここにいるレギュラーは、部長と副部長達を除いたメンバーしかいない。

「帰国子女ね、しかもテニス部に入部か…なるほど、上手く出来てるね」

顎に指を掛けて考え込む不二は、何やら自分の思考に満足出来たのか、1人微笑んでいた。



「竜崎先生」

「用事って何ですか?」

「あぁ、手塚に大石、紹介するよ」

部活の最中にテニス部顧問である竜崎スミレに呼び出された2人は、職員室の一角に案内された。
生徒との談話をする為に作られた小さな面会室。
その中に入れば、今は自分達に背を向けて座っている少年がいた。

「リョーマ、ほらテニス部の部長と副部長だ」

リョーマと呼ばれた少年は、顔だけをこちらに向けてから立ち上がった。

――― “彼”だ。

手塚はこの部屋に入った瞬間から、不思議な感覚に見舞われていた。
それがこの少年から出されるオーラだと気付いた。

「リョーマ、こっちが部長の手塚で隣が副部長の大石だ」

「ども、1年2組の越前リョーマっス」

少年も挨拶をしながら手塚だけを見ていた。

――― 彼が己の“対”なのだ。

転入した経緯と、テニス部に入部する旨を話してもらうと、折角だからとコートに連れて行く事にした。

「越前はテニスの経験が長いんだって?」

人当たりの良い大石がコートまでの間、リョーマの話し相手になっていた。

「親父がプロテニスプレイヤーだったらしいんで、物心ついたときにはもうラケットを持ってました。何かおばさんの教え子だったらしいっス」

「竜崎先生の教え子?そりゃ、本格的だな」

竜崎もこうして教師になる前は、かなり有名なテニスプレイヤーだった。
聞いた所によれば、男子にも負けないほどの力強いテニスをしていたらしい。
その竜崎を先頭に、大石とリョーマが並んで歩き、一番後ろを手塚が歩いていた。

「手塚?」

「…何だ?」

リョーマしか見ていなかった手塚は、大石に名前を呼ばれ慌てて視線を逸らした。

「越前がお前に訊きたい事があるそうだ」

リョーマがこちらを向いて立ち止まっている。

「わかった…少し長くなるかもしれないが」

「あぁ、わかったよ」

大石に先に行かせ、自分も足を止める。
自分の対である越前リョーマ。
背丈はまだ成長段階だから高くない。
顔付きは少女と見紛うばかりで、男に対してなのに何故か『可愛い』とさえ思ってしまう。

「…あの、俺…」

幾分か緊張した面持ちで手塚を見る。
大きな瞳に映る自分の顔。
嬉しさを隠して、真剣な眼差しを作り上げる。

「洗礼は受けたのか?」

既に大聖母が持つ力『先読み』で知っているが、確認しておく。

「…あ、うん。それで…」

「俺がお前と対となる者だ」

「やっぱり、そうなんだ…良かった」

ホッと安心したかのような表情を見て、反対に手塚の表情は渋くなる。

「良かった、とは?」

「俺、洗礼は10年前に終わってるんだ。で、今までずっと探してた」

「じゅ、10年前?」

ぎょっとしてしまう。
自分はつい先日だった。
由美子から訊いた時だって、自分より少し前だと思っていたからだ。

「ちょっと事情があって洗礼を受ける前から、稀に変な力がついちゃう人っているんだよね」

そう言えば、洗礼の間でも不思議な物体を見た。
由美子によれば、自分に与えられた特別な霊力らしいが、自分では良く分からない。

「変な力とは?」

「俺さ、予知夢を見るんだ。ほら日本じゃ正夢って言うでしょ?そんな感じ」

もっと詳しく訊いてみれば、まだ2歳の時だったらしい、初めて予知夢を見たのは。
その内容はフロリダ発の『飛行機墜落事故』だった。
大勢の乗客、乗務員、パイロット、全てが死亡した悲惨な事件。
夢の内容を親に話しても信じてもらえなかった。
しかしそれから数日後、本当に起きてしまったのだ。
子供の先行きを心配した母親が、アメリカにあるアイオーン正教に救いを求めた。

『この子には“力”があります』

そこのシスターが言うには、神から授かる『力』を、リョーマは既に持っていた。
しかしリョーマは、『対』の存在が無くても、その力をいつでも使用できる。

「そこのシスターが言うには、さっさと洗礼をしてしまえば、予知夢をコントロール出来るようになるからって…でも、これだけはコントロール出来なかったんだよね」

洗礼を受けた事により、リョーマはある程度は予知夢をコントロール出来るようになり、アイオーン正教直々の依頼で、数々の夢を見て来た。
それなのに、対に対してだけはコントロールが出来ない。

――― 漸く見えてきた“対”の存在。

微かに姿が夢に出て来た。
どこかの場所に背筋を伸ばして立っている。
何かスポーツをしている。
…テニスだ。
しかし場所が分からない。
見える部分だけを必死になって探した。
探して、探して、捜し求めた。
それがここ『青春学園』であった。



