妻と二人の娘がピアノを弾
く関係で、私も年に2〜3度は義理で音楽会に付き合わされる。
私も娘二人を音大のピアノ科に入れたぐらいだから、良い音楽を聴くのは嫌いではないし、又若干は西洋音楽を私流に楽しむ術を心得
ているつもりだ。
音による芸術である音楽は、やはり生
の良い音を聴いて幸福な気分に浸ることが演奏者に対する礼儀というものだろう。
ところが、コンサートが終って良い気持で帰りかけると、必らずといっていい程「あそこの音をはずしたとか、あそこの解釈が違う
ように思う」等という聞えよがしの批評が耳に入ってくる。
そのような会話を聞くにつけ、この人達は良い音楽を聴いて心のリフレッシュを図りたくて音楽会に来たのではなく、ピアノ・
コンクールの審査員になりたくて音楽会に来たのかも知れない、そればかりか、せっかく高いお金を払って来たのだから、より多くの
ミスを発見しなければ損だとばかり、気の進まない演奏者に幾度となくアンコールの拍手を繰り返すのではなかろうかとさえ思えてくる。
そして、これらの審査員達は演奏者のどんな些細なミスをも聞きもらさなかったという満足感
をいだきながら家路につくに違いない。
楽しみのために行った音楽会で、もしも下手な、自分の好みに合わない演奏を聞かされたとしたら、だまって一人会場の外へ出るべき
なのだ。
人の粗
を探すかわりに、何故演奏者の勝れたところを少しでも吸収しようと思わないのか不思議でならない。
そもそも、日本の音楽学校の第一号である東京音楽学校は、1887年に設立されたが、その前身は1879年(明治十二年)我が国音楽教育
の先駆者といわれる伊沢修二が、文部省の中に、官立音楽研究.調査機関として「音楽取調掛」という部署を設けて、音楽の教科書作成や
音楽教員の養成を行なったが、その部署が後に東京音楽学校と改編されたと聞いている。
従って私のような「旋毛
曲がり」は、音楽学校の教育の根底に、いまだに音楽取調べ的要素が残っているのではないかと邪推したくも
なってくる。
私達の人生は私達の貴重な限られた時間によってつくられる。
その限られた時間をさいて聴きにきた音楽会なら、せめて楽しい一時を過ごすか又は自分のピアノにプラスになるなにものかを掴んで
帰りたいと思うべきだ。
電力の鬼、松永安左衛門は「六十にして耳順
う」をモットーに「耳庵」と号して、耳から入る様々な情報を自分の栄養としたという。
私達も松永翁にあやかって耳から入る音の芸術を豊かな心の栄養にしたいものだ。
しかし、経済大国日本を築きあげた会社人間達の中には、芸術を楽しむ余裕の持ち合わせのない人達もいて、ややもすると仕事を一杯
かかえて仕事に振りまわされる状態を良しとする傾向がある。
そして忙の中に完全に埋没して、ついには忙しさを生き甲斐と勘違いするようになってしまう。
長生きしたければ「喫茶去
」、そんなにあわてることもあるまい。まあお茶でも一杯どうかね(趙州禅師)といきたいところだ。
馬だって根
をつめて乗っていても、どうしても思い通りに動いてくれないような時、ちょっと一息入れた後の馬の動きには時として
鳥肌が立つような美しい動きをすることがある。
誰が言ったか忘れたが、欧米人と日本人の「閑」に関する考え方の違いを非常に面白く表現したものがあった。
日本人の場合
一位 金持閑無し
二位 貧乏閑無し
三位 金持閑有り
四位 貧乏閑有り
欧米人の場合
一位 金持閑有り
二位 金持閑無し
三位 貧乏閑無し
四位 貧乏閑有り
だそうだ。
どうも日本人は閑を持つことにある種の罪悪感をいだく傾向があるようだ。
私などはお金にはあまり縁がないから、食べる心配さえなければ、「貧乏閑あり」が一番性に合っているように思うのだが。
ただここで問題なのはその閑をどう生かすかということで、「小人閑居して不善をなす」の閑では人生何のプラスにもならないが、
少しでも無駄と思える時間、マイナスになる時間を節約して、プラスに転化する可能性のある閑をつくる事が大切だと思う。
今から十数年前、父の死後、その遺品を整理していたら、一葉の名刺が出て来た。
その人の肩書きは、RETIRED。名刺の四隅にそれぞれ NO PHONE. NO ADDRESS. NO BUSINESS. NOMONEY と印刷されていた。
彼は名刺の通り、会社をリタイヤーしてから、アメリカに定住することなく、世界中を旅しな
がら、気が向けば一か国に何か月も滞在するという具合に自分の残された人生を大いに楽しんでいたらしい。
旅の途中、日本に立ち寄った時、父に会ったのだろう。裏に彼の筆跡で今まで旅した国の名前が五か国書いてあった。
この名刺を捨てずにおいたところをみると、語学に堪能だった父もまたこの生き方を最終の目標としていたのかも知れない。
しかし不幸にして不肖の息子をもったばっかりにその目的を果すことなくあの世に旅立ってしまった。
世の中には羨ましい人もいたものだと、以来この名刺は常に私の名刺入れに大切に保管されることになった。
(1996.9)