3. 亡き友

 還暦もすぎて四年か五年も経っと、学生時代の友達は勿論、かっての仕事仲問やスポーツを通じての友達から、「今度××の会をする から、ぜひ出席してもらいたい」という手紙が年に何通も舞いこむようになる。
 皆それぞれの人生に一くぎりをつけて、毎日のわずらわしい生活や仕事から解放されてみると、やはり懐しい友人が今どうしている だろうか、一度会って昔話がしてみたいと思うのが人情というものだ。
 御多分にもれずこの私も、そのような会に出席しているうちに、慶應大学の馬術部で何年も一つ釜の飯を食った仲間と久し振りに ゆっくりと昔話がしてみたくなった。
 ところが、よく考えてみると、私が最も会いたいと思う人達、即ち私の卒業した昭和二十七年から昭和三十年卒業迄の四年間の馬術部 の同僚と後輩十一人のうち、数えてみるとすでに五人がこの世を去っていたことに気がついた。
 従って、後に残った私を含めた七人だけが集まって旧交を温めたとしても、結局は死んでしまった五人を含めての思い出話になって しまうのは目に見えており、それならばいっそのこと、残された七人が主になって「亡き友を偲ぶ会」という呼びかけで当時の下級生達 にも案内状を出してみようと考えた。
 昭和二十年代後半の数年間、私達十二人の選手は大袈裟でなく当時の日本馬術界をリードする存在だった。
 全日本学生馬術選手権大会個人の部では一位から三位迄を独占し、全日本選手権をはじめ、国民体育大会でも東京都代表として毎回必ず 二、三種目は優勝するという具合で、当時馬術の三大競技会の一つで皇居内の馬場で天皇・皇后両陛下も御観戦になる東京馬術大会では 慶應の五人の選手がそれぞれ一種目ずつ別々の種目に出場し、その全種目を独占優勝したこともあった。
 それから約四十年、その十二人のうち二人は馬術競技中の事故によって死亡し、あとの三人は癌のためにその短かい一生を終った。
 僅か一、二年の差で兵役を免れた幸運な私達であったのに。
 そして日本男性の平均寿命が七十七歳に迫ろうとしている現在、あまりにも足早にこの世を駆け抜けてしまった懐しい亡き友を偲び つつ、後に残った悪友達が集まって、一夜をゆっくりと語り明かすのも悪くないと考えた。
 早速親しい友人の一人にその事を相談すると彼も大賛成で、この十月二十七日に慶應馬術部の創部七十五周年の記念パーティーが新宿 のホテルであるから、その機会に何人かで打合せをしようという事になった。
 言い出しっぺの私は当日友人と相談すべく「亡き友を偲ぶ会」の企画をいろいろと考え、その案内状(案)も書いていった。

「拝啓
 残雪の候皆様にはお変りもなくお過しのことと存じます。
 さてこの度、慶應義塾大学馬術部出身の昭和一桁生まれの者達数人が話し合った結果、私達と同世代を生きた馬術部の故人、
    森村準二君(昭和五年生)
    佐藤健三君(昭和五年生)
    稲垣 秀君(昭和六年生)
    豊永 浩君(昭和六年生)
    富沢康夫君(昭和九年生)
を偲ぶ会を開催することになりました。この五人の友達と私たちとは、常に一緒に様々な試合に出場してその勝敗に一喜一憂したものでした。
 そして又合宿での楽しくかつ苦しかった思い出等々、彼等の一挙手一投足に至る迄未だに私達の瞼に焼きついて消えることはありません。
 日本男性の平均寿命が七十七歳にならんとしている今日、あまりにも早くこの世を去ってしまった今は亡き五人の友人達、そのありし日を偲びつつ、 私達は生かされている生命の尊さを、しっかりと噛みしめながら、これからの残された日々をいかに有意義に過すべきかを改めて考えな おすことが、死者に対する礼儀のように思えて・・・」

 ところが何としたことか、私が最初に相談し、この計画に賛成してくれた友人が事もあろうに突然の大量下血によって二日前に 癌センターに緊急入院して今日は来ないというのだ。
 死ぬかも知れない心臓の手術を三年前に経験した私は、好むと好まざるとに関係なく毎月一回の病院通いを余儀なくされ、又年二回の 精密な人間ドックを欠かしたことがありません。
 つい三か月程前、私の家に遊びに来たその友人に、「お前も今は元気そうに見えるけど、たまには健康診断をうけた方が良いぞ」と いったところ、身長1メートル80センチ、体重100キログラムの彼は、「おれは絶対に人丈夫だ、お前こそ大手術をしたのだから 危険な馬術競技にはもう出場するな」と、明るく笑った顔が目さきにちらついて、どうしてあの時病院行きをもっと強く勧めなかった のかと悔まれまれました。
 相談相手の突然の入院を聞かされた今、「亡き友を偲ぶ会」を早くやった方がいいのか、それとも一時中止すべきなのか、結論の出ぬ ままこの件は誰にも話すことなく何ともやり切れない気持で家に帰りました。
 もう一ケ月で又新しい年が始まります。
 今年のカレンダーもあますところあと一枚。
 来年のカレンダーはお金さえ出せば、自分の好きなものがいくらでも手に入ります。
 しかし、「諸行無常」の喩えの如く、私達は来年も自分達が望むような「美しい人生のカレンダー」を果して手に入れることができる でしょうか。
 仏様によって生かされている私達は、来年も又、人事をつくして天命を待つというより、天命を待って私達に与えられた一日一日を 懸命に生きることで、去年より少しでも良い人生のカレンダーを手に入れるように努力したいものです。
 そしてこのことが今は亡き両親をはじめ懐かしい五人の友達に対する礼儀のようにも思えるのです。
 どうか来年も良い年でありますように。

(1995.12)

[追録]  癌センターに入院していた友人は幸いにも手術によって健康を取り戻したので「亡き友を偲ぶ会」を当初の計画通り1996年4月5日、 前記五名の他、昭和十年以降に生まれた慶應義塾大学馬術部出身者の内、亡くなった五名の方達(狩野明男君・稲井昭雄君・武井裕君・ 富田英二君・羽川攻君)も追加して、合計十名の方々の未亡人を御招待し、その年代の 馬術部OBに呼びかけたところ二百名近い出席者があり盛会であった。
 因に今回の十名の平均寿命は五十一歳、それぞれの未亡人に故人の写真を拡大し、私の般若心経の写経とともに額に入れて御持ち帰り 頂いた。
 心より故人の御冥福をお祈り致します。           合掌