4. 臍繰り

 今から四百十六年前の天正九年(1581年)一二月二十八日、天下統一を目指す織田信長は、その武威を諸大名に誇示すべく、「馬揃え」 を京の都で盛大に催しました。
 「馬揃え」とは、軍馬を一堂に集めてその優劣を検分し、併せてその調教と演技を検閲して士気を鼓舞するための行事で、本能寺で 明智光秀に殺される前年、当代屈指の駿馬を数多く揃えていた信長の得意絶頂の時のことでありました。
 講談によれば、この馬揃えには、まず信長所有の名馬数頭が先頭をきり、次に各大名自慢の駿馬が続々とそれに続き、その長い馬の行列 も終りに近づいた頃、一際群を抜いて「悍威(かんい) 」あふれる見事な駿馬が入場してきたため、並居る大名や武士達はこの馬の精悍さと威厳に うたれて皆一様に感嘆の声を発したと伝えられております。
 この物語は、いわずと知れた戦前の小学校国定教科書にも載っている、山内伊右衛門(やまのうちいえもん) とその愛馬の晴れ姿だったのです。
 伊右衛門の妻は、その日の食物にも事欠く貧乏暮らしの中で、一朝事ある時のためにと少しずつ蓄えておいたお金で、夫にその駿馬を 購入し、一世一代の馬揃えの舞台に夫を送り出したという美談なのです。
 しかし、この話は、私のような天邪鬼(あまのじゃく) にはどうも釈然としないものがあります。
 何故ならば、非常な貧乏生活のうちから、亭主にないしょで、日本一の名馬が買えるほどの大金をどうやって臍繰ったのかということ です。
 一説には女房殿の持参金の一部も馬の購入代金の中に入っていたようですが、そのように高額の持参金をその時まで亭主にないしょに していた女房が、はたして良妻の鏡といえるでしょうか。
 三十三億円の馬もいるという現在、かなりな調教のついている日本有数の名馬の値段は一体幾らしたのでしょうか。
 まして世は戦国の時代、騎士の命を守り、又殊勲をたてさせることのできる兵器でもある名馬を、完全な売り手市場であったはずの 戦国時代の馬喰(ばくろう) がいったい幾らで貧乏武士に売ったというのでしょうか。
 馬揃えの噂は当然、馬喰の耳にも入っていたはずです。
 この千載一遇の好機に何故金に糸目をつけぬ裕福そうな大名にその話を持ち込まなかったのか不思議でなりません。
 それはともかく、そのような目も眩む大金を貧乏暮らしの中で長年かくしていた女房も立派なら、その女房の臍繰りで買ってもらった 馬に乗って、のこのこと人前に現れた甲斐性なしの亭主も又立派なものだと言わざるを得ません。
 とにかく伊右衛門はその馬のおかげで、その日のうちに信長より二百石の加増をうけ、信長亡きあとも、とんとん拍子に出世して、 ついに二十万石の大大名になりました。
 しかし、大名となった山内一豊は、この一事によっておそらく一生、膳繰り女房殿の尻に敷かれていたに違いないと思うのは私だけ でしょうか。
 もしも、これが事実だとしたら、山内一豊の妻は歴史に残る臍繰り女房第一号であり、戦前の教科書は、女房殿の臍繰りというか 隠し金をこの上ない美徳として日本全国の小学生に教えていたことになります。
 そして、女房殿が、たまたまそのとき、亭主を憎からず思っていたから良かったものの、前の日に夫婦喧嘩でもしていようものなら、 おそらく人名山内一豊はこの世に存在しなかったはずです。
 従って、この国定教科書は、もしも男性として立身出世を望むなら、常々女房殿を大事に取り扱い、臍繰りを上手に取り上げるように すべきだという教訓を男の子に教え、一方女の子には、もしも結婚する時両親が娘に持参金を持たしてくれたとしたら、すぐに結婚相手 の夫には渡さず、本当に自分にプラスになると思われた時にそのお金を使うべきだという教訓を示した点で確かに意義があったように 思います。
 話はかわりますが、先に私は馬の表現として「悍威」という熟語を遣いました。この熟語は広辞苑のような人きな辞書で「かんい」 を引くと、官位・漢医・簡易等、十五、六程の熟語はあっても、この悍威だけは載っておりません。
 しかし馬術用語としては、この悍威は良く遣われる言葉で、非常に的を得た表現だと思います。
 最近、何かと言うと「粛粛(しゅくしゅく) として」という言葉を流行らせている人達の中に、どうも精悍さを備え、しかも常に毅然とした威厳を備えて いる顔というか態度の人が少ないように思います。
 おそらく山内一豊もその(たぐい) であったように思います。
 又、広辞苑の「かんい」の中に「官威」という熟語がありました。これは官府の威力というか官職の権威という意味だとありましたが、 私はこの際「官威」なる熟語は辞書から削除して、是非「悍威」を加えて頂きたいと思います。

(1994.2)