6. 常 識

 「毎年四月上旬に上野の東京都美術館で、日彫展というのが開催されて、誰でも作品を出すことができるから、西村さんも作品を 持っていかれてはどうですか」と石膏取りのI先生に言われ、趣味とはいえ一応彫塑らしきものを始めたからには、一生に一度ぐらい 上野の美術館に作品を出すのも悪くない話だと思い、二か月程かけて私の理想とする馬の像を作成した。
 それから数日後、日彫展の搬入日当日、I先生紹介の美術品専門の運送会社によって私の馬像は慎重にトラックに積まれて家を出た。
 ところで日彫展の開催される東京都美術館とは、はたして上野のどの辺にあるのか、又私の作品がどんな場所に陳列されるのか非常に興味 があった私は、作品を見送ってから早速電車で上野迄出かけることにした。
 美術館の地下にある広い会場では、日本全国から搬入された五百点をこす大小様々な彫刻が正規の陳列を前にどんどんと運び込まれて おり、その彫刻のあいだを大勢の彫刻家や会場を設営する人達が忙しそうに働いていた。
 何となく場違いな処へ迷い込んだような気がして、早々に立ち去ろうと事務室の前を通りかか ると、受付の机の上に「第二十四回、日彫展」の招待状が積まれているのが目についた。
 「頂いてもいいですか」とおそるおそる係の人に尋ねると、「どうぞどうぞ、沢山持っていって下さい」と大変に気前が良い。
 それではと勇気を出して7〜80枚頂いて、早速親戚をはじめ友人知人に「何日と何日は私も会場におりますから、ぜひ見に来て下 さい」と一枚一枚コメントをつけて発送してしまった。
 そして翌日、出品をすすめてくれたI先生に「お蔭様で昨日無事搬入し、招待状も今日皆に出しました」と報告すると、「え!  もう招待状まで出しちゃったのですか? 今日か明日、日展の先生方が審査をして、はじめて入選が決まるので、もし落選したら、 二日以内に作品を引き取らねばならないんですよ」と言われて、急に目の前が真暗になってしまった。
 「誰でも出すことができる」というのは、「誰でも応募できる」ということで、「誰でも出品できる」ということではなかったのである。
 芸術作品には程遠い私の馬像等、偉い芸術家の審査を受けると知っていたら、絶対に持っていかなかったのに、彫塑らしきものを独学で 始めてから僅か三年半、しかも全くの無所属の新人が入選する可能性はまず零に等しいと思わずばなるまい。
 かと言って、今更招待状を出した人達に、実は落選したので私の作品は美術館にはありません、従って私も会場には行っておりません と一人一人に言い訳をするのも間の抜けた話で、何とも情なく、自分の粗忽さ加減を衆人に公表してしまったことになり、この結末を一体どうつけたらい いのかと心は千々に乱れるばかり。
 あれこれ悩み抜き、考え疲れて遂に寝られぬ一夜を明かした次の日、日本彫刻会からの速達が届けられた。
 見るまでもないと封も切らずにいたら、しばらくして女房が顔を上気させながら私の部屋に入って来た。
 なんと封筒の中身は入選通知書だったのだ。
 まるで夢を見ているような気がして、早速その手紙を仏壇に供え、お線香に火をつけて御先祖様に手を合わせた。
 かくして約半月問の日彫展も無事に終り、今回のこの出来事を冷静に、そして常識的にふり返ってみると、日本全国の何万人とも 知れぬ老若男女のプロの彫刻家が、一年の努力の成果を世に問う数少ない全国規模の日彫展に、作品を持ちこみさえすれば誰でも展示して くれると思いこんだこと自体、非常識も甚だしいと言わざるを得ない。
 しかし、「誰でも出せますよ」という言葉から受けるニュアンスは、「誰でも出品できますよ」と解釈するのが一般的判断の常識の ような気もする。
 更に当時の1先生の言葉を正確に思い出してみると、彼は「誰でも作品は出せますよ、ひょっとすると入選するといいですね」と言って おり、作品を搬入した夜、私は女房に「I氏は、ひょっとして入選するといいですねと言われたが、日彫展には西望賞とか奨励賞とか いろいろあるらしいけれど、新人賞でもとれるといいね」と言ったことを思い出して、知らぬこととは言いながら、ここまでくると馬鹿 もつき当たりだと一人苦笑してしまった。
 素人の入り込む余地の少ない彫刻の世界では、日彫展とか日展にその作品が出品されるには厳正な審査のある事は一般常識となっているのだ。
 広辞苑によれば「常識」とは普通一般の人が持ち、また持っているべき標準的知力。専門的知識でない一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む、となっている。
 しかし「一般の人が持っている標準的知力」といわれても、一体何が標準的知力で何が非標準的知力なのか、その判定は非常にむずかしいことではないだろうか。
 往々にして自分の属している狭い社会の中だけの知識を基準にして軽々に「あの人は非常識な人だ」と決めつけてしまう傾向があるが、 そのことこそ非常識だと言うことになりはしないだろうか。
 それと同様、何が正しく、何が正しくないか、ということも、実は万国共通の基準があるわけでなし、どうも世間一般には自分に有利な ことが正しく常識的で、自分に不利なことは総て不正であり非常識だという解釈がまかり通っているように思えてしかたがない。
 アイヌ人は、何日も家を留守にする時、けっして家に鍵をかけないという。
 吹雪に遭って遭難しそうな見知らぬ旅人のために、どうぞ私の家に入って暖をとり、自由に温かい食事を食べて吹雪の止むまでお宿り 下さいという意味で鍵をかけずにおくのだという。
 論語に「己の欲せざる所は人に施すことになかれ」という有名な文句があるが、常にきびしい大自然の中で何代にもわたって暮らして いるアイヌの人達は、この文句を「己の欲する所は進んで人にも施すべき」と解釈して、家を留守にする時には鍵をかけないのが彼等の 一般常識となっているのだ。
 「あの人は非常識な人だ」と軽々に決めつける前に、まず自分の常識ではこうだけれど、あの人の育った環境、あの人の住んでいる 世界では果してこれが常識と言えるかどうか、と一応人の身になって判断することの大切さを教えられた貴重な日彫展であった。

(1994.6)