5. お犬様

 私の娘(二女)は人変な犬好きです。かつて可愛がっていた犬(サルーキ種)が死んだときには、臨月の御腹をかかえて何時間も自分 のベッドの中でその大きな犬の冷たくなった死骸を抱いて、私達が何と言っても離そうとはしませんでした。
 そして、いよいよ厚木の動物愛護協会が経営する火葬場で荼毘に付すことになっても、その大きな焼却炉の中に犬の枢と一緒に入って しまい、私達を困らせたものでした。
 又、最初に飼ったアフガンファウンドが死んだときにも、まかり間違えば自殺でもしかねないような状態になり、私もその日はとうとう 会社を休まざるを得ませんでした。
 その時娘は鳴咽をこらえながら、私に向かって次のように言ったのを今でもはっきりと覚えています。
 「愛が深ければ深い程、悲しみも又大きいと思う。けれど私はこの犬に対して死ぬまで誰にも負けない愛情をもって飼ったという 自信があるから、けっして後悔はしていない。きっとあの犬は満足して死んだと思う」と。
 それは娘が小学校五年生の時の事でした。
 犬好きな人達が、こよなく可愛がっていた犬に死なれても、その悲しみを乗り越えて又犬を飼うのは、自分程犬の立場に立って、その犬 の真の幸福を考えて飼い通した人間はいないという自信から、少しの悔いも残していないからです。
 幼い子供達が自分の愛情の総てをかけて慈しみ育てている犬が、その腕の中で安心しきって、かすかな寝息をたてている時、その腕の ぬくもりを通して、ほのぼのとした喜びを味わい幸福感にひたることのできるのも、又いつの日か、その小さな小さな生命が尽きて自分の 腕の中で急速に冷たくなっていくときの悲しみを味わい、人間としてけっして避けることのできない、さびしさ、せつなさ、はかなさ、 むなしさを身をもって味わうことになるのも、一匹の愛犬がその一生をかけて私達に与えてくれた御利益だと思います。
 この世の中には、どんなに思ってみても、どうしようもないことがあるということを、そして命がいかに大切な掛け替えのないものかと いうことを、この現実をふまえて犬達は無言のうちに子供達に教えてくれているのです。
 人類が動物を飼うという習性は、太古の時代からあったようで、動物は人間の人格形成上不可欠であり、動物が滅びるときは人類も 滅びるときだという動物論には共感をおぼえます。
 最近問題のオウム真理教のように、人の命を粗末にするというか、ごく無造作に、まるでテレビゲームで人を殺害するのと同じ感覚で 人の命を奪うのは、人の命を観念的にしか理解していないからです。
 昔の人の寿命はたしか三十数年でした。
 従って死と隣り合わせの生活を強いられていた人達は常に死が目の前に見えていて、愛する人の死と直面することによって死の本質を 真剣に考えることができたように思います。
 しかし、最近では人間の寿命も飛躍的にのび、しかもその大半の人が病院で死を迎えるために、実際に自分の家で親兄弟の臨終に 立ち合うという機会がほとんど無く、どうしても死を実感としてとらえることができず、何の罪悪感もいだかずに人を殺し、又自殺の道を選ぶ人がふえてしまったような気がします。  物質優先、経済優先の社会に育った今の子供達は、物の豊かさの中に埋もれて何不自由なく育っていきます。
 せめてそのような時代だからこそ、たんなる愛玩物としてではなく、大切な家族の一員として子供達に犬を飼わせ、犬と一緒に生活 させることによって犬の幸福のために自らの汗を流し、愛情をもって世話をし、犬を通して人間としての最も重要な愛することの大切 さと、命の尊さを植えつける必要があるように思います。

(1996.2)