「俺は対の存在を必要としないんだ」

「どういう事だ?」

「俺は自分だけで力を使う事が出来るんだよ。でさ、あんたは必要なの?変な力」

良い方向に使えばいいが、悪用する者だっている。
他人を陥れる為に使う者には、それなりの罰が待っているが、懲りずに悪用する者だっている。

「…いや、しかし…」

生きていく為には『対』は必要だ。
いなければ死ぬなんて事はないが、対は必要だ、と心が叫んでいる。

「手塚国光、青春学園の3年生。誕生日は10月7日の天秤座。血液型はO型。成績はいつでもトップクラスで、テニスの腕前だって中学生レベルをとっくに超えてる。ついでに頼られる部長様で、しかも全校生徒から尊敬の眼差しで見られる生徒会の会長までやってるでしょ。家族構成は祖父の国一と父親の国晴と母親の彩菜で、閑静な住宅街の一戸建てに住んでいる。羨ましいくらいに順風満帆な人生。それなのに、これ以上何を望むの?」

何時の間に調べたのか、リョーマは手塚のプロフィールをすらすらと話した。

「俺の事を調べたのか?」

「ううん、予知夢をちょっと操作すれば、こんなのは簡単に出来るんだ」

『洗礼』を受けた事で、予知夢は予知するだけでは無くなってしまった。
自分に関わる人のこれまでの人生や、その人自身のリサーチを可能としてしまう。

「…俺はこれ以上この力を巨大なものにしたくない。だから…」

真剣な眼差しで手塚に訴える。

「だが、俺にはお前が必要だ。出来る事ならお前も俺を必要として欲しい」

リョーマの言っている事は理解できる。
自分と出会うまでの間、どれほどの夢を見て来たのかは分からない。
嫌な夢も良い夢も見て来ただろうが、予知夢なんてものはかなり悪い方向になる夢が多い。
だからとって、ここで手離せるようなものではない。
手塚は自分なりの方法で説得を試みる。

「……夢の通りだね。本当にあんたで良かったよ」

「越前?」

ニコ、とはにかむように微笑まれ、手塚はいきなり態度を変えたリョーマに困惑した顔をした。

「対が要らないってのはウソだよ。俺の方こそあんたが必要なんだ。今日からよろしくね」

すっと差し出された右手。

「まさかだと思いたいが…俺は試されていたのか?」

全く気付かなかった。
意外な事に、自分よりも2つ下の対は、自分よりも大人な駆け引きを知っていた。

「そういうコトになるのかな?」

まるで小悪魔みたいな笑顔に、手塚は右手ではなく両腕を差し出してリョーマを抱き締めた。
呆気に取られたリョーマだったが、魂にまで馴染んでくる体温に安心してしまう。
これが『対』である証拠。
そっと抱き締めていた腕を離し、今度はリョーマの両手を掴む。

「…生を分かち共に死を迎える唯一の存在である越前リョーマを、俺は生涯大切にする」

洗礼を終えた『対』同士は、出会った時に“言葉”を与えなくてはいけない。
それが証となる。

「天から与えられた時間を対である手塚国光と共にし、死ぬ時まで大事にするよ」

まるでプロポーズのような制約を交わす。
男でも女でも、『対』には関係ない。
この瞬間から2人には、天から与えられた血よりも濃い魂の繋がりによって生きていく。



「それで、俺の何を試していた?」

誓いの言葉を交わした2人は、漸くテニスコートへ向かい歩き出す。

「俺に見合う“対”なのかどうか…なんてね」

偉そうな態度で人を見下すような台詞を吐いたと思えば、最後には舌を出して子供っぽく笑う。

「どうだった?」

意外と表情が豊かなリョーマに、手塚の方も表情が柔らかくなる。

「…驚くくらいに完璧だね。何だか俺には勿体無いくらいだよ」

「勿体無い?」

「俺さ、いろんな対を見てきたんだ。だから会う時すっごく緊張した」

アメリカのアイオーン正教の聖堂には、幼い頃から通っていた為、様々な『対』と出会った。
いつでも楽しそうな2人は、元々友人だった。
いつでも幸せそうな2人は恋人同士だった。
こんな関係もいれば。
いつでもいがみ合っている2人は、どんな時でも2人の考えが食い違う。
いつでも顔を合わせない2人は、相手を嫌っていた。
一緒にいて本当に幸せなんだと思える対もいれば、本当に一緒にいても大丈夫なのか、と疑ってしまいそうな対もたくさんいた。
ライバルが対になる可能性だってある。
自分に与えられた対と、どんな関係になれるのかは、会わないと始まらない。
でも、どんなにいがみ合っていても、嫌っていても、ライバルでも最後はお互いを必要としていた。

「そうか」

「…で、俺は?」

教えて欲しい、と目で訴える。

「お前で良かった」

きっと、どの対の関係よりも、自分達は上手くやっていける。
そんな自信に満ちた表情で手塚は答えた。

「俺もあんたで良かった」

「…俺には手塚国光という名があるのだが」

先ほどから対であるリョーマに『あんた』呼ばわりされるのが気に入らないのか、手塚は眉をひそめた。

「うん、知ってるよ。俺にも越前リョーマって名前があるしね」

リョーマは、自分の名前を一度も呼ばない手塚に付き合っていただけだった。
今はまだリョーマの方が一枚も二枚も上手だった。

「…俺の事は国光でいい」

見た目に騙されそうになるが、リョーマは幼い頃から自分の力を知っていて使っていた。
今の自分では到底敵いやしない。

「じゃ、俺はリョーマでいいよ、国光」

「あぁ、リョーマ」

でも学校内では名字で呼び合わなくてはならない。
対であろうとも、学校内では先輩と後輩の関係。
「えーと、それじゃ手塚部長でいいのかな?」

「そうだな、越前」

――― あとは2人で『洗礼』を受ければいい。

コートに入るなり2人は質問攻めに遭うのだが、今はまだ何も知らず歩いていた